あ。 端書き
日本は徳川さん[徳川氏] 幕府(幕府) 末期の 1853年アメリカ海軍の艦砲射撃脅威に屈服して 1854年米・日本通産条約(美日通商條約)を締結して開国(開国)した後, 西洋勢力との通常貿易で貿易赤字が累積して西洋列強の圧力が加重されると難局打開の方法として韓国を侵略して征腹しようという鼎韓論(征韓論)を定立した.
近代以後日本の鼎韓論は 1850年代に吉田松陰[吉田松陰]が 17世紀日本国学(国学)を含めた一部日本人の歪曲された韓国館(韓国観)を受け継いで定立した政策として a。 先に三韓(三韓)を征腹して金・銀・物産のこれ(利)を取って貿易赤字をあてて日本の難局を打開して, b。 次に北では満洲(満州)とモンゴル(蒙古)まで ‘進出’して支配して, c。 南へは台湾(台湾)とフィリピン[呂宋]をおさめて支配するという侵略では(侵略論)だった.
吉田松陰の鼎韓論はいわゆる明治維新[明治維新] 直後の 1869年頃に城東ダカー要の時[木戸孝允] などによって政治的側面でもっと発展したし, 1873年頃にはサイコダカー森[西郷隆盛]・イタがキDaisuke[板垣退助]・ などによって具体的決めた(征韓) 計画が樹立されたりした. しかし 1873年 9月に帰国したこれと区だとドモミ[岩倉具視] など欧米視察団がゾングハンの時期尚早を指摘してソンネチ(先内治) 厚情した(後征韓)を主張することで選定した(先征韓) フネチ(後内治)を主張する西向き派(西郷派)と尖鋭に対立した. 結局権力闘いで西向き派が敗れて政権をアムチァングパ(岩倉派)が主導するようになったが, これは日本の明治政権(明治政権)の政策で鼎韓論が完全に消滅したのではなく戍だけで引き延びになったことに過ぎなかった. 日本が船内治下で近代的富国強兵(富国強兵)を実現した後には彼らも韓国を侵略・征腹して植民地にして永久的に支配する目標を持っていた.
が文では鼎韓論は韓国侵略では(韓国侵略論) そのものなので扱わないでアムチァングパが日本内の権力闘いで勝利した以後より狡く日本帝国主義政府の韓国侵略を擁護して正当化した日本帝国主義擁護では(日本帝国主義擁護論)から扱おうと思う. しかし主題は膨大で地面は極めて制限されているので日本帝国主義海外侵略(日本帝国主義海外侵略)を擁護して正当化した日帝(日帝) 殖民主義史観(植民主義史観)を中心にして極めて選別的に主題を限定して論述しようと思う.
い。 日本の殖民主義史観(植民主義史観)の台も及び韓国歴史打率性では(韓国歴史他律性論)とその批判
日本では 1850年代後半に吉田松陰などによって ‘鼎韓論(征韓論)’が頭をもたげて, 1868年明治維新でチンファング(親皇) 政権が樹立された後鼎韓論が国策に採択されると日本の韓国侵略を歴史的に正当化して擁護しながら日本国民を韓国侵略に動員するために韓国歴史を ‘鼎韓論’に合わせて解釈しようとする動きが頭をもたげた. そして日本最初で 1882年 3月日本陸軍参謀本部(日本陸軍参謨本部)で朝鮮国史編纂(朝鮮国史編纂) 作業が始まった.
近代日本で韓国歴史に対する編纂作業を学界で学者たちが学問的真実を探求する目的に始めないで日本陸軍参謀本部で ‘鼎韓論’の実践のための精神全力(精神戦力) 体系樹立の一環で始めたという事実が韓国歴史を歪曲して彼らの韓国侵略を正当化して擁護するように捏造する蓋然性を示唆するのだった. 引き継いで 1885年東京[東京]の帝国大学(帝国大学)が設立されて, 1887年その中に史学科(史学科)が設置されると日本陸軍参謀本部傘下編纂と(編纂科)の朝鮮国史編纂事業が帝国大学史学科に移管された. 日本の帝国大学は史学との主任教授でドイツで実証主義(実証主義) 歴史学派の対価で有名なランケ(Leopold von Ranke)の弟子であるリース(Ludwig von Riess)を招いて日本学徒たちがドイツ歴史学派の近代的歴史研究方法を取るようにした. しかしランケ学派であるリース教授の歴史研究方法論が日本明治政権の国策として韓国・満洲侵略のための士官や邪論を歪曲・定立するのに誠意ある協力ができないで, 1889年には史学科と別に国史学と(国史学科)をまた新設するようになった. その結果史学科ではリース教授の指導の下に主に西洋史学を勉強したし国史学科では日本人学者たちが中心になって国策としての日本歴史体系樹立と決めた(征韓)の目的を果たすのに協力して韓国侵略を正当化しながら擁護するための韓国歴史に対する殖民主義史観を定立するのに集中し始めた.
