この投稿の、動画・曲は、全て、you tubeから借りて来た物です。IE等で、この投稿の写真が見られない場合は、FireFoxで、ご覧下さい。
基本的には、前に、行った様々な投稿から、抜粋して来た投稿です。
以下、前に行った、「白州 次郎(shirasu jiro) 」と言う投稿の中から、抜粋して来た物です。
写真以下4枚(写真は、借り物)。白州 次郎(shirasu jiro)。白州 次郎(shirasu jiro)は、長身で(身長は、180cm位(白州 次郎(shirasu jiro)の身長に関しては、175cmから185cmと様々な説がありますが、写真を見る限り、185cmと言う事はないと思います))、ハンサムな男性でした(ちなみに、白州 次郎(shirasu jiro)の妻である、白州 正子(shirasu masako)の、白州 次郎(shirasu jiro)の外貌の評価は、「特に、美男(ハンサム)と言う訳ではない」(白州 正子(shirasu masako)の自伝より。。。)。
写真以下3枚。若い頃の、白州 次郎(shirasu jiro)。




以下、白州 次郎(shirasu jiro)に関する説明は、wiki等を、参考にしました。
白州 次郎(shirasu jiro)(1902年生まれ。1985年に亡くなる。第二次世界大戦後、吉田 茂(yoshida shigeru)(日本の総理大臣)の側近として活躍した事で、名が知られる(有名な)、日本の、一般人。詳しくは、以下で説明します)は、1902年、神戸(kobe)(日本の西部に位置する、大都市)郊外で、日本の、裕福な実業家(神戸(kobe)の貿易商人。先祖は、侍(samurai)の家系)の家に生まれました。白州 次郎(shirasu jiro)の父で、実業家(貿易商人)の、白洲 文平(shirasu fumihira)は、建築が趣味で、白州(shirasu)家の邸宅を、たくさん建てました。中でも、兵庫(hyogo)県、伊丹(itami)市(神戸(kobe)の北東部郊外・大阪の北西部郊外)に建てた、白州(shirasu)家の、本邸(メイン(main)の邸宅)は、約132,000平方m(40,000坪)の敷地を有し、敷地内には、コロー(Corot)、モネ(Claude Monet)、マティス(Henri Matisse)、ピカソ(Pablo Picasso)等の作品を収めた美術館等がありました。白州 次郎(shirasu jiro)は、旧制第一神戸(kobe)中学校(後の、兵庫(hyogo)県立、神戸(kobe)高校)時代は、アメリカのPaige 等の、高級自動車を乗り回し、後の自動車好きの片鱗を見せていました(白州 次郎(shirasu jiro)の車好きは晩年まで続き、Bentley、Bugatti type35、Porsche 等、数々の(たくさんの)、名車・高級自動車を所有し、愛車としていました)。白州 次郎(shirasu jiro)は、第一神戸(kobe)中学校(後の、兵庫(hyogo)県立、神戸(kobe)高校)を卒業後、イギリスのケンブリッジ大学(University of Cambridge)に留学し、西洋中世史、人類学等を学びました。その頃、白州 次郎(shirasu jiro)は、自動車に熱中し、BugattiやBentleyを乗り回していました。白州 次郎(shirasu jiro)は、留学中に知り合ったイギリス貴族の若者(一生の親友となる)と、Bentleyで、ヨーロッパ大陸旅行をしたりしました。白州 次郎(shirasu jiro)は、1925年、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)を卒業、1928年、父の経営した会社が、倒産し、日本への帰国を余儀なくされました。
1929年、白州 次郎(shirasu jiro)は、東京で、英字新聞の記者となりました。同年、白州 次郎(shirasu jiro)は、鹿児島(kagoshima)(九州(kyusyu)(日本の南部)の南部に位置する県)に起源を持つ東京の貴族(伯爵)、樺山 愛輔(kabayama aisuke)の娘、正子(masako)と、結婚しました。白州 次郎(shirasu jiro)の父、白洲 文平(shirasu fumihira)は、この時、既に、自分の会社が倒産していたが、白州 次郎(shirasu jiro)の結婚祝いに、自動車の、Lancia Lambdaを、白州 次郎(shirasu jiro)と正子(masako)に贈りました(二人は、この自動車で、新婚旅行に出かけました)。白州 次郎(shirasu jiro)は、その後、いくつかの会社の、取締役(雇われ経営者)を歴任し、ビジネスマン(businessman)として活躍しました。この間、白州 次郎(shirasu jiro)は、海外に赴く事が多く、当時の、在イギリス日本大使の、吉田 茂(yoshida shigeru)の面識を得、親交を深めました。また、この頃、白州 次郎(shirasu jiro)は、近衞 文麿 (konoe fumimaro)のブレーン(相談相手・助言者)の一人として行動しました(白州 次郎(shirasu jiro)は、近衞 文麿 (konoe fumimaro)とは、個人的な親交も、深かった)。
