基本的に、2017年に行った投稿の再掲です。
東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。
亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。
私の母方の祖母は、竹久
夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya
koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷
虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。
私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。
この投稿は、前に、kjで、行った、2011年に、横浜駅周辺(東京の南部郊外最大の繁華街)にある、規模の大きなデパートの一つ、そごう(sogo)デパート横浜店内にある美術館で行われた、蕗谷
虹児(fukiya koji)(下の補足説明を参照)の展覧会(exhibition)に関する投稿の中から抜粋して来た物です。
蕗谷
虹児(fukiya
koji):1898年、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)。有名とは言っても、竹久
夢二(takehisa
yumeji)とは違って、超有名(とても有名)と言う程ではありません。雑誌・本・新聞等は、購買者別に、幼年(子供)向け・少年向け・少女向け・成人の男女向け・女性向けと大雑把に分類出来ますが、蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、それら全ての分野に絵や文を書いているものの、幼年(子供)向け・少女・女性向けの出版物において、最も、仕事をしました(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。蕗谷
虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake
kasyo)等と共に、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家です。現代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)にも、蕗谷
虹児(fukiya koji)のファン(fan)は多く、「蕗谷 虹児(fukiya koji)を参考にした」と明言している、竹宮
恵子(takemiya
keiko)(下の補足説明を参照)は、これまた、次世代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)に、大きな影響を及ぼし続けている漫画家の一人となっています(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。
竹宮 恵子(takemiya keiko):以下、竹宮 恵子(takemiya keiko)に関する説明は、wiki等を参考にしました。1950年生まれ。1970年代から活躍している日本の、有名な女性、漫画家で、主に、少女向けの漫画の漫画家。日本の、少女向けの漫画の漫画界における、大御所(その業界の第一人者として強い影響力を持つ人物)の一人。5歳の頃から、日常的に、漫画を描くようになり、中学生で、本格的に、漫画を描くようになり、1967年、17歳、高校生の時に、漫画家として、デビュー(debut)した。竹宮 恵子(takemiya keiko)は、蕗谷 虹児(fukiya koji)の影響を受けている様です。
以下、蕗谷虹児(fukiyakoji)1(すぐ下でリンクを付けた投稿)の続きです。
蕗谷虹児(fukiyakoji)1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3989522?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。
日本の近代の児童文学(子供向けの文学)の歴史は、1891年の、「こがね丸(koganemaru)」に始まるとされます。以後、本来は、大人向けの挿絵を描く画家達が、児童向け(子供向け)の雑誌や本にも描いていましたが、1918年7月、日本の、童話(子供向けの話・文学)・童謡(子供向けの歌)雑誌、「赤い鳥」の創刊が契機となり、幼児向けの雑誌や絵本(絵が、多い本)に、新しい潮流がもたらされました。この雑誌は、芸術性を重んじ、童話(子供向けの話・文学)や童謡(子供向けの歌)に名作を生み出し、同時に、それに伴う絵にも、芸術性を求めました。その翌年の1919年11月には、「赤い鳥」に、刺激を受けた、日本の雑誌、「金の船」が創刊されました。「金の船」は、1922年に、雑誌名が、「金の星」に変わりましたが、蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、雑誌名が、「金の星」になってからの、1923年8月から、同雑誌の、表紙や挿絵を描きました。その後も、1920年4月創刊の「童話」、1922年1月創刊の「コドモノクニ(子供の国)」、1923年11月創刊の「コドモアサヒ(子供朝日)」と、芸術性に根ざした、日本の、幼年(子供)向けの、童話(子供向けの話・文学)・童謡(子供向けの歌)雑誌、絵雑誌(絵が、多い雑誌)の創刊が相次ぎ、そこで活躍した日本の画家達は、1927年に、「日本童画家協会」を結成しました。蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、「日本童画家協会」のメンバー(member)には、含まれていませんが、「金の星」だけでなく、「コドモノクニ(子供の国)」にも描き、やはり、この時代に創刊された、「児童の世紀」等の、日本の、童話(子供向けの話・文学)・童謡(子供向けの歌)雑誌、絵雑誌(絵が、多い雑誌)にも、作品を載せ、日本の近代児童(子供)文化の発展に、大きく貢献しました。この時代に描かれた、蕗谷
虹児(fukiya
koji)の童画(子供向けの絵)作品を見ると、芸術性と言う意味では、「日本童画家協会」の設立メンバー(member)の作品に劣るものではありません。もっとも、読者である子供にとっては、蕗谷
虹児(fukiya koji)の作品の緻密さが、やや息苦しく感じられたのではないか?とも思われます(なお、第二次世界大戦後の、蕗谷
虹児(fukiya
koji)の子供向けの絵の画風は、第二次世界大戦前の、同画風と異なり、息苦しい程の描きこみがなされる物ではなく、さらりと、分かり易く描かれる物となっています)。「日本童画家協会」のメンバー(member)の作品全般に対しても、「大人の評価は高いものの、子供には、高踏的過ぎて(質が高過ぎて)、あまり好まれなかった」と言われています。その後の、蕗谷
虹児(fukiya koji)の、子供向けの出版物における活躍については、後で書きますが、蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、生涯に渡って、幼年(子供)向けの絵の分野でも、活躍しました。
第一次世界大戦後の1910年代末から1920年代初めは、日本において、近代文学や近代文化が、中産階級及び大衆層(庶民層)の注目を集めた時代であり、暮らしのゆとりと自由な雰囲気から、日本の近代的な大衆文化が成熟して行った時代です。この時期、日本では、子供の個性や自我を重視した、「赤い鳥」、「コドモノクニ(子供の国)」等の、日本の、子供向けの雑誌が、数多く登場、絵雑誌(絵が多い雑誌)や童話(子供向けの話・文学)雑誌が次々と創刊され、日本の近代児童文化(子供向けの文化)の興隆期を迎えました。1920年代前半において、既に、蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、少女雑誌(少女向けの雑誌)で大活躍していましたが、子供向けの絵雑誌(絵が多い雑誌)にも、度々、絵を描きました。

