2017年5月2日に、kjに行った、「大磯(ooiso)散歩&食べ物」と言う投稿の写真が、kjのバグ(不具合)により、全て、見られなくなってしまった為、再投稿です。
以下の、写真、及び、投稿文は、基本的に、2017年5月2日に行った、「大磯(ooiso)散歩&食べ物」と言う投稿、そのままの物となっています。したがって、投稿文は、全て、2017年5月2日の投稿を前提に書かれています。
先々週、彼女と、旧(かつての)吉田 茂(yoshida shigeru)の、大磯(ooiso)の別荘を訪れた時(以下、この日と書きます)の物です。
以下、しばらく、参考に(この投稿に、直接、関係がある物ではありません)、前の、私の、kjの投稿から、抜粋して、伊藤
博文(itou hirobumi)、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)、柳原 白蓮(yanagihara
byakuren)、松方 正義(matsukata masayoshi)について紹介します。
参考に、芸者(geisha)に関しては、この投稿を、参照して下さい→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/2382304/page/2?&sfl=membername&stx=jlemon

写真は、借り物。伊藤 博文(itou hirobumi)。1841年生まれ。1909年に亡くなる。日本の、有名な、政治家。貴族(公爵)(山口(yamaguchi)県(日本の西部に位置する県)の、侍(samurai)系の貴族)。以下、伊藤 博文(itou hiribumi)に関する説明は、wiki等を、参考にしました。伊藤 博文(itou hirobumi)は、韓国の方は、ご存じの通り、歴史的な経緯等から、韓国では、悪名が高い人物です(悪い意味で、有名な人物です)。以下、おそらく、韓国では、あまり知られていない、日本国内における、伊藤 博文(itou hirobumi)について、少し、紹介したいと思います。伊藤 博文(itou hirobumi)は、私生活においては、非常に、女好き(女が、好き)として有名で、非常に、たくさんの愛人(妻以外に、交際している女性)がいた様です(愛人(妻以外に、交際している女性)は、数え切れない程いた様です)。40度の熱が出て、うなされていた時(意識が薄らいでいた時)も、両側に、二人の、芸者(geisha)を、付き添わせていた様です。伊藤
博文(itou hirobumi)は、女性の、教育に、とても熱心で、「女子教育奨励会創立委員会」を創設し、日本の、女性の教育の、推進に、熱心に取り組みました。東京女学館(1888年に開校。東京にある、私立の、女子小学校・女子中学校・女子高校(生徒が、女性だけの、小学校・中学校・高校)・女子大学(生徒が、女性だけの大学)。学生数の、減少により、大学は、2016年に閉鎖)を、自ら、創立すると共に、他の、日本の、私立の、女子大学(生徒が、女性だけの大学)を、創立しようとする人々も、熱心に支援しました。伊藤 博文(itou hirobumi)は、最高位の、貴族(公爵)で、とても、お金持ちでしたが(おそらく。。。)、衣食住(着る物(衣服)と、食べる物(食事)と、住まい(住居・家))には、頓着しない性格であった(質素・粗末であっても、全く、構わない性格であった)様です。伊藤 博文(itou hirobumi)と親しく交流していた、貴族・政治家は、伊藤 博文(itou hirobumi)の家に、食事に招かれても、質素・粗末な食事ばかりで、当惑・苦労した様です。また、物にも執着せず、他人から、非常に高価な、希少な(珍しい)品物を、貰っても、惜しげもなく、他人に譲ってしまうような性格であった様です。

写真は、借り物。柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)。1850年生まれ。1894年に亡くなる。日本の貴族(侯爵)。大正(taisho)天皇(日本の、第123代の天皇。1879年生まれ。1926年に亡くなる)の、伯父。伊藤 博文(itou hirobumi)と、愛人(妻以外に交際する女性)として、当時、16歳であった、芸者(geisha)を奪い合い、結局、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)が勝ち、その、芸者(geisha)と交際する事になった。