白州 次郎(shirasu jiro)は、1940年、現在の東京の南西部郊外の、古い農家(農民の家)を購入し、疎開(sokai)しました(疎開(sokai)とは、戦争中、空襲の被害から逃れる為、空襲の被害を受け易い、大都市や中都市(中規模程度の人口の都市)の中心部を離れ、郊外や田舎に、一時的に滞在、若しくは、一時的に移り住む事で、第2次世界大戦中、空襲の被害が大きかった、日本とヨーロッパでは、盛んに、行われました。比較的裕福な層は、郊外や田舎に、家を購入して移り住んだり、(元々保有していた)郊外や田舎の別荘に滞在する事が可能でしたが、庶民は、(田舎から大都市に出て来ている場合等は)実家を頼るか、若しくは、親戚を頼るか、学校疎開(学校毎の疎開(sokai))に、子供を送るしかありませんでした)。白州 次郎(shirasu jiro)が、この様に、早い時期に、疎開(sokai)したのは、アメリカとイギリスの国力を十分に分かっていた為と思われます。特権階級であった、白州 次郎(shirasu jiro)は、徴兵を回避し、第二次世界大戦中は、農業を行いながら隠遁生活を送る一方、吉田 茂(yoshida shigeru)を中心とする反戦グループ(戦争終結工作集団)に加わっていた様です。
白州 次郎(shirasu jiro)は、1945年、(第二次世界大戦直後の内閣である東久邇宮(higashikuninomiya)内閣の外務大臣に就任した)吉田 茂(yoshida shigeru)の頼みにより、終戦連絡中央事務局の参与に就任し、第二次世界大戦直後、吉田 茂(yoshida shigeru)の側近として、連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied Powers)と、流暢な英語で渡り合いました。日本人が、全般的に、(敗戦と、アメリカとの圧倒的な国力の差を見せつけられた事による)劣等感や怖れ等から、連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied Powers)及び、(連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied Powers)の下)日本に進駐して来たアメリカ軍を中心とする連合国の軍人・兵士に対して、怖れ、萎縮し、大人しく、従順、若しくは、卑屈な態度をとっていた時代において、白州 次郎(shirasu jiro)は、連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied Powers)の某要人をして、「従順ならざる唯一の日本人(従順ではない唯一の日本人)」と言わしめました。白州 次郎(shirasu jiro)と連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied Powers)の間に関しては、白州 次郎(shirasu jiro)が、天皇からの(Douglas MacArthurに対する)プレゼント(贈り物)を、Douglas MacArthurに届けた際に、「その辺にでも置ておいてくれ」と、プレゼント(贈り物)が、ぞんざいに扱われた為、激怒して、「仮にも、天皇陛下(天皇)からの贈り物を、その辺に置けとは、何事か(どう言うつもりか)!」と、Douglas MacArthurに怒鳴りつけ、プレゼント(贈り物)を持ち帰ろうとして、Douglas MacArthurを慌てさせたと言う逸話や、連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied Powers)の民政局長の、コートニー・ホイットニー(Courtney Whitney)准将に英語が上手いと褒められたことに対して、「If you study a little harder, you will improve your English.(もう少し勉強すれば、あなたも英語が上手になる)」と、オックスブリッジ(Oxbridge)訛りの英語で返答した(白州 次郎(shirasu jiro)は、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)出身。アメリカでも、名門とされる大学群であるアイビーリーグ(Ivy League)ですらオックスブリッジ(Oxbridge)を手本に創立された。ちなみに、コートニー・ホイットニー(Courtney Whitney)准将は、George Washington University出身)と言う逸話等があります。