遺跡の出土が、朝せん半島にも旧石器時代があったが出土は極めて少なく。遺跡が日本が5千箇所以上なのに対し、朝せん半島では50箇所程度で、いづれにしてもほぼ森で、あまり人が住み着かなかった地域だったという。遺跡研究では、朝せん半島には紀元前1万年前から5000年前まで、人が住んでいた痕跡がないという。

そして、縄文関係で度々出てくる、7300年前(紀元前5300年)の鬼界カルデラの大爆発、その後、九州などに住んでいた縄文人が朝せん半島南部に移住した。これが最初の朝せん半島南部の住民となる。


紀元前1000年頃から北方民族の侵入や侵略が始まる

つまり現在の韓国人は縄文人と北方漢民族の混血だという。

徐々に北方からワ国は南に追い込まれていく。が
ここで勘違いしてはいけないのが、ワ国の北側の馬韓や新羅も実は元々、ワ人の国であった。

また、ワ国とは、九州北部と朝せん半島南部の一帯の地域の国で、大和朝廷とは別。
まだ、日本も地域が独立したように分かれていた、馬韓や新羅も当時は日本列島の一地域のまとまりの名であって、
紀元前後の日本で言えば弥生時代〜古墳時代は、その様な状況であった

その時代の事は、韓国正史「三国史記」にもちゃんと書かれて残っている。

この三国、新羅、高句麗、百済は日本人が王であったと書かれている

新羅は北陸地方、百済は九州地方で人質もとり支配していたようです

つまり、当時、大陸の文化を伝えたのは朝せん半島に住んでいた日本人だったのです。
同じ民族だったので文化を伝えたということになる。

しかし、朝せん半島からは西暦600年頃には、日本人のワ国の人々は
さらに北から侵略され男は殺されるか奴隷、女は孕まされてました。
日本人のY染色体がほとんど無くなり、三国史記の時代の朝せん半島に住んでいた人と人種が入れ替わってしまった。

とどめに、北にモンゴルの強大な国家が現れ、姑息な事を何度も使って抵抗するが、最後は征服され、モンゴルが衰退して、支配から脱却し、そして出来たのが李氏朝せんで、現在に繋がる朝せん人となる。
紀元600年くらいまでは、要は朝せん半島は日本の一部だったというのが本当の真実です。
豊臣秀吉はそれを知っていたと思われる。