写真は、借り物。柳原 白蓮(yanagihara byakuren)。1885年生まれ。1967年に亡くなる。東洋英和(toyoeiwa)女学院(1884年創立の、日本の、私立の、女子小学校・女子中学校・女子高校(生徒が、女性だけの、小学校・中学校・高校)・女子大学(生徒が、女性だけの大学))を、卒業。日本の、女性、歌人(日本の、伝統的な詩(poetry)の、詩人)。前述の通り、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)と、伊藤 博文(itou hirobumi)は、愛人(妻以外に交際する女性)として、当時、16歳であった、芸者(geisha)を奪い合い、結局、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)が勝ち、その、芸者(geisha)と交際する事になったのですが、その芸者(geisha)と、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)の間に生まれた娘が、柳原 白蓮(yanagihara byakuren)です。

写真は、借り物。松方 正義(matsukata masayoshi)。1835年生まれ。1924年に亡くなる。身長は、172cmと、当時の、男性としては、比較的、長身であった。日本の、有名な、政治家・貴族(公爵)(鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の南部に位置する県)の、侍(samurai)系の貴族)。松方 正義(matsukata masayoshi)も、伊藤 博文(itou hirobumi)に負けず劣らず(と言うか、伊藤 博文(itou hirobumi)に勝る程の)、非常に、女好き(女が好き)として知られ、伊藤 博文(itou hirobumi)とは、女好き(女が好き)と言う、共通の性格から、話が合い、私生活においても、よく交流していた様です。松方
正義(matsukata masayoshi)は、妻以外の、子供も含めて、26人の子供(男の子15人、女の子11人)がいて(最後の子供は、松方 正義(matsukata
masayoshi)が、69歳の時に、愛人(妻以外に、交際している女性)との間に出来た子供)、少なくとも、金銭面においては、全ての、子供の面倒を、しっかりと見ていた様です(全ての、子供の世話を、しっかりとしていた様です)。松方 正義(matsukata masayoshi)は、或る日、天皇から、何人、子供がいるのかと尋ねられたが、咄嗟に(すぐに)、思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます(調査をしてから、後日、報告します)」と答えたと言う逸話(anecdote)が残っています。
以下、この投稿に関連して、吉田
茂(yoshida shigeru)と、吉田 茂(yoshida shigeru)に関連する人物として、牧野 伸顕(makino
nobuaki)、近衞 文麿 (konoe fumimaro)、 白州 次郎(shirasu jiro)、白州 正子(shirasu
masako)について紹介します。なお、これ等の人物に関する説明は、wiki等を、参考にしました。

写真は、借り物。吉田 茂(yoshida shigeru)の父(実際の父親)、竹内 綱(takeuchi tsuna)。1840年生まれ。1922年に亡くなる。日本の、政治家(国会議員)・実業家・自由民権(自由主義・民主主義)運動家。高知(kochi)県(四国(shikoku)(日本の南西部)に位置する県の一つ)の、侍(samurai)階級出身。実業家としては、日本国内で、複数の炭鉱を経営すると共に、(韓国の方達には、良い話ではありませんが)、当時、日本が、資本的な支配を進めていた、韓国において、19世紀後期から1900年代初め頃にかけて、京釜線(Gyeongbu Line)(1905年に開業)を運営する会社等の経営幹部として活動を行い、韓国の鉄道事業を統合する等した。