また、白州 次郎(shirasu jiro)の有名な発言には、「我々は、戦争に負けたが、奴隷になったのではない」等があります。白州 次郎(shirasu jiro)は、1951年、サンフランシスコ(San Francisco)講和会議(サンフランシスコ(San Francisco)平和条約(Treaty of Peace with Japan )を締結した会議)に全権団顧問として随行しました。この際、白州 次郎(shirasu jiro)は、サンフランシスコ(San Francisco)平和条約(Treaty of Peace with Japan )の受諾演説の草稿(原稿)を、連合国軍最高司令官総司令部(Supreme Commander of the Allied Powers)の了解を得た上で英文(英語)で書いてきた外務省の役人を、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と叱り飛ばし、全文を日本語による毛筆で書き直させました。白州 次郎(shirasu jiro)は、1952年から1954年まで、外務省の顧問を務めました。
白州 次郎(shirasu jiro)は、吉田 茂(yoshida shigeru)の退陣後は、政界入りを望む声もありましたが、政治から縁を切り、実業界に戻り、数々の要職を歴任しました。白州 次郎(shirasu jiro)は、80歳まで、Porscheを乗り回し、ゴルフ(golf)に興じ、また、トヨタ(Toyota)の高級自動車、ソアラ(Soarer)のアドバイス(advice)等も行っていました。白州 次郎(shirasu jiro)は、1985年、83歳で亡くなりました。

写真は借り物。白州 次郎(shirasu jiro)の妻、白州 正子(shirasu masako)(1910年生まれ。1998年に亡くなる。主に、日本の伝統文化・伝統芸術・伝統工芸に関連する、日本の、女性、随筆家)。写真は、おそらく、白州 次郎(shirasu jiro)・白州 正子(shirasu masako)夫妻が、1940年に、疎開(sokai)の為に購入した、東京の南西部郊外の、古い農家(農民の家)で、撮影された物です。白州(shirasu)家は、結局、第二次世界大戦後も、この家に住み続けました。白州 次郎(shirasu jiro)も、白州 正子(shirasu masako)も、若い頃、散々、贅沢をして来た為、既に、不必要に贅沢をする事に、興味を失っていた様です。
白州 正子(shirasu masako)は、1910年、鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の南部に位置する県)の、侍(samurai)・軍人系の、貴族(伯爵)の家に生まれました。白州 正子(shirasu masako)は、日本の伝統文化・伝統芸術・伝統工芸に、幅が広く、深い知識を持つ、趣味人でした(白州 正子(shirasu masako)は、日本の伝統文化に関する、幅が広い趣味を持つ、趣味人の、母(ちなみに、白州 正子(shirasu masako)の母も、鹿児島(kagoshima)県の、侍(samurai)・軍人系の、貴族(伯爵)の家出身の女性です)の影響等で、幼い頃・少女の頃から、日本の伝統文化(特に、能(noh)に対し)、強い関心を持ち、深く関わっていました)。
白州 正子(shirasu masako)は、1924年から1928年にかけて(14歳の頃から18歳の頃にかけて)、アメリカに留学していました。白州 正子(shirasu masako)は、アメリカ留学時代、英語は、2、3か月で、流暢に、話せるようになり、学校の成績は優秀で、スポーツ(運動)が好きで、活発な性格であった事から(本人によれば、「(スポーツ(運動)は)何でもした。何でもしたので、何でも、下手であった」(白州 正子(shirasu masako)の自伝より。。。)、乗馬(horse riding)、テニス(tennis)、バスケットボール(basketball)、ホッケー(field hockey)等、他の学校と試合をすれば、必ず、選手にされた様です。この様に、白州 正子(shirasu masako)は、アメリカでの、学生生活を、楽しんでいた様にも見えますが、アメリカでは、夢中になれる物がなかったので、アメリカでの学生生活は、白州 正子(shirasu masako)にとって退屈であった様です(白州 正子(shirasu masako)の自伝より。。。)。白州 正子(shirasu masako)は、アメリカ留学時代について、「アメリカ留学時代に、得た物は、何もなかった様な気がする。思春期と言われる、人生の大切な時期を、その様に過ごした事が、良かったのか、悪かったのか、どちらにしても、人間は、そう簡単に割り切れる物ではないと、今では、思っている」と言った内容の事を書いています。白州 正子(shirasu masako)は、生まれつき、呑気であったせいか、アメリカ留学中、ホームシック(homesickness)には、一度もかからなかったが、日本の、文物には、飢えており、日本から、雑誌や本が届いた時は、仮病を使って(病気になった振りをして)、学校を、休んで(ずる休みをして)、ベッド(bed)で、心ゆくまで、夢中になって読んだ様です(白州 正子(shirasu masako)の自伝より。。。)。
