namgaya33氏とnisiokatuyosi氏の活躍で、久しぶりに掲示板が賑わってますね。
話が広がって、いろいろな論点が生まれていますが、最初の頃に戻って「国債報償運動」について質問します。(一番最初は「べセル」についての話でしたが、こちらはあまり興味がないのでパスしますw)
nisiokatuyosi氏の投稿によると、韓国(政府)の日本からの借金を韓国国民の寄付金によって返還しようとする運動が1907年の2月頃から始まった、とのことでした。たぶんこのことはnamgaya33氏も反論していないと思います。
ちなみに下の画像は「べセル」が関係した「大韓毎日申報」の1907年2月27日の新聞の切り抜きです。記事の表題は「雑報 国債報償期成会趣旨書」です。nisiokatuyosi氏の投稿にもその名前が出ていました。
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無慈悲で悪辣なnisiokatuyosi氏は、当時の日本(政府)は「国債報償運動」を弾圧なんかしていないと主張しています。たぶん最初の論点はこれだったと思います。付け加えるなら、無茶な運動であったと批判しています。
その投稿の中で出てきたのが、次のグラフでした。
これはnisiokatuyosi氏が「朝鮮学報」という朝鮮を研究する日本の団体「朝鮮学会」の学術雑誌の記事をもとに作成したグラフで、新聞が発表した「国債報償運動」に寄付された金額を月別に表したものと思われます。
このグラフを見ると6月あるいは7月から金額が急激に減少しており、それはnamgaya33氏が主張した「国債報償運動」に影響を与えた「べセル」への政治的圧力とは何も関係がない、との指摘でした。(「べセル」の投獄は1908年6月)
それではなぜ6月あるいは7月から金額が急激に減少したのか?
nisiokatuyosi氏は「募金額に影響を与えた事件については 次回検討してみることにしましょう」と意味深な言葉を残しています。
「国債報償運動」の始まった1907年と言えば、日露戦争の後、韓国の植民地化が進展していた時代です。7月18日の高宗退位、7月24日の第3次日韓協約締結、そして韓国軍の解散命令以降、義兵運動が活発化します。
nisiokatuyosi氏の言う「募金額に影響を与えた事件」とはハーグ密使事件のことではないでしょうか。この事件以降、植民地化の進展と武装闘争の激化によって「国債報償運動」という穏健な抵抗運動は弱体化したと私は考えます。
「義兵」と「国債報償運動」の二つの抵抗運動が同時に民衆の支持を得ることは難しいと思います。「国債報償運動」は日本に資金を渡そうとする運動です。「義兵」から見れば利敵行為となるでしょう。
しかし、namgaya33氏が提示した資料は私の考えを覆すものでした。

namgaya33氏によると、これは1908年6月に発行された激励文で、当時も「国債報償運動」が継続していたことを意味しています。
そこで、あらためて国債報償運動について素朴な疑問です。
1.義兵運動が活発になっても国債報償運動は民衆に支持されていたのか?
2.義兵運動と国債報償運動のどちらが国民的な運動だったのか。