写真は、借り物。吉田
茂(yoshida shigeru)の、義理の父親。吉田 健三(yoshida
kenzo)。1849年生まれ。福井(fukui)県(日本の中部地方に位置する県)の、侍(samurai)階級出身の、日本の、貿易商人で、横浜(下の補足説明参照)の、貿易商人。横浜の、大金持ち(非常な、金持ち)であったが、1889年、病気により、40歳の若さで亡くなり、当時、11歳であった、義理の息子、吉田
茂(yoshida shigeru)に、多大な遺産を残した。
横浜:神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県)の、中心都市で、東京圏の、海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町。東京圏で、東京中心部(東京23区)に次いで、第二の人口を有する都市。
写真以下3枚(写真は、借り物)。吉田 茂(yoshida shigeru)。吉田 茂(yoshida shigeru)は、とても小柄で、丸々とした(太った)体格で、葉巻(cigar)を、こよなく(とても)愛しており(第二次世界大戦中において、外国からの輸入が、不自由であった時も、第二次世界大戦前において、大量に買い溜めして置いた、高級な、輸入、葉巻(cigar)を、たくさん吸っていた様です)、その風貌(体格等の、外貌の全体的な雰囲気が)、Winston Churchillに似ていた事から(まあ、Winston Churchillも、比較的、小柄でしたが、それでも、吉田 茂(yoshida shigeru)よりは、かなり大きな体でしたが)、日本の、Winston Churchillと呼ばれる事もあったそうです。

少年の頃の、吉田 茂(yoshida shigeru)。

間違っていたら、申し訳ありませんが、1951年、サンフランシスコ(San
Francisco)平和条約(Treaty of Peace with
Japan。日本と連合国との間の「戦争状態」の正式な終結、連合国による、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権の、正式な承認(日本国民の主権の、完全な回復)等を要旨とした条約)に?、署名をする、吉田
茂(yoshida shigeru)。