白州 正子(shirasu masako)は、アメリカ留学中、心の底からは、アメリカに馴染めなかった様です(白州 正子(shirasu masako)の、自伝より。。。)。白州 正子(shirasu masako)は、アメリカ留学中の事について、自伝において、「日本にいる間は、日本は、それ程、良い国であるとは思えなかったのに、日本を離れると、その良さが(日本の良さが)、目に付いた(その良さが(日本の良さが)、分かった)。特に、芸術の面においては、日本は、アメリカとは、比較にならない程、高級であると言う事が分かったが、漠然と、そう思っていただけで、何も、本当の事が、解っている訳ではなかった」と言った内容の事を書いています。
1924年、18歳で、アメリカ留学から帰って来た(通っていた学校の校長の計らいで、早目に、学校を卒業させて貰った様です)、白州 正子(shirasu masako)は、25歳までは、結婚をしないで、遊びと勉強に費やすと決め、パーティー(party)に、出席する事に、明け暮れる日々(生活)を送っていました(昔の上流階級の、パーティー(party)に、出席する事に、明け暮れる日々(生活)と言うのを、現代の、庶民で当てはめて見ると、club(nightclub)での、夜遊びに、明け暮れる日々(生活)と言った感じであると思いますw)。その様な、日々の生活の中、白州 正子(shirasu masako)は、18歳の時に、当時、26歳であった、白州 次郎(shirasu jiro)に出会い、白州 正子(shirasu masako)は、白州 次郎(shirasu jiro)に、一目惚れしました(外貌を、一目見ただけで(見た瞬間に)、好きになりました)。おそらく、白州 正子(shirasu masako)から、白州 次郎(shirasu jiro)に、アプローチし(白州 正子(shirasu masako)から、白州 次郎(shirasu jiro)を誘惑し)、出会ってから、間もなく、二人は、交際を始め、1929年、白州 次郎(shirasu jiro)が27歳、白州 正子(shirasu masako)が19歳の時に、結婚しました。白州 正子(shirasu masako)は、この事について、「(白州 次郎(shirasu jiro)に出会った事で)、25歳まで、遊ぶ事も、勉強も(25歳までは、遊びと勉強に費やすと言う計画が)、目の前から、吹き飛んでしまった(消えてしまった)。何と言っても、18歳の、一目惚れ(異性を、外貌を、一目見ただけで(見た瞬間に)、好きになる事)なのだから、当てにならない事は、おびただしかった(全く、当てにならなかった)。恋は、盲目(Love is blind)と言うが、とにかく、若い女性は、好きになった男性を理想化して見るので、結婚してから、こんなつもりではなかったと、がっかりとする物である。私も、例外ではなかったが、惚れた(好きになった)弱みで、何でも許す事が出来た」と言った内容の事を、自伝で書いています。
白州 次郎(shirasu jiro)と、白州 正子(shirasu masako)の夫婦の仲は、良かった様です。
白州 正子(shirasu masako)の自伝によれば、生涯において、白州 次郎(shirasu jiro)と、白州 正子(shirasu masako)が、喧嘩をしたのは、一回だけで、それも、白州 次郎(shirasu jiro)の発言に対して、怒った、白州 正子(shirasu masako)が、白州 次郎(shirasu jiro)に対して、一方的に、暴力を振るった物で、白州 次郎(shirasu jiro)が、軍人であった、白州 正子(shirasu masako)の祖父の悪口のような事を、白州 次郎(shirasu jiro)が言った際に、白州 正子(shirasu masako)が、白州 次郎(shirasu jiro)の、頬を、思い切り叩いたと言う物です(白州 正子(shirasu masako)は、自分は、鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の南部に位置する県)の、侍(samurai)の家柄出身であると言う事を、強く意識していて、その時(白州 次郎(shirasu jiro)の、頬を、思い切り叩いた時)、白州 次郎(shirasu jiro)に負ける気は、全く、しなかった様です)。