「王子と忠犬」。日本の、子供向けの雑誌、「宝の山」の表紙。1922年。

「アラビヤ(Arabia)の月」。「金の星」の表紙。1923年。「金の星」は、1919年に、キンノツノ社から創刊された「金の船」から、1922年に誌名変更された、日本の、子供向けの雑誌(童話・童謡雑誌)。

「ロスケ(rosuke)パン」。日本の、子供向けの雑誌、「ミソラ」の挿絵。1924年。露助(ロスケ。rosuke)とは、日本人がロシア(Russia)人に対して使う、蔑称です(現在は、差別用語として認識されている)。ロシア革命(Russian Revolution)後、かなりの数のロシア(Russia)人が日本に亡命して来ました。こうした、ロシア革命(Russian Revolution)後、日本に亡命したロシア(Russia)人(革命から、しばらくしてから、日本に来た人も、少なからず含まれる)は、かつてロシア帝国(Russian Empire)で貴族であったような裕福な人々や、モロゾフ(Morozoff)家やマカール・ゴンチャロフ(Makar Goncharoff)(モロゾフ(Morozoff)家と、マカール・ゴンチャロフ(Makar Goncharoff)は、それぞれ、神戸(kobe)(日本の西部に位置する大都市)に本社を置く、日本の西洋菓子会社、「モロゾフ(Morozoff)」(1926年創業)と、「ゴンチャロフ(Goncharoff)」(1923年創業)を創業)の様に、商売等で成功した人々もいましたが、娘を花売り娘として、街頭(市街地の道路や広場)に立たせなければならない様な、貧しい人々も、かなりいた様です。上の挿絵の(挿絵を伴った)文の内容は、以下「」内の通りです。「私は、悲しい、ロシア(Russia)の子供。日本の坊ちゃん(男の子)パン買ってよ。日本の嬢ちゃん(女の子)パン買ってよ。パンパン、ロスケ(rosuke)パン。パンは、いかが」。ここでの、「ロスケ(rosuke)」には、蔑みの意味と言うよりか、愛情や親しみの意味が込められていると思います(大人の子供に対する愛情の様に、絶対的に優位な立場にある者の愛情ですが。。)。日本人は、日露戦争(Russo-Japanese War。1904年から1905年にかけて、日本とロシア帝国(Russian Empire)の間で行われた戦争。日本の実質的な勝利に終わる)後、第二次世界大戦まで、(日露戦争(Russo-Japanese War)の勝利や、ロシア革命(Russian Revolution)による亡命者等により)、ロシア(Russia)人に対して優越感を抱いていた様です。第二次世界大戦の最終局面、日本がアメリカを中心とした連合国(ソビエト連邦(Soviet Union)を除く)との戦争で、ほぼ完全に壊滅状態にあった時に、ソビエト連邦(Soviet Union)が、日ソ中立条約(Soviet–Japanese Neutrality Pact)を一方的に破棄し、日本に対して宣戦布告した事や、それ以後、ソビエト連邦(Soviet Union)によって抑留された(抑留は、第二次世界大戦が終わった後も、しばらく続きました)、日本人捕虜(日本軍捕虜及びソ連軍が逮捕した日本人)の、非人道的な取り扱い(第二次世界大戦中の、日本軍による、連合国軍捕虜の取り扱いも、この時の、ソビエト連邦(Soviet Union)の、日本人捕虜の取り扱い同様、非人道的な物でしたが。。。ちなみに、日露戦争(Russo-Japanese War)における、日本のロシア(Russia)軍捕虜の取り扱い、第一次世界大戦における、日本のドイツ人(ドイツ兵が中心)捕虜の取り扱いは、人道的で、紳士的な物でした)等により、第二次世界大戦後は、日本人のロシア(Russia)人に対する、主だった感情は、優越感から憎しみへと変わりました。
蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、1925年から1929年にかけて、パリ(Paris)で、(挿絵画家としてではなく)本格的な画家として成功する事を目指して、(フランスの)パリ(Paris)に滞在していました。蕗谷
虹児(fukiya koji)は、パリ(Paris)滞在中、サロン・ドートンヌ(Salon
d‘Automne)等のサロン(salon)で入選を重ね、パリ(Paris)の雑誌社からも挿絵の依頼を受ける様になりましたが、家庭の事情等により、パリ(Paris)で本格的な画家として成功する夢を断念し、1929年に、約4年間における、パリ(Paris)滞在を終え、日本に帰国しました。なお、蕗谷
虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo
kai)」等の、日本の雑誌向けの仕事は、(前よりも、少なくなったものの)、パリ(Paris)滞在中も続けていました。