吉田 茂(yoshida shigeru)(1878年生まれ。1967年に亡くなる)は、第二次世界大戦前は、外交官、第二次世界大戦後は、政治家として活躍した、日本の、外交官・政治家です。1878年、竹内 綱(takeuchi tsuna。日本の、政治家・実業家・自由民権運動家)の五男として生まれました。吉田 茂(yoshida shigeru)の母(実際の母親)は、竹内 綱(takeuchi tsuna)の妻ではなく、吉田 茂(yoshida shigeru)は、竹内 綱(takeuchi tsuna)と、竹内 綱(takeuchi tsuna)の、愛人の芸者(geisha)との間に生まれた、私生児(結婚関係の無い者の間に生まれた子供)であり、竹内 綱(takeuchi tsuna)の親友である、吉田 健三(yoshida kenzo)(横浜の、大金持ち(非常に金持ち)の貿易商人)の庇護の下で生まれた様です。
1881年、吉田
茂(yoshida shigeru)は、吉田 健三(yoshida kenzo)の養子となりました。養父の、吉田 健三(yoshida
kenzo)は、40歳の若さで、病気により亡くなり、吉田 茂(yoshida shigeru)は、若干11歳で、多大な遺産を相続しました。吉田
茂(yoshida shigeru)は、少年期は、義母に厳しく育てらました。吉田 茂(yoshida
shigeru)は、1897年に、学習院(gakusyuin)(東京の、私立大学の一つで、東京で、昔から、上流階級・金持ち・富裕層・比較的、裕福な中流階級の子供が、多く通う大学の一つ。天皇家、及び、天皇の親族の、子供は、伝統的に、通常、学習院(gakusyuin)に通い、卒業する)に入学、1904年に、東京帝国大学(現在の東京大学)に移り、1906年、東京帝国大学、政治科を卒業。吉田
茂(yoshida
shigeru)は、同年、外交官及び領事官の試験に合格しました。当時、外交官としての、花形(目立つ存在)は、欧米勤務であったが、吉田
茂(yoshida
shigeru)は、外務省に入省後(外務省に勤務し出してから)、約20年(1906年から1928年)の多くを、中国大陸で過ごしています。日本の中国政策については、吉田
茂(yoshida
shigeru)は、強行論者であり、満州(Manchuria)地域における、日本の権益を巡っては、しばしば、軍部(日本軍)よりも、強行でした。ただし、外交的には、イギリス・アメリカとの関係を重視し、この頃、第一次世界大戦から立ち直り、急速に軍事力を強化していた、ドイツとの接近は、常に警戒していた為、吉田
茂(yoshida shigeru)は、義理の父親(妻の父)である牧野 伸顕(makino
nobuaki)との関係と共に、枢軸(axis)派からは、「親英米派(親イギリス・アメリカ派)」とみなされました。吉田
茂(yoshida
shigeru)は、在イギリス日本大使(1936年から1939年)としては、イギリスと日本の親善を目指しますが、極東情勢の悪化の前に無力でした。吉田
茂(yoshida shigeru)は、日本とドイツの間の日独防共協定(Anti-Comintern
Pact)及び、日本・ドイツ・イタリア三カ国の日独伊三国同盟(Tripartite Pact)にも、強硬に反対しました。
吉田
茂(yoshida
shigeru)は、1939年に外交の一線は退いたが、日本が、アメリカとの戦争を始める(第二次世界大戦に参戦する)前は、在日本アメリカ大使やアメリカの外務大臣らと頻繁に会談し、アメリカとの戦争阻止を目指しました。吉田
茂(yoshida shigeru)は、第二次世界大戦中は、牧野 伸顕(makino
nobuaki)、(日本の、元(かつての)総理大臣(prime minister)(前(前の)総理大臣(prime minister))の)近衞
文麿 (konoe
fumimaro)(とても有力な貴族の家出身。後で紹介します)等の重臣グループの連絡役として、和平工作に従事しました。1942年の、日本軍の、シンガポール占領と、ミッドウェーの海戦(Battle
of Midway)における敗北を、和平の好機と見た、吉田 茂(yoshida shigeru)は、近衞 文麿 (konoe
fumimaro)と共に、スイスに赴いて、イギリス・アメリカと和平交渉を行う計画を建てるが、実現しませんでした。その後、吉田 茂(yoshida
shigeru)は、近衞 文麿 (konoe fumimaro)等と、近衛(konoe)上奏文(1945年2月に、近衞 文麿 (konoe
fumimaro)は、天皇に対して、早期和平を主張する「近衛(konoe)上奏文」を奏上した。この上奏文は、和平推進を、天皇に対し、徹底して説くものであり、第二次世界大戦中の、日本の言論統制状況においては、きわめて異例のものであった。天皇は和平推進については理解を示したが、近衞
文麿 (konoe fumimaro)が、和平推進のために求めた、陸軍内部の粛清に関しては却下している)につながる終戦策を検討。しかし、吉田
茂(yoshida
shigeru)は、スパイ(spy)によって、1945年2月の近衛(konoe)上奏文の奏上に協力したことが露見し、憲兵隊に拘束されました。吉田
茂(yoshida