まず帝国大学国史学と教授たちであるシゲノ−ヤツスで[重野安繹], Gumeクニダケ[久米邦武], ホシノ−尚[星野恒] などが 1890年に『国史の中(国史眼)』という教科書を出版したが人々は韓国が古代開国と同時に日本の服属国(服属国)であることを強調して, 例えば日本のツルウンシンファ(出雲神話)から出るスサノ−オノ−米してからも[素佐之男尊]が古朝鮮(古朝鮮)の支配者になって, イナヒノ−ミしてからも[溜永命]が新羅(新羅)の国王になって, 彼の息子アメノ−ヒボコ[天日槍]が日本にグィボック(帰服)と, 神功王后(神功王后)が新羅を征伐して降参させたと主張した. もちろんこれが彼らの荒唐無稽(荒唐無稽)一捏造なのはもう言うまでもない.
なので日本の帝国大学史学科出身であるHayashiタイ号[林泰輔] などは 1892年に『朝鮮社(朝鮮史)』(5本)を刊行したが, 彼はここで大伽揶(大伽〓)の王子俄羅斯(阿羅斯)が日本国王を尋ねて内助(来朝)したし, 後に国名を変えて任那(任那)と言ったし, いわゆる神功王后在位期の時には任那に日本府(日本府)を置いたが, 伽揶の 7国が皆ここに属したし, 後に近所の小国をもっと竝合して皆任那だと呼んだと記述した.
Hayashiがずいぶん前から捏造された日本の古代史料を歪曲・使って作り出した いわゆる ‘任那日本府説(任那日本府説)’は近代に入って初めて日本人たちが敍述した韓国歴史にいわゆる任那日本府(任那日本府)という捏造された偽りを正式で挟みこんで 古代伽揶の昔の地が皆日本の征服誌(征服地)であったし百済と新羅も日本の神国(臣国)だったというとんでもない憶説(臆説)を捏造し出したのだった.
Hayashiが日本帝国主義勢力の韓国侵略を史学で擁護して, 傍助するために韓国民族の過去の事実と能力を捐下して歪曲する中に一番大きく歪曲させた部分が高麗大学韓国民族の中国と日本に対する関係だった. 彼は古代朝鮮が時には北方の中国に, 時には南方の日本に服属してはじめから自律性(自律性)がない打率性(他律性)の民族だったのを主張して, いわゆる ‘任那日本府説’を除いてからもいわゆる神功王后が新羅を侵攻して征伐(征伐)したと主張した.
Hayashiは a。 いわゆる任那日本府説 b。 いわゆる神功王后の新羅征伐説(新羅征伐説) 以外にも c。 百済が日本に服属されて朝貢を捧げたという説 d。 百済が日本に保護を依頼して滅亡を兔れたという説 e。 高句麗が日本の臣下になって朝貢したという説 f。 新羅が三韓を平定した以後にも日本を軍国(君国)で仕えて朝貢したという説...... などを主張した. 彼のこのような主張などはもちろん捏造されて歪曲された荒唐無稽した主張だ.
日本の帝国大学史学科と国史学との教授たちと卒業生たちは 1889年史学回(史学会)を組織して『史学回雑誌(史学会雑誌)』を刊行しながら, この雑誌にYoshidaドオで[吉田東伍]・ナカ及んでください[那珂通世]・シラトリグラキチ[白鳥庫吉]・シデしなさい平[幤原坦]・ツボイ駆魔組[坪井九馬三] など多数の新進学者たちが彼らの殖民主義史観に基づいて韓国歴史を歪曲した論文たちを本格的に発表し始めた.