蕗谷
虹児(fukiya koji)のパリ(Paris)のアトリエ(作品制作作業場)にて。。。1926年頃。手前、蕗谷 虹児(fukiya
koji)。奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)の最初の妻、りん(rin)(日本の、一般人の、女性)。当時、蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、27歳、りん(rin)は、17歳(蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、1923年、24歳の時、当時14歳であった、近所の娘、りん(rin)と結婚)。

下の写真、パリ(Paris)にて。。。写真一番左の奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)。写真一番左の手前、りん(rin)。1928年頃。

「日本をあとに(日本を後に)」。「小令女(小reijyo)」(「令女界(reijyo kai)」の妹版として創刊された、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌))の挿絵原画。りん(rin)をモデル(model)にしていると思われます。1926年。
蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、パリ(Paris)滞在中、フランスの雑誌社からも、口絵の依頼を受ける様になりました。写真以下3枚は、現地の(フランスの)雑誌、「ファンタジオ」に掲載された口絵の切り抜きです。この他、蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、現地の(フランスの)、児童雑誌(子供向けの雑誌)、「ラ・ジュネスヌーベル」からも、挿絵や口絵の依頼を受けました。



蕗谷
虹児(fukiya
koji)が、パリ(Paris)に滞在中の1929年1月、パリ(Paris)からも、日本からも、遠く離れた、上海で、魯迅(Lu
Xun。中国の有名な作家)が、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」を出版しました。魯迅(Lu
Xun)は、1927年に、上海の書店で、蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集を手に入れ、蕗谷 虹児(fukiya
koji)が描く絵に魅せられました。魯迅(Lu Xun)は、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」に、蕗谷 虹児(fukiya
koji)の詩画集の中から、蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵と詩を、抜粋して掲載し、詩は、魯迅(Lu
Xun)自らが、漢訳(中国語訳)しました。

