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小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」

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小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」

小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - )は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉で情報将校だった。陸軍中野学校二俣分校卒。太平洋戦争終結から29年目(1974年)にしてフィリピンルバング島から帰国を果たす。

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陸軍見習士官だった頃の小野田寛郎

*****************************************************

小野田少尉は、29年間、ずっと戦争を続けていました。

小野田氏は1922年3月19日和歌山県海南市生まれ。中国で商社マンをしていま
したが招集後、陸軍中野学校でゲリラ戦の訓練を受けたあと、1944年フィリ
ピンに派遣され、ルバング島で残置諜者となるよう命令を受けました。しか
し戦争が終わった後、彼らに任務終了の命令が届きませんでした。

当初のメンバーは4名。小野田と、島田伍長、小塚上等兵、赤津一等兵です。
このうち1949年、赤津一等兵が投降したことにより、このグループの存在が
明らかになりました。しかしなかなかその所在をつかむことはできませんで
した。

1952年、朝日新聞の辻豊記者が「戦争は終わりました。出てきてください」
と叫びながらジャングルの中を歩き回りますが、小野田らは米軍の謀略では
ないかと考え、出ていきませんでした。

1954年、地元の軍隊と武力衝突。この時、島田伍長が戦死します。

1959年には小野田氏のお兄さんが捜索に向かい、本人であることを知らせる
ため、旧制一高の寮歌を歌いましたが、彼らを信用させることはできません
でした。この捜索が芳しくなかったことから、政府は残りの二人も1954年の
戦闘で死亡したのではないかと推測。

しかし1972年、また地元民と衝突。戦闘が起きて、小塚上等兵が戦死します。
この時一人逃げた人がいたという証言から、残る小野田氏が生きている可能¥
性があるとして、再び捜索隊が組織されますが、見つけることはできません
でした。

この小野田氏を帰国に導いたのは、冒険家の鈴木紀夫氏です。

鈴木はルバング島のジャングルにテントを張っていて、この年の2月20日、
偶然小野田と遭遇。ここで一晩掛けて小野田と話し合い、彼に戦争が終わっ
たことを語り、一緒に日本に帰りましょうと説得
しました。しかし小野田は
自分は命令を受けてここに残留しているから、その命令が解除されない限り
勝手に帰るわけにはいかないと
言います。

そこで鈴木は、小野田の上官となんとか連絡を取ってみるから、後日、もう
一度会って欲しいと要請。小野田も同意して、3月10日、もう一度会うことに
なりました。そして、この日、約束通りの場所に現れたのです。

(小野田さんの、ほぼ30年間のジャングル生活の中で、その暦はほと
んどずれていなかったそうです。昔の人というのは大したものです)


ルパング島で発見された当初の小野田寛郎さん。

直立不動の「執銃(たてつつ)」の姿勢が、

小野田さんの戦争が終わっていなかったことを物語っている

1974年2月21日、鈴木紀夫さん撮影



鈴木からの連絡で小野田の元上官・谷口義美少佐が急遽ルバングに赴きまし
た。そして、この日現れた小野田に、残留命令の解除を伝え、長年の任務遂
行の労をねぎらったのです。小野田は3月12日、鈴木らとともに帰国します。

帰国後政府はせめてもの慰労金として100万円を渡そうとしますが、誇り高き
小野田は拒否。どうしてもというので、彼はこれを靖国神社に寄付してしま
います。そして天皇や首相との会見を断り、真っ先に戦闘で亡くなった部下、
島田と小塚の墓参りに行きました。彼は義理を通す人でした。

そして1年後彼はブラジルにわたり、牧場経営を手がけます。そしてそれを
成功させ、大牧場主となってから再び日本に戻り、現在は「小野田自然塾」
を主催して、子供たちにアウトドア生活の指導をしています。

小野田さんは厳しい運命の濁流の中、自分の生き方を常に模索し、常に
困難と闘い続けています。ですから小野田にとってはジャングルの中での30
年というのも無意味な時間ではなかったのです。

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私が見た従軍慰安婦の正体

「正論」一月号より

 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴¥言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十¥年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表¥する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。
 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表¥することが出来るのだ。

 ◆漢口の「慰安所」を見学

 商社員として十¥七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。

難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。


 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅¥頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。

 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。

 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。


 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十¥七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

 ◆どこにもいなかった「性的奴隷」
 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺¥的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

 当時、漢口周辺には約三十¥三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十¥三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十¥三万人で総額約百三十¥二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十¥四機分にも相当する。


 サラリーマンの初任給が四十¥円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。

 私が漢口を去った昭和十¥七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。

「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。


 ◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

 次に、軍関与の暴¥論について証言する。 私は二十¥歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予¥備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。

