日本に一早く天孫降臨したのは、物部氏の始祖であるニギハヤヒである。
つづいて、弥生中期以降にニニギノミコトが天孫降臨してきた。
この二人が二人の太陽神である。
アマテラスもあるが、卑弥呼との説もあり、ニニギノミコトに含める。
ニギハヤヒは、半島の松菊里の農耕文化をもっており、金属加工の技術も持っていた。(青銅器)
ニニギノミコトは、大雑把にみると倭奴国の勢力とみて間違いないだろう。
福岡市の吉武遺跡群で天皇の証しとされる「三種の神器」(鏡、剣、玉)に相当する副葬品を持つ木棺墓が発掘されて、紀元前2世紀ごろのものとされる出土品は、日本最古の三種の神器である。
この勢力と倭奴国とは、300年ほどずれているが、ここでは、倭奴国は同じ福岡であるので後継勢力とみなすことにする。
ここで、天孫降臨した天孫族が渡来人かどうかが問題となる。
しかし、縄文人も日本に渡来したことには変わらず、弥生時代は日本の黎明期でもあり、また、列島と半島を分けるのはその後の国境のためで、当時は列島と半島は同一文化圏だったことから弥生時代の渡来は渡来人ではないとする。
下に奥野正男氏の著作にもとずいて、作成された物部氏の分布を引用する。
ここでニニギノミコトの天孫降臨した地は複数地点の候補があるうちの一つである。
また、この図の天孫降臨した地は、伝承によるものである。

物部氏の勢力は北九州にほぼまんべんなく分布しているが、福岡付近が空白になっている。
これは、おそらく福岡では倭奴国勢力にとって替られたのだろう。
ここで気になるのは、磐井の乱の拠点(筑後)が物部氏でも拠点となっていることである。
これは、磐井は、九州物部氏の後継勢力だったとも考えられる。
もし、そうだとしたら、継体天皇から「自分のケツは自分でふけ」というニュアンスで磐井討伐を命じられたのだろうか。
さて、この二人の日神の勢力は、東に勢力を拡大していくが、最初に勢力を拡大したのは先に来た物部氏である。
物部氏は、金属加工技術を用いて、銅鐸を作成し、銅鐸文化圏の技術者集団となったと考えられる。
秋田物部氏に伝わる呪文「ふるべ、ふるべ、ユラユラふるべ」は、まさしく銅鐸祭祀の掛け声である。
遅れて、ニニギノミコトの勢力の神武天皇が東征する。
ここで、物部氏はどうも、あとから来た勢力をあっさりと受け入れる傾向があるようである。
神武天皇を受け入れ、古墳時代には応神天皇をも受け入れている。
弥生時代の序列では、ニギハヤヒこそが日神の筆頭であった。
しかし、歴史は勝者が書くものである。
物部氏は、蘇我氏に負けてしまった。
それに対して、旧倭奴国勢力は、自滅した古墳時代の渡来勢力(ヒボコ族)や百済系に勝って最終的に勝者となり、日本書紀ではニニギノミコトを日神の筆頭に持ち上げることになった。
蛇足:物部氏の残存勢力は、一部は秋田に移住した。また一部は滋賀に移住して、戦国時代の浅井氏につながるという説がある。
参照サイト
https://lunabura.exblog.jp/15604815/