「旅人」。魯迅(Lu Xun)が出版した、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」から。。。

下落合(shimoochiai。現在の新宿区(東京中心部の西部)に位置する)の自宅(自分の家)の庭で、薔薇の剪定をする、蕗谷 虹児(fukiya koji)。1939年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、自宅の庭に、様々な種類の薔薇を植えていました。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌(少女向けの雑誌)、全てに描き続けましたが、中でも、「令女界(reijyo kai)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、自らの持つ力を全開させる事の出来る、最も大切な舞台となった雑誌です。当初、「令女界(reijyo kai)」が、対象年齢としていたのは、他の、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)と同じでしたが、創刊から数年後の、1920年代半ば頃から、対象年齢が上がり、対象年齢は、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)の高学年から、女学校を卒業してから結婚するまでの女性(主に、17歳から20歳代前半)となり、「令女界(reijyo kai)」は、少女と主婦の間にある、「未婚の女性」を対象とした、日本で最初の雑誌となりました。日本では、1910年代半ば頃から、職業を持つ女性も増え、結婚年齢も徐々に上がり、「未婚女性」が増加したのです。そのような社会状況に、いち早く対応して、それまでの少女雑誌(少女向けの雑誌)と女性雑誌(主婦向けの雑誌)の、中間的な年齢層を購買者としたのが、「令女界(reijyo kai)」でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」において、可憐な少女ではなく、家庭の匂いを持った主婦でもない、独立した女性の魅力を、目に見える形で、読者に示しました。
写真以下。1920年代後期から1930年代の、蕗谷 虹児(fukiya koji)の「令女界(reijyo kai)」における作品例(途中、「胡蝶の夢」を除く)。

「山の乙女」 表紙原画。1928年。

「花の国の乙女」。表紙原画。1928年。

「新緑」。表紙原画。1928年。

「水草の花」。表紙原画。1928年。

「郊外の秋」。表紙原画。1928年。
写真以下2枚。江馬 修「悩みをとおして」(物語の内容は、不遇な女性ピアニストの波乱に満ちた生涯)の、挿絵原画。1927年から1929年。


1929年から1930年にかけての「令女界(reijyo
kai)」においては、目次の次は、ニュース(news)写真が誌面を埋めていました。挿絵よりも写真に重点が置かれていたのです。そこに変化が現れたのは、1931年の新年号です。豪華なフルカラー(full-color)の見開き口絵が1年間を通して、毎号載る様になったのです。口絵とは、文字の助けを借りる事なく、絵そのもので、世界を表現する、雑誌においては、表紙に次ぐ、重要な価値を持つ物です。特に口絵の中でも、フルカラー(full-color)の口絵は、画家が色の出方まで拘る重要な物です。