 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十¥キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十¥四時間である。
 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予¥防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予¥防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。

 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。


 もう六十¥年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。

 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。

 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。

「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能¥なのだろうか。
 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。

「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。

 「正論」一月号より

******************************************************

勿論、小野田氏が戦場に存在する全ての「慰安所」の内容を

把握していたとは、思わない。

しかし、戦争が終わって30年、旧日本軍人として、

戦ってきた人の発言に、重いものを感じざるを得ない。

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翻訳を見る

오노다 히로오 「내가 본 종군위안부의 정체」

오노다 히로오 「내가 본 종군위안부의 정체」

오노다 히로오(오노다 히로, 1922년 3월 19일 - )는, 일본의 육군 군인.계급은 육군 소위로 정보 장교였다.육군 나카노 학교 후타마타 분교졸.태평양전쟁 종결로부터29년째(1974년)로 해 피리핀르방섬으로부터 귀국을 완수한다.

 

육군 견습 사관이었던 무렵의 오노다 히로오

*****************************************************

오노다 소위는, 29년간, 쭉 전쟁을 계속하고 있었습니다.

오노다씨는 1922년 3월 19 날씨노래 야마가타 카이난시 태생.중국에서 상사 맨을 해 지금
했지만 소집 후, 육군 나카노 학교에서 게릴라전의 훈련을 받은 뒤, 1944년 피리
핀에 파견되어 르방섬에서 남겨 둠 첩자가 되도록(듯이) 명령을 받았습니다.밖에
해 전쟁이 끝난 후, 그들에게임무 종료의 명령이 닿지 않았습니다.

당초의 멤버는 4명.오노다와 시마다 하사, 코즈카 상등병, 아카츠 일등병입니다.
이 중 1949년, 아카츠 일등병이 투항한 것에 의해, 이 그룹의 존재가
밝혀졌습니다.그러나 좀처럼 그 소재를 잡을 수 없지 않아
했다.

1952년, 아사히 신문의 츠지 유타카 기자가 「전쟁은 끝났습니다.나와 주세요」
(이)라고 외치면서 정글안을 걸어 다닙니다만, 오노다등은 미군의 모략에서는
없을까 생각해 나가지 않았습니다.

1954년, 현지의 군대와 무력 충돌.이 때, 시마다 하사가 전사합니다.

1959년에는 오노다씨의 형(오빠)가 수색으로 향해, 본인인 것을 알린다
모아 두어 구제한고의 기숙사 노래를 불렀습니다만, 그들을 신용시킬 수 없습니다
(이었)였습니다.이 수색이 좋지 않았던 것으로부터, 정부는 나머지의 두 명도 1954년의
전투로 사망 한 것이 아닐까라고 추측.

그러나 1972년, 또 본주민 충돌.전투가 일어나고, 코즈카 상등병이 전사합니다.
이 때 한 명 도망친 사람이 있었다고 하는 증언으로부터, 남는 오노다씨가 살아 있는 가능
성이 있다고 하여, 다시 수색대?`조직 됩니다만, 찾아낼 수 없습니다
(이었)였습니다.

이 오노다씨를 귀국으로 이끈 것은, 모험가 스즈키 유키오씨입니다.

스즈키는 르방섬의 정글에 텐트를 치고 있고, 이 해의 2월 20일,
우연히 오노다와 만남.여기서 하룻밤 걸고 오노다와 서로 이야기해, 그에게전쟁이 종원
연을 말해, 함께 일본에 돌아갑시다라고 설득
했습니다.그러나 오노다는
자신은 명령을 받아 여기에 잔류하고 있기 때문에, 그 명령이 해제되지 않는 한
마음대로 돌아갈 수는 없다고
합니다.

거기서 스즈키는, 오노다의 상관과 어떻게든 연락을 해 보기 때문에, 후일, 이제(벌써)
한 번 만났으면 좋겠다고 요청.오노다도 동의 하고, 3월 10일, 한번 더 만나는 것에
되었습니다.그리고, 이 날, 약속대로의 장소에 나타났습니다.

(오노다씨의, 거의 30년간의 정글 생활속에서, 그 달력와
어긋나지 않았다고 합니다.옛날 사람이라고 하는 것은 대단한 것입니다)


르팡섬에서 발견된 당초의 오노다 히로오씨.

직립 부동의 「집총(세우면서)」의 자세가,

오노다씨의 전쟁이 끝나지 않았던 것을 이야기하고 있다

1974년 2월 21일, 스즈키 유키오씨촬영



스즈키로부터의 연락으로 오노다의 전 상관·타니구치의미소좌가 급거 르방부‚デ

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