shigeru)は、40日後に仮釈放(ちなみに、拘束中の待遇は、独房で、外部からの差し入れは自由で、比較的、自由で、恵まれた待遇でした)、後に不起訴とされました。この戦時中の受難が、逆に戦後は幸いし、吉田
茂(yoshida shigeru)は、連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied
Powers)の信用を得ることになりました。
1945年9月に、第二次世界大戦直後の日本の内閣である東久邇宮(higashikuninomiya)内閣の外務大臣に就任し、政治家としての経歴をスタートさせた(政治家としての道を歩み始めた)、吉田
茂(yoshida shigeru)は、1946年5月に、日本の総理大臣(prime minister)に就任しました。以後、吉田
茂(yoshida
shigeru)は、1946年5月から1947年5月まで、1948年10月から1954年12月まで、日本の総理大臣(prime
minister)を務めました。吉田 茂(yoshida shigeru)は、1951年、サンフランシスコ(San
Francisco)平和条約(Treaty of Peace with
Japan。日本と連合国との間の「戦争状態」の正式な終結、連合国による、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権の、正式な承認(日本国民の主権の、完全な回復)等を要旨とした条約。1952年、この条約の発効とともに、連合国軍最高司令官総司令部(Supreme
Commander of the Allied Powers)は、活動を停止)を締結しました。
第二次世界大戦後、吉田
茂(yoshida
shigeru)は、「戦争に負けて(戦争で敗北して)、外交で勝った(外交で勝利した)例はある」と言う言葉を、口癖とし(おそらく。。。)、日本の、速やかな、主権の回復と、経済復興(第二次世界大戦により、日本の経済は、壊滅的な状態となりました)に力を尽くしました。
吉田 茂(yoshida shigeru)は、第二次世界大戦後、昭和(showa)天皇(日本の第124代の天皇。第二次世界大戦中の日本の天皇で、現在の、日本の天皇の父親)が、戦争の責任をとる為、退位を申し出た時、止め、また、昭和(showa)天皇が、国民に対して、謝罪を表明しようとした際も、止めた様です。
吉田 茂(yoshida shigeru)の、総理大臣(prime minister)時代、吉田 茂(yoshida shigeru)の、父親(実際の父親)の、地元の、高知(kochi)県(四国(shikoku)(日本の南西部)に位置する県の一つ)から、有力者達が、高知(kochi)県に利益誘導を図って貰おうと、吉田 茂(yoshida shigeru)に陳情に訪れましたが、吉田 茂(yoshida shigeru)は、その都度、「私は、日本の代表者であって、高知(kochi)県の利益の代表者ではない」と言って、相手にしなかった様です。
吉田
茂(yoshida
shigeru)は、階級意識が強く、共産党員等を見下す面があったが、相手が礼儀の正しい人であれば、その身分がどうであろうと丁寧に振るまったとも言われています。第二次世界大戦前、在イタリア日本大使時代(1930年から1936年)に、当時のイタリアの首相、Benito
Mussoliniに初めて挨拶をしに行った際に、吉田 茂(yoshida shigeru)は、イタリアの外務省からは、吉田 茂(yoshida
shigeru)の方から、Benito Mussoliniに歩み寄るように指示されたが、吉田 茂(yoshida
shigeru)は、Benito Mussoliniが、吉田 茂(yoshida shigeru)に歩み寄るまで、動かず、その事で、Benito
Mussoliniは、その時は、激怒しましたが、以後、Benito Mussoliniは、吉田 茂(yoshida
shigeru)に対して、一目を置く(敬意を払う)ようになったと言われている様です。
吉田 茂(yoshida
shigeru)は、大衆文化を含み、広く、日本の、伝統文化を愛していた様です。白州 次郎(shirasu
jiro)は、自身の(自分の)、随想の中で、「吉田老ほど(吉田 茂(yoshida
shigeru)ほど)、我が国(日本)を愛し、その伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その伝統の中には、実に、下らない物もあった事は、認めるが。。。」と語っている様です。
吉田
茂(yoshida
shigeru)が、生涯で、最も愛し、最も、よく使用していた(おそらく。。。)、自家用車(自家用、自動車)は、在イギリス日本大使時代の1937年に、私費で、購入した、Hooperでsports
saloonに架装された、Rolls-Royce
25/30で(専属の運転手(chauffeur)付きの、自動車として使用していました)、1950年代には、同車をイギリスに送り、オーバーホール(overhaul)してまで、使い続けました。吉田
茂(yoshida shigeru)は、外国の文化に関しては、何と言っても、イギリスの文化を、一番、好んでいましたが、Konrad
Adenauer(1949年から1963年まで、西ドイツの、首相を務める)と交わした、「貴国(あなたの国・ドイツ)が、復興を果たした際には、ドイツ車(ドイツの自動車)を購入する」と言う、個人的な約束から、1960年代に入ると、Mercedes-Benz