「幸福の使者」。口絵。1931年。

「夢」。口絵。1931年。

「胡蝶の夢」。1968年。
1931年の、「令女界(reijyo
kai)」の、豪華な口絵で、蕗谷 虹児(fukiya
koji)が登場したのは、2月号と6月号でした。特に、6月号では、仰向けの女性の横顔と蝶が、薄暗い背景に溶け込んだ、「夢」を発表し、大反響を呼びました。「茶和会」と言う、「令女界(reijyo
kai)」の読者投稿欄に寄せられた、16件のコメントの内、「夢」について書かれている投稿は、7件にのぼり、「素晴らしく気高い作品」、「美しい色取り、崇高なプロフィル(profil)は、本当に夢のようですね。ある神秘さを感じました」、「この絵は、絵と言うより、余りに詩的です。この絵から受ける感じは詩的な幻想です」等、「令女界(reijyo
kai)」の読者の、日本の、少女・若い女性達から、絶賛されました(ちなみに、同年2月号に載った、「幸福の使者」に対するコメントは2件でした)。「夢」の構想は、蕗谷
虹児(fukiya
koji)が、フランスの雑誌、「ファンタジオ」の為に描いた口絵から生まれ、1960年代末には、「胡蝶の夢」として、同様の作品を展覧会(exhibition)に出品している事から、蕗谷
虹児(fukiya
koji)にとって、相当、思い出深い作品であったと思われます。なお、翌年(1932年)から、この口絵ページは、単色又は2色刷りで、詩が掲載されるページとなりましたが、蕗谷
虹児(fukiya koji)は、ここに掲載される、西條 八十(saijyo yaso)や野口 雨情(noguchi
ujyo)等の詩を飾る挿絵を描き続けました。
2月号に掲載された、「幸福の使者」は、決して、悪い絵ではなく、むしろ、第二次世界大戦後に、蕗谷
虹児(fukiya koji)が手掛けた、「令女界(reijyo
kai)」の表紙を彷彿させるような、きりっとした目つきの美しい作品です。それでは、この2月号と6月号の作品(「幸福の使者」と「夢」)に対する読者の反応の違いは、いったい何故起こったのでしょうか。そこに、「令女界(reijyo
kai)」の読者層は、誰なのかと言う問題が大きく絡んでくるのです。
前述の通り、蕗谷
虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo
kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌(少女向けの雑誌)、全てに描き続けましたが、「少女倶楽部(少女club)」の読者と「令女界(reijyo
kai)」の読者とでは、10歳程の年齢差がある事を考えると、取り上げられる題材や描かれる絵柄は、全く違っていて当然と言えます。「少女倶楽部(少女club)」と「令女界(reijyo
kai)」の中間に位置する、「少女の友」と「少女画報」は、可愛らしさ、快活さ、可憐さと言った物が、主な要素でした。これに対して、「令女界(reijyo
kai)」は、結婚して大人の女性となるまで、あと一歩と言う、大人の色気を伴い、もはや、可愛いだけの少女ではなくなった、純真な少女と大人の女性の中間の、少女・若い女性層を対象としていました。もちろん絵ばかりでなく、内容も、他の、当時の日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)と比べて、かなり大人向けとなっていました。例えば、「令女界(reijyo
kai)」の、人生相談欄には、しばしば性や結婚に関する質問や相談が寄せられました。その多くは、色恋(sexや恋愛)についての現実生活に直面した悩み相談でした。また、「令女界(reijyo
kai)」に掲載された小説には、10代後半の少女を読者対象とするのに、現代の保守的な健全志向派の人々の基準からすると、疑問に思われるような物が多くあります。例えば、北川
千代の「路遠く」は、主人公の姉が、遊び人の夫から梅毒(性病)を感染させられると言う、衝撃的な展開を見せます。他にも、裏切りの物語や男女の三角関係を取り上げた物等、(はしたない言い方をすれば)他人の不幸を楽しむ為の物語が多くなっています。「令女界(reijyo
kai)」の読者層は、年齢層的に、少女と呼ぶには大人びた存在であり、しかし大人とも呼べない女性達でした。「令女界(reijyo
kai)」の読者層に当たる年齢層の女性達は、過剰な好奇心に溢れている一方で、自らを守る意識も高く、無防備でありながら、守りが固く、無垢でありながら残酷であると言った、様々な矛盾した性質を有する存在です。彼女達は、火遊び程度の体験(それは、実現しない事を望むと言う意味で、彼女達にとっては、ロマンティック(romantic)な体験である)に憧れながらも、実際には、自分が傷つく事のない、ぎりぎりの線を楽しみたいのです。ここで、1931年の、蕗谷
虹児(fukiya koji)が、「令女界(reijyo
kai)」の為に描いた、2点の口絵に立ち返ってみると、ともに大人びた雰囲気の作品であったにもかかわらず、「幸福の使者」にはなくて、「夢」にあったもの、それは、現実離れした、ロマンティック(romantic)な要素であり、前者が後者よりも、不人気だったのは、この要素が無かったからだと考えられます。現実的な大人の世界を描いていながら、同時にロマンティック(romantic)な物を見せてくれる事が、「令女界(reijyo
kai)」の読者である、少女・若い女性達が求めた物でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo
kai)」において、他の少女雑誌(少女向けの雑誌)では描き切れなかった、現実的な少女像、婦人(主婦・大人の女性)向けの雑誌では描けなかった、ロマンティック(romantic)な少女像を、同時に表現する事が可能でした。蕗谷
虹児(fukiya koji)は、成長したい・成長したくない、大人になりたい・大人になりたくないと言う、「令女界(reijyo
kai)」の読者の、少女・若い女性達の矛盾を、「令女界(reijyo kai)」における絵において、優しく強く表現し、「令女界(reijyo
kai)」の読者の、少女・若い女性達は、自分達と等身大の、時には憧れの女性像を、「令女界(reijyo kai)」における、蕗谷
虹児(fukiya koji)の絵に見ていました。

表紙。1936年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「知性を感じさせる、毅然とした眼差しに、同時に誘いかける様なセクシャル(sexy)な魅力も含む、相反する二つの魅力を、一身秘めた(同時に持つ)、若い女性」を描くのを得意としていました。
蕗谷虹児(fukiyakoji)3(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
蕗谷虹児(fukiyakoji)3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3989520?&sfl=membername&stx=nnemon2