日本帝国主義侵略者たちは日本陸軍参謀本部が始めた事を学問研究の仮面をかぶって帝国大学の歴史学者たちが代行してくれると気高万丈(気高万丈)して日本が韓国を ‘征伐’することは侵略ではなく古代に日本が支配した ‘日本旧領土(旧彊土)の回復で復旧(復旧)’と騷いで宣伝した. 日本政府が体系的な教育によって捏造された韓国歴史と日本歴史を国民と学生たちに教えると, これにだまされて暴れ狂う日本国民と日本学生たちがますます増加した.
日製のこのような初期殖民主義史観と韓国歴史に対する歪曲・捏造に正面から対抗した人物が短才(丹斎) シン・チェホ(申采浩, 1880‾1936)だった. 短才はもう 1908年頃に古代朝鮮が北方の中国に服属したという日本学者たちの主張を 無説(誣説)と一蹴しながら ‘たいてい(漢) 世宗(世宗)が設置した四郡(四郡)は 韓半島にはなかったし韓国人たちの先祖になる付与族(扶余族)とは無関係で中原の帝王だった数(隨) 羊蹄(煬帝), 党(唐) 太宗(太宗), 敷布団(遼) 成宗(聖宗) などは むしろ韓国を侵略してから敗れたが, 昔の韓国民族が中国に服属したという 日本人たちの主張は偽り’に過ぎないと読史新論(読史新論)を通じて駁した.
特に短才(丹斎)はいわゆる ‘任那日本府説’を含めて古代韓国が日本に服属したというHayashiなどの偽りされた主張などを自分の著述である読史新論できっぱりと不正で 次のように痛烈に批判した.
第一, 日本の女王(女王) 非Miho(卑彌乎)が新羅を侵犯したという主張は我が国の昔の歴史書には全然記録されていないのみならず日本の歴史書を見ても大魚協奏(大魚挟舟) 朝日級国(潮〓及国) などの彼ら資料説明が現わすところのように事実にない事を捏造し出した荒唐無稽した主張に過ぎない.
第二, もっとおかしいことは失性麻立干(実聖麻立干)が兄弟間に泊った感情を抱いて弟ミサフン(未斯欣)を外国で放逐した事があるのに日本学者たちが非Miho(いわゆる神功王后)のいわゆる新羅征伐説(新羅征伐説)を証明するために神功王后(神功王后)が新羅を侵攻すると新羅の国王が屈服して弟であるミサフンを日本に人質に送ったと歪曲して捏造したのだ.
第三, 古代には日本が我が国のどの地も占拠した事実のないのに彼らは日本が大伽揶を滅ぼしていわゆる ‘任那日本府’を設置したと捏造して主張しながらまるで日本が韓国の国土を占拠することを歴史上の常例と一緒に見るようにしようとしたのだ.
短才は日製の初期殖民主義史観のいわゆる ‘任那日本府説’が全然歴史的事実ではない荒唐無稽するように捏造された無説(誣説)と痛烈に批判した.
短才は高句麗の国力が強大で何回にかけた中国の侵略も飽きたのに日本に朝貢したということは荒唐無稽した主張だと日本学者たちを痛烈に批判した. 短才は百済と新羅も剛性して文化が大きく先進して日本に朝貢するとか服属するどころか返って百済と新羅の先進文化を日本に教えてくれて日本を開化させてくれたと歴史的事実をあげて日製の初期殖民主義史観を一つ一つ批判した.
それでは日本の歴史学者たちが韓国歴史をこんなに歪曲して捏造しながらこのような荒唐無稽した嘘を歴史的事実のように主張する理由は何か? 短才はその理由を次のように二つで分けて入った.
第一, 韓国を古代から日本の所有物のように認識するようにして韓国を侵略するのだ.
第二, そんなことで日本国民の畏敬思想(外競思想)を鼓吹して国民精神を振作させるためのことだ.
短才は日帝殖民主義史観の韓国歴史に対する歪曲と捏造の目的をこんなに鋭く指摘した. 彼は ‘虚無(虚無)意思(斯)’もますます繰り返えせば ‘確かな死’と一緒になると警告こんにちはだった. すなわち『三国志(三国志)』・『守護だ(水滸誌)』が小説のとは皆分かるもののそれを重ねて読んで重ねて伝えるの間に諸葛功名(諸葛孔明)の錦嚢三戒(錦嚢三計)やムソング(武松)の敬譲網打豪奢(景陽罔打虎事)をまるで事実であることのように思うようになることのように彼ら日本人は皆歴史書の中で “韓国が元々日本の属国と言った類”の言葉を書き入れて商戦サンソン(相伝相誦)ハメ学校講義では日本の子供が嬉しくて走って閑居読書(間居読書)の場合には帳簿の勇気がほとばして韓国を昔から日本の所有物と一緒に考えさせて韓国を侵略して征腹して日本の所有物で作るのが当たり前だと思うようになるというのだ.