生涯において、白州 次郎(shirasu jiro)と、白州 正子(shirasu masako)が、喧嘩をしたのは、その時、一回だけで(それも、白州 正子(shirasu masako)が、白州 次郎(shirasu jiro)に、一方的に、暴力を振るっただけ)、喧嘩が好きな、白州 正子(shirasu masako)が、白州 次郎(shirasu jiro)に、いくら喧嘩を仕掛けても、白州 次郎(shirasu jiro)は、白州 正子(shirasu masako)と喧嘩はしなかった様です(白州 正子(shirasu masako)の自伝より。。。)。白州 次郎(shirasu jiro)は、女性を相手に喧嘩をするのは、男の恥であると考えていた様です(白州 正子(shirasu masako)の自伝より。。。)。
以下、基本的には、過去にkjで、行った投稿、「J-pop:BUCK-TICK」と言う投稿の、再投稿です。
BUCK-TICKは、1980年代の終わりから活躍している、日本の、Visual系の、rock bandです。
1994年頃。若い頃の、櫻井 敦司(sakurai atsushi)(BUCK-TICKのvocalist)。ちなみに、私の、実生活において、話す速度や話す雰囲気は、昔から(若い頃から)調度、この動画の櫻井 敦司(sakurai atsushi)さんと、同じ感じですw ちなみに、私の父も私も、(意識して出来るような物でもないのかもしれませんが)、話し声は、低音で、ゆっくりと話す方なんですが、そうした話し方は、女性に好かれるようですw(自分で言うのも何なんですがw ちなみに、私の今の彼女も、私の声と話し方も好きだと言ってくれてますw)。BUCK-TICKの櫻井 敦司(sakurai atsushi)さんは、BUCK-TICKの下積み時代、水商売の女性が多く買いに来るような場所で、靴店のアルバイトをしていたそうですが、店長に君は働かなくていいので(接客しなくてもいいので)、店の前で立っているだけでいいからと言ったような事を言われたようですw 私も、学生時代(高校・大学時代)、ピアス等をして外見を派手に飾り立てていたせいか(街を歩けば、ホストのスカウトの声が掛かったりしていたのですがw)、一応、顔が利いたという経験はあり、例えば、夜遊びにおいて、初めて訪れたディスコ・クラブで、文字通りの顔パスでw、コネもなく特別料金も支払わないのに、VIP席に座らせて貰うような事がありましたw(間違って座ってしまって、従業員が制しようとした場合も、オーナーらしき人が、私の外見見て、いやいいからと言った感じでw)。
BUCK-TICKの曲の例。BUCK-TICK-「ROMANCE」(2005年)
以下、基本的には、前に行った、「母方の祖父とカツカレーの思い出 」と言う投稿の中から、抜粋して来た物です。
東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。
私には、兄弟姉妹は、2歳年下の弟が一人います。私の弟は、外資系の会社員で、既に、結婚をし、(まだ、二人共、幼いですが)子供が2人いて(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人。女の子は、一昨年、生まれたばかり)、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています。
私も、私の2歳年下の弟も、幼い頃・子供の頃から高校生位の頃、親に、物質的には、好き放題甘やかされていた為、自分が欲しい物の為に、駄々をこねる(我儘を言う)必要がなかったと言う事もありますが、(例外的に、赤ちゃんの頃の私は、行ってはいけないような場所に、どんどん這って行ってしまうような冒険家の赤ちゃんであったようですがw)、私も私の弟も、親の前では、大人しい良い子供で、父親にも、母親にも、一度も、大きな声で、叱られたような事はありません。その点に関しては、自分で言うのも、何なんですが、私も弟も、頭の良い子供だったのだと思いますw
私の母方の祖父は、見合いで、私の母方の祖母と結婚したのですが、私の母方の祖父は、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性でした。
私の母方の祖父が、大好物であった(非常に好きであった)食べ物は、カツカレー(豚カツ(tonkatsu)カレー(curry))です。ちなみに、カツカレー(豚カツ(tonkatsu)カレー(curry))は、日本では、通常、家庭料理ではなく、外食で食べる食べ物です。
私の母方の祖父は、おそらく、一人で、出掛けた際の外食で、カツカレー(豚カツ(tonkatsu)カレー(curry))は、よく食べていたと思います。また、母方の祖父が、私が幼い頃・子供の頃、私を連れて、私と二人で出掛けた際の外食(昼食)は、デパートの大食堂で食べる事が多く、その際に頼むのは、母方の祖父が、カツカレー(豚カツ(tonkatsu)カレー(curry))、私が、お子様ランチと言うのが、定番でした。そして、その際に、母方の祖父は、必ず、私に、カツカレー(豚カツ(tonkatsu)カレー(curry))の上の、切り分けてある、豚カツ(tonkatsu)の、一番肉が厚く、脂身が少ない、一番、美味しそうな、一切れを、私に分けてくれました(ちなみに、私は、子供の頃から、肉は、好きなので、喜んで、貰いました)。