300SEを購入し(Mercedes-Benz
300SEも、専属の運転手(chauffeur)付きの、自動車として使用していました)、その際に購入した事を知らせる電報(telegram)を、Konrad
Adenauerに送った様です。吉田 茂(yoshida shigeru)が亡くなった後、吉田 茂(yoshida
shigeru)の、Rolls-Royce 25/30と、Mercedes-Benz 300SEは、吉田 茂(yoshida
shigeru)の、娘の一人(三女)、吉田 和子(yosihda
kazuko)の家族が譲り受け、保有していましたが、その後、日本国内の自動車愛好者の手に渡り、現在、両車(かつての、吉田 茂(yoshida
shigeru)の、Rolls-Royce 25/30と、Mercedes-Benz
300SE)共、走行が可能な状態で、大切に保存されている様です。Rolls-Royce 25/30の方は(かつての、吉田 茂(yoshida
shigeru)の、Rolls-Royce
25/30は)、埼玉(saitama)県(東京の北部近郊)にある、日本の店舗・会社経営者(Rolls-Royceや、Bentley等の、クラシックカー(classic
car)を扱う、輸入販売店・会社の経営者)が、個人の趣味で収集した、歴史的な自動車、又は、名車と呼ばれる、Rolls-Royceと、Bentleyを中心とした、15台以上の、クラシックカー(classic
car)を、動態(いつでも、動ける状態で)、保存・展示する、私営の自動車博物館に、収蔵されている様です(この自動車博物館(私は、訪れた事がありません)には、現存する、世界で、最も古い、Bentleyの一つ(Bentley
3 Litreの1921年モデル(model))も、動態(いつでも、動ける状態で)、保存・展示している様です)。
吉田 茂(yoshida shigeru)は、冗談を言う事が好きで、よく冗談を言っていた様です。
以下3つは、吉田 茂(yoshida shigeru)が言った冗談の例です。
ある日、吉田
茂(yoshida
shigeru)の邸宅に訪れて来た、客に対し、吉田
茂(yoshida shigeru)は、会いたくなかったので、居留守を使っていたが(いない振りをしていたが)、その客に、居留守がばれてしまった(いない振りをしている事が、ばれてしまった)。その際に、吉田
茂(yoshida shigeru)は、その客に対して、「本人がいないと言っているのだから、それ以上、確かな事はないだろう」と言い訳をした。
晩年の1964年に、昭和(showa)天皇(先代の日本の天皇)に、「大磯(ooiso)は、暖かいだろうね」と言われた際に、「はい、大磯(ooiso)は、暖かいのですが、私の懐は(私の財布・家の財産は)、寒うございます(寒いです)」と答えて、その場を、笑わせた。ちなみに、吉田
茂(yoshida
shigeru)は、義理の父親が亡くなった後、わずか、11歳で、義理の父親の、多大な財産を相続しましたが、やがて、遺産の大部分を、使ってしまった様です(一体、何に、使ったのか、未だに、不明である様です)。
憲法改正を急ぐ、吉田
茂(yoshida
shigeru)に疑問を呈する、日本の国会議員たちに対して、「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ
(General Head Quarters) (下の補足説明参照)と言うが、実は 「Go Home
Quickly」の略語だと言うものもあるくらいだ」と答えた。
GHQ (General Head Quarters)
:連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied
Powers)(第二次世界大戦の、日本の敗戦に伴い、日本において占領政策を実施した連合国軍(実質的には、アメリカ)の機関。1952年、日本の、完全な、主権の回復により、活動を停止)の、通称(別名)。
前述の通り、吉田 茂(yoshida shigeru)は、とても小柄で、丸々とした(太った)体格で、葉巻(cigar)を、こよなく(とても)愛しており、その風貌(体格等の、外貌の全体的な雰囲気が)、Winston Churchillに似ていた事から(まあ、Winston Churchillも、比較的、小柄でしたが、それでも、吉田 茂(yoshida shigeru)よりは、かなり大きな体でしたが)、日本の、Winston Churchillと呼ばれる事もあったそうです。
写真以下6枚(写真は、借り物)。Winston Churchill(1874年生まれ。1965年に亡くなる)。

少年の頃の、Winston Churchill。

Winston Churchill(左)と、若い頃の、Charlie Chaplin(右)。


エジプト(Egypt)駐留、イギリス軍を視察する、Winston Churchill(左)。

ヤルタ会談(Yalta Conference)にて。。。左から、Winston Churchill、Franklin D. Roosevelt、Joseph Stalin。

大磯(ooiso)散歩2(すぐ下の投稿へ続く。。。。)。