短才はここで日本帝国主義勢力の韓国侵略を擁護して正当化する日帝殖民主義史観の弊害をよく認識して異意徹底的な批判と克服を促したのだった.
大韓帝国末期に 日本帝国主義勢力の韓国侵略を擁護して正当化しようとする理論である 日製の初期殖民主義史観に一番鋭く抵抗して批判した人は短才(丹斎) シン・チェホ(申采浩)・白岩(白巌) 朴殷植(朴殷植) など韓国の民族主義歴史学者たちだった. しかし日帝が 1910年 8月韓国を完全植民地に強点することを前後して短才は 1910年 4月に, 白岩は 1911年 4月に中国に亡命した. 日帝は殖民主義史観に基づいて韓国併呑が ‘日本の旧領土(旧彊土)の回復であり, 復旧’と途方もない川辺をしながら, 日製は明治維新[明治維新] 時期に侵略目的に主張し始めた偽り学説である ‘日鮮同組論(日鮮同祖論)’をもっと強調して韓国民族の抵抗と独立運動を撫でさしようと企てた.
も日製は彼らの ‘鼎韓論(征韓論)’が元々韓国征服次に満洲侵奪を目的にしていたので, 南蛮鉄道株式会社(南満鉄道株式会社) 中に ‘満船地理歴史調査室(満鮮地理歴史調査室)’を設置して シラトリグラキチ[白鳥庫吉]・松井Hitoshi[松井等]・IkeuchiHiroshi[池内宏] などを中心に至ったところ ‘満船社(満鮮史)’という植民主義史学を作り始めた.
日製の御用史学者たちはこのような作業をした中に韓国民族主義史学係で出版した書籍から大きい打撃を受けた. 白岩朴殷植が 1915年『韓国通史(韓国通史)』を著述・刊行して海外の独立運動家たちの間に広く読ませた のみならず国内にも秘密裡に流入されて民族独立思想を鼓吹したからだ. 日製はこれに対する対抗策として日帝殖民主義史観による『朝鮮半島社(朝鮮半島史)』を編纂・普及するために 1916年に ‘朝鮮半島社編纂委員会(朝鮮半島史編纂委員会)’を朝鮮総督府(朝鮮総督府) 中に設置した. これは韓国民族が日本の支配から独立する名分と実利が絶対ないし, 永遠に日本の植民地奴隷に暮さなければならないという論理を強調して 殖民主義史観を普及して注入させるために日帝(日帝)が用意した最善の方策だった.
日帝は 1925年に朝鮮半島社編纂委員会を朝鮮史編修会(朝鮮史編修会)で改称して,『朝鮮半島社』も『朝鮮社』(私は37本)で改称して 1932年から刊行し始めた. この本は日帝の韓国侵略を ‘恩恵’で分かるようにして史料集も兼ねるように考慮して日帝の植民地政策に有利なことだけ選択して不利なことは皆抜いて韓国の歴史を日帝の植民地支配に相応しいように極度に捐下して歪曲したのだった.
朝鮮史編修会の会員たちを中心にその外郭ダンチェとして組職された朝鮮史学回(朝鮮史学会)が発行したその外の多数の韓国歴史に関する書籍たち,「チォンググハックチォング(青丘学叢)」など多くの学術雑誌に載せられた日本御用史学者たちの論文たちも日帝の韓国侵略と植民地支配を擁護して 正当化するために韓国歴史を極度に歪曲した. 歪曲のいくつかの要点を持てば次のようだ.
第一, 彼らは韓国民族史の起源が周辺国家の植民地(Colony)で始まったと捏造して主張した. 彼らは韓国歴史が記者朝鮮(箕子朝鮮)で始まると主張したり, 衛満朝鮮(衛満朝鮮)で始まると主張したりしたし, たいてい(漢)の植民地である漢四郡(漢四郡)で始まると主張したりした. 彼らは檀君朝鮮(檀君朝鮮)は事実にない荒唐無稽した神話に過ぎないと強調して主張して, 韓国民族の古代史が北方民族の植民地から出発したことを強調するのに発狂した.