私の母方の祖父は、家族で出掛けた際の外食時も、デパートの大食堂等、カツカレー(豚カツ(tonkatsu)カレー(curry))が、メニュー(menu)にある場合は、必ず、カツカレー(豚カツ(tonkatsu)カレー(curry))を頼んでいました。その際に、母方の祖父は、必ず、自分が頼んだ、カツカレー(豚カツ(tonkatsu)カレー(curry))の上の、切り分けてある、豚カツ(tonkatsu)の、一番肉が厚く、脂身が少ない、一番、美味しそうな、一切れを、私の母方の祖母に分けようとしました(その際に、祖父は、孫達(私と弟)の事は、眼中にないと言った感じで、一切、無視でしたw)。その際に、母方の祖母は、その時の、自分の気分に応じて、「大丈夫です」と断ったり、「頂きます」と言って、貰ったりしていました。その際、母方の祖父は、母方の祖母が、「大丈夫です」と断った時は、「そうか」と、優しく暖かい笑顔で答え、母方の祖母が「頂きます」と言った時は、(やはり、優しく暖かい笑顔で)、母方の祖母が注文した食べ物の、皿の、邪魔にならない部分に、そっと、豚カツ(tonkatsu)の一切れを置きました。そうした、母方の祖父と、母方の祖母の、一連の、やり取りが、実に、自然で、様になっており、板についていると言った感じでした。
母方の祖父の母方の祖母に対する上記の行動は、何て事ない行為ではあるのですが、母方の祖父の、形式的なレディーファーストなんかではない、大切な女性を大切に思うからこそ、気持ちの中から、自然と滲み出て来る行動を象徴していた様な気がします。
その様な、母方の祖父の行動を、幼い頃・子供の頃の、私と弟は、しっかりと、よく見ていました。そして、その様にして、私と私の弟が、男と言う物が、大切な女性に対して、執るべき態度・姿勢・行動と言う物を、自然と学び取って行ったと言う面もあると思います。
前述の通り、私の母方の祖父は、見合いで、私の母方の祖母と結婚したのですが、私の母方の祖父は、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性でした。ちなみに、私の父も、同様の、紳士の美学・ポリシー(方針)を持った男性ですが、性格が穏やかで、温和な紳士であると言う点においても、私の母方の祖父に共通していて、元々、面食いの私の母が、私の父に、一目惚れして、私の母から、私の父に、バリバリにアプローチして、私の母と私の父は、交際する事になったのですが(バリバリの恋愛結婚w)、私の母が、私の父に、自分の父(私の母方の祖父)の性格と共通する面を見出したのも、私の母が、私の父と結婚するまでに至った、大きな理由の一つなのかもしれません。
父は、例えば、西洋料理レストランで、食事をする際、母と違うメイン(main)料理を頼んだ際は、自然と、基本的に、自分が頼んだメイン(main)料理の、一番、美味しそうな部分を、母に切り分けて、分けてあげようとしました(その際に、食いしん坊の母は、たいてい断りませんでしたw)。また、父は、自分が頼んだ、メイン(main)料理の、ソースが美味しかった場合は、最後に、「この、ソース美味しいよ。パンに付けて食べて見る?」と言った感じの事を母に言って、(その際にも、食いしん坊の母は、たいてい断らなかったのですがw)、母が、パンにソースをつけ易いように、母の方に向けて、そっと、さり気なく、自分が頼んだ、メイン(main)料理の、皿をずらしました。
本格的な高級な西洋料理レストランでは、その様な事をするのは、マナー違反である事から、父は、高級な西洋料理レストランでは、基本的に、その様な事はしませんでしたが、高級リゾート(resort)ホテルのレストランの場合は、(おそらく、リゾート(resort)だからOKと判断したのでしょう)、やはりそうしていました(もちろん、その場合は、堂々とではなく、そっと、さり気なく)。
父が、西洋料理レストランで、その様な、母に対する、一連の行動をする際に、(私と私の弟が、幼い頃・子供の頃の場合、(私と弟は)、子供が好むメニューやお子様向けのメニューを食べていた)子供達(私と弟)の事は、眼中にないと言った感じで、一切、無視でしたw
その様な、父の、形式的なレディーファーストなんかではない、大切な女性を大切に思うからこそ、気持ちの中から、自然と滲み出て来る母に対する行動を、幼い頃・子供の頃から、私と弟は、しっかりと、よく見ていました。そして、その様にして、私と私の弟が、男と言う物が、大切な女性に対して、執るべき態度・姿勢・行動と言う物を、自然と学び取って育ったと言う面もあると思います。
