第8代室町将軍・足利義政在職の期間、朝鮮では新しい文字(諺文)と漢字の混用の印刷物が王室の肝いりで発行されていたが、分野は限られ浸透は部分的であった。このような書記文化を喜ばないものは中華イデオロギーをもちだして日本を無視しようとし、他方、諺文の普及を目指す少数派は日本を重視していたという相関関係があったと考えられる。
将軍職を継いで10年後、義政は朝鮮王・世祖に通信使の復活を期して外交僧・蘆圓らを派遣した。翌年世祖の国書を奉じて王使は派出されたのだが一行の船は風浪のため遭難してしまった。そしてその後、その継続は為されなかった。1463年、義政の使者俊超らが再び漢城に赴き、4年前に遭難した通信使一行の弔いを京都・天龍寺で盛大に挙行したことを通知した。これなどは通信使派遣の督促と考えて間違いない。応仁の乱が起きる4年前の出来事であった。
足利義政(左)と第7代朝鮮王・世祖
この時期、世祖に重用され朝鮮の外交にも大きな影響力を持っていたのが、ほかでもなくあの申叔舟であった。かつて「訓民正音」作成の中核を担った彼は、当然、朝鮮の文人たちの日本蔑視の原因が何であったかを、誰よりも実感していたわけで、その分、将来に対して強い懸念を抱いていた。
1475年に死の床にあって、若き朝鮮王・成宗に「願わくは国家、日本と和を失うことなかれ」(岩波文庫「海東諸国紀」解説)と遺した彼の言葉の意味はつくづく重い。 叔舟の遺言もあり、成宗も日本に通信使を派遣しようとしたのだが、一行は対馬から引き返したと言われている。
申叔舟
次代の燕山君の治世下で起こった権力闘争(甲子士禍)のなかで、諺文の文書の大規模な破却、焚書があったことが知られている。また、この時代に編纂された「成宗実録」には申叔舟のための長文の卒記(業績の記録)が載っているが、「訓民正音」「東国正韻」など、後世に大きな影響を及ぼした、彼による諺文関係の業績は何一つ触れられていない。ハングル冬の時代が到来していたことが分かる。
その次の中宗のときには、遂に日朝関係の一大破局ともいうべき三浦の乱がおこり、半島南部の日本人町が破壊され、交通が大幅に縮小した。
日本との往来通行を大きく縮小したということは、見方を変えるならば、朝鮮の鎖国体質が強まったともいえるであろう。
その後、日本が群雄割拠の戦国時代に移行したこともあり、両国の外交は有名無実化し局所化していった。しばしば対馬の国人が日本国使臣を偽称してソウルに滞在するという奇怪な現象も出現することとなった。