第二, 彼らは韓国歴史の特徴を打率性だと強調して主張した. 彼らは韓国歴史が高麗大学以後最近世に至るまで北では強大な北方民族と中国, 南へは日本の繩張と影響圏の下あったし, したがって外勢によって韓国歴史が決まった打率性の歴史を兔れることができなかったと主張した. そして彼らは北方民族の支配力を強調しながら韓国歴史の部首性(附隨性), 周辺性(周辺性)を強調していわゆる ‘満船士官(満鮮史観)’を主張して韓国歴史の打率性を主張したり, いわゆる ‘任那日本府説’を捏造して日本が古代にあぶらはや部屋に直轄植民地を設置して新羅と百済も支配したし高句麗の朝貢も受けたという虚偽事実を捏造したり, 韓国歴史のこのような打率性は韓国の ‘半島’という地理的環境から出た ‘半島的性格’として運命的なことだと主張したりした. このような主張などが捏造されて歪曲されたことだったのはもう言うまでもない.
第三, 彼らは韓国歴史の打率性から出たことだと言いながら韓国歴史の特徴一つを事大性(事大性)と歪曲して非常に強調した. 韓国民族は周辺の強大国に従って彼らに寄り掛かって国家と生命を維持して来た事大主義の歴史を持ったのが特徴だと彼らは主張した.
第四, 彼らは韓国歴史に現われる文化は独創性(独創性)がなくて宗主国を模倣したことに過ぎない模倣性(模倣性)が特徴だと歪曲して主張した.
五番目, 彼らは韓国歴史は高麗大学以後最近世まで党争(党争), 政争(政争)が支配して党派性(党派性)が支配した特徴を持っていると歪曲して主張した. 彼らは韓国歴史の党派性が思索党争(四色党争)だけではなく事大性と結合して親院派(親元派), 親命派(親明派), 親清派(親清派), 親老婆(親露派) などパダンを建てて一度島まともに団結して見られなかったことが韓国歴史の特徴だと歪曲して主張した.
六番目, 彼らは日帝が韓国を併呑して ‘童話(同化)’という名前で韓国民族抹殺政策を実施して韓国民族を永久に消滅させて日本民族内の賎民層で編入する政策を推進するとここに補助を合わせて, 韓国民族は元々日本民族と先祖が等しかったと主張しながら, 王倹(王倹) 檀君(檀君)が消残・鎖残オゾン(素盞嗚尊)の弟と主張したり, 韓国民族が日本民族の恨み支流だと主張したりするなどさまざまな形態の捏造されたいわゆる日鮮同組論(日鮮同祖論)を主張した.
七番目, 彼らは韓国歴史は長期間アイデンティティ(停滞性)が支配して内部で自ら発展することができる能力と原動力を欠けたし, 19世紀末と 20世紀初の韓国社会の発展段階は日本の古代言葉や 10世紀Fujiwara[藤原] 時代にあたると歪曲して主張した. この点は臓を変えてまた論議する事にする.
八番目, 彼らはここに止めないで韓国歴史を支配したこのような特徴たちが韓国人の買って来て行動と日常生活に沈積して民族的性格で固着して韓国民族は事大性・党派性・模倣性など劣悪な民族性を持つようになったと捏造して歪曲して主張した.
日製御用学者たちのこのような主張などは皆が韓国歴史の暗い面を浮上させて歪曲して捏造したものなどだった. 日本人たちが韓国歴史の創造的な面, 自主独立, 剛性した面, 誇らしいこと, 勝利した面, 団結したことを皆不正で韓国歴史を事実と違うように徹底的に歪曲したことは一方で日本帝国主義勢力の韓国侵略と植民地支配を擁護して正当化することと同時に他の一方で韓国民族の独立思想を根源から消滅させてしまおうと企てたのだった.
日製御用学者たちのこんな主張などはとても途方もない歪曲と捏造なのでここで一つ一つ批判するより結論で集めてまとめて批判する事にする.
◆ 出処 〓 社会史(社会史) 研究叢書第8冊「日帝(日帝)の植民地政策と殖民至近対話では(植民地近代化論) 批判」文学と知性社編(2006年版)
◆ 解説 〓 シン・ヨンハ(愼〓廈) 漢陽大学校社会学科碩座教授
{引き続き}