私は、家族の、最も重要な、基本は、夫婦であると思います。家族で、最も大切である事は、お互いに血が繋がっておらず、元々、育った環境も異なる、赤の他人同士の、夫婦が、しっかりと仲良くする事であると思います。夫婦の仲さえ、しっかりとしていれば、基本的には(例外もありますが)、血の繋がりもあり、同じ家庭環境を共有する、親子関係なんて、どうにでもなると思います。
おまけ。使い勝手の良い写真なので、私の多くの投稿で使い回してしまっていますが、今年の1月、彼女とデートした際に、東京駅の前で、彼女が、ふざけて撮った、私の写真。プライバシーの為、髪型(髪)まで、全て隠す為に、顔を隠す黒い部分は、ゆとりを持って、大きめに取ってあり、実際の顔は、黒い部分よりも、小さいですw ちなみに、私の肩の形の関係かな。。。私は、コート(coat)を着ると、体格が、良く見えますが、実際は、コート(coat)を着て見えるよりも痩せていますw(コート(coat)の中身は、痩せていますw)。
上の写真の詳細に関しては、以下の投稿を、参照して下さい。
上の写真の詳細に関しては、以下の投稿を、参照して下さい。
適当に雑多なJ-pop(日本語)→
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_3/view/id/2595722?&sfl=membername&stx=jlemon
適当に雑多なJ-pop(韓国語)→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_3/view/id/2595722?&sfl=membername&stx=jlemon
以下、基本的には、前に行った、「私のプリンシプルについて」と言う投稿の中から、抜粋して来た物です。
私は普段、何とも思わずに、何気なく日々を過ごしている方ですが、それでも、白洲次郎の言うプリンシプルのような物は大事にしたいと思っています。
「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(白洲次郎の発言。wikiより。。。)。
以下、参考に。。。
http://www.academyhills.com/note/opinion/09091602principle.html
以下、「」内、上の参考のサイトから引用させて貰った、プリンシプルに関する文です。
「白洲自身は“プリンシプル”を「筋」、または「武士の一分」と表現していますが、私は「生きる上での美学」だと思っています。これは、「自分はこういう生き方をしたい。そうすれば納得できる人生になる」ということを心の中に持つということです。」
「一人ひとりが“プリンシプル”を持った生き方をする。そういう人間が増えれば、社会全体も美学や品格が持てるはずであり、「政治家が悪い」「市町村が悪い」「先生が悪い」ではなく、「まず自分がしっかりする、これがスタートライン」だと気づいたのです。」
「“プリンシプル”と似た言葉に“ディシプリン”がありますが、これは規律という意味です。“プリンシプル”は誰かが決めたものではなく、一人ひとり違っていてもいいのです。それを持っている人間がいかに強いことか。国がひっくり返っても、自分自身にしっかりした美学があれば揺るがない、ぶれないのです。」
以下、私のプリンシプル(私自身のプリンシプル)について、少し書きます。
私は、何だかんだ言って、自分の事が好きであり、自分の人生(生き方)が、好きです。全ての原点(出発点)は、ここにあると思います。
もちろん、私は、今、自分が、子供の頃・思春期・青年期に思い描いていたような自分には、全くなれていませんし、自分が、子供の頃・思春期・青年期に思い描いていたような人生(生活)を送っている訳でも全くありません。また、私自身も、私の生き方(人生)も、完璧とは、ほど遠く、むしろ欠陥だらけです(欠陥が、たくさんあります)。
それでも、私は、基本的には、自分が、与えられた環境の中で、自分の能力の範囲内で、出来得る限り生き(ここで言う、出来得る限り生きとは、自分の能力の限界を知り、自分の幸福の為に、自分の努力の落とし所を知ると言う意味も含まれます)、出来得る限りの、幸せな生活をしている(幸せな人生を生きている)と言う、自信があるからこそ、人との(他人との)、人間関係を、自分よりも、上か下かと言う上下関係で見る事はなく(ちなみに、人との(他人との)、人間関係を、自分が、好きか嫌いか(自分が、好きな性格か、嫌いな性格か)で見る事はあります)、他の人、及び、他の人の人生(生き方)を尊重する事が出来るのであり、又、どの様な人とも、対等な、同じ人間であると言う気持ちで付き合う事が出来るのであると思います。
以下、私のプリンシプルの一部です。私は、完璧ではありませんが、私の人生、及び、私の日々の生活において、以下の、私自身のプリンシプルを出来るだけ大切にしようと、心掛けています。
自分と言う物を持ち、自分と他人を比較しない。自分と他人との関係を、自分よりも上か下で判断しない(上か下かで見ない)。ただし、自分と他人との関係を、自分が好きか嫌いかで(自分が好きなタイプの性格か、自分が嫌いなタイプの性格か)で見る事はある。
