以下の動画だと邪馬台国は関東だったとなっている。
まず、驚いたのは、魏の標準里を用いつつ、地名と距離がほぼほぼ合っていることだ。
邪馬台国は関東だったというのは、本当かもしれない。
この場合、なぜ関西ではないのかということだが、日本側が偽装をはかったのだろう。
つまり、纏向遺跡とかは、城壁がなく、中国に対して場所を隠すことが防衛上必要だった。
魏志倭人伝はさまざまな、情報ソースで書かれていると思われ、その大半は九州のことだろう。
ただ、距離に関しては、九州はすどうりしている。
もし九州に行ったのなら、博多に行かないのはおかしい。
また、福岡の奴国は、その他の国として記載されているようである。(行った奴国はsinano)
また、一大(支)国は壱岐ではなく、出雲であるとしている。
出雲は大陸と交易が盛んであり、百済が「大きい国」であるように、大陸と交易のあった出雲も大きい国と言われていたのは自然である。
これとは別に関東の鹿島神宮と九州の鹿児島の地名について田中英道が説を述べている。
この地名は、鹿児島は鹿島の子供であったことを表している。
つまり、縄文人は鹿島から鹿児島に移住したのだ。
関東は縄文人の人口密度がもっとも高かった地域であり、西日本の人口密度は低かった。
それにも関わらず、鹿児島では縄文系のDNAが高いことの説明になる。
まあ、納得できる話である。
天皇家の三大神宮のうち、二つが関東にある。(鹿島、香取)
天皇家はあるいは、縄文人とも密接に関係しているのかもしれない。