上の、自分と他人との関係を、自分よりも上か下かで判断しないから繋がって来る事ですが、他人に接する態度を、可能な限り、自分よりも上か下かの判断基準で変えないようにする。ただし、他人に接する態度を、自分が好きか嫌いかの判断基準で変える事はある。
他人に対して、偉そうな態度をとったり、他人に対して、虚勢を張ったりしない。そもそも、私は他人に対して、偉い態度をとれる程の人間ではありませんが、私は、他人に対して、偉そうな態度をとったり、他人に対して、虚勢を張る男は、年齢関係なく、「器の小さな男」だと思ってしまうので、自分が、他人に対して、偉そうな態度をとったり、他人に対して、虚勢を張っても、そう思われるだけと考えたら、他人に対して、偉そうな態度をとったり、他人に対して、虚勢を張る意味が感じられないどころか、他人に対して、偉そうな態度をとったり、他人に対して、虚勢を張る事等、恥ずかしくて、とても出来ない。
人に対して、恩着せがましくしない。私は、ボランティアに積極的に参加するような性格ではありませんが、日常生活における人助けは好きですが、人間は、本来、人を助けたら気分が良くなる生き物で(私も、そうです)、私にとって、人を助ける事は、完全に自己満足です。したがって、もちろん、助けた人から、感謝の言葉を貰ったり、お礼をされれば、嬉しいですが、私の中では、人助けをした時点において完結しており、助けた人や、物を上げた人から、感謝の言葉やお礼がなくても、私の中で、不快になったり、腹を立てたりする理由は何もありません。
怒るべき所では怒るが、些細な事では、イライラしたり、怒ったりせず、他人との無駄な衝突や喧嘩は出来るだけ避けるようにする(その方が、無駄な時間も労力も使わず、結果として自分の得になる)。
飲食店やホテル等の、店員や従業員も、自分と同じ人間。金を払っているのだから、お客様は神様だと言った意識で、偉そうに接したり、傲慢に接したりはしない。飲食店やホテル等の、店員や従業員のミスに関しては寛大に対処し、意図的ではないミスに関しては怒らない。公衆の面前で、店員や従業員を怒鳴りつけたり威嚇するなんて言語道断。その様な行為は、例えば、飲食店で、女性と共に二人で食事をしていた場合、女性の面子を潰す事になるし、他の客の、楽しく快適な食事の時間を妨害する事となる。
キャリアと言う意味において、男性と同じように仕事で活躍したいと思っている女性には、少なくとも男性と全く同等の機会が保障されるべきであるし、少なくとも男性と全く同等の収入が保障されるべきだと思いますが、私の生まれ育った、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で、母方の祖父母が同居していたのですが、私の母方の祖母も、私の母も、結婚してからは、アルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない主婦であると言う、保守的な環境に育った為か、普段、特にレディーファーストを意識している訳ではありませんが、男として、女性に対し、女性が女性として生きて、幸せを感じられるような配慮は出来るだけしたいと思っていますし、その様に心掛けています。
円滑なコミュニケーションの為に、基本的に、どんな女性にも愛想は使うが、その一方で男としてプライドは高く、どんな女性にも(たとえ、相手が絶世の美女でも)、不必要な媚びは売らない(デレデレして媚びない)。女性に対して、不必要な媚びを売る男性は(女性に対して、デレデレと媚びる男性は)、女性に、所詮、その程度の男であると、見くびられ、見下される可能性があると思います。私は、女性にマメに気を遣うと言うのは、物心つく前から(幼稚園児位の頃からw)、(本能的かなと思うくらい)既に自然に身に付いちゃてるような気がしますがw、女性に対し、単純にデレデレして媚びるのとマメに気を遣うのは、全く次元の異なる物で、感情と理性の違いに近い位の差があると思います。
女性に対して、不必要な媚びを売る必要はないが、女性とデートする際には、日本でも、最低限のレディファーストは必要。最低限のレディーファーストと言っても、難しく考える必要はなく、基本的に、あらゆる局面において、女性に、自分よりも、より快適な方を譲る事。
女性を助手席に乗せて車を運転する場合、俺の車は偉いんだぞ的な傲慢な運転や俺の車速いんだぞ的な運転テクニック自慢の運転をするよりも、隣りに乗っている女性を大切に思い、乗り心地の良い運転・安全運転を心掛ける方が、はるかに格好良い。それで、助手席の女性が寝てしまっても、御愛嬌と言った感じで暖かい目で見守る(基本的に、誰でも、楽しく目一杯遊んだ後は疲れて眠くなるものである)。
以下、おまけ。
太田和彦さん。私は、ルックスは関係なくw、太田和彦さんのような、ジャズ好きの、居酒屋・バー通の、物腰の柔らかい初老の紳士、自分が年を取った時の、ライフスタイル・振る舞いと言う点に関して、ちょっとだけ憧れますw