暇なので一筆。
ある人が、自動車を「4つのタイヤのついた、自走する乗り物」と思っていたとする。この人にとっては自動車とはそれ以上のものではないし、それ以上区別しなかったとしても問題ない生活を送ってきた。
故に、「Setteもイビーサもラーダニーヴァも同じ物である」と車マニアな方々には噴飯物の発言をしてもこの人にとっては間違いではないし、その差を指摘したところで認識される事はない。
同じように。韓国人と中国人と日本人、当人達にとってはお互いは違うものとして認識されるが、アメリカ人にとっては「東洋人」として認識されるであろうし、その差を指摘したところで理解は難しいだろう。より極端に言えばアメリカ人ではなく例えば雀の目から人間を見たときその個体を識別するのは、我々人間が雀を見たときに、アレは雀のAさんだ、こっちは一昨日来ていた雀のBさんだ、などと見分けるのと同様に難しいであろう。(自在に見分けられれば、オウムのポリネシアさんが言うように、動物語をを話せるようになる入り口に立てたことになる、かもしれない。)
では、ある物事とある物事に『差異がない』という事と、『差異を認識できない』という事を自らどのように区別したらよいか。
この『差異』を逆に『関係性』に置き換えれば、ある物事とある物事が『関係していない』事と、ある物事とある物事の『関係している事が認識できない』事を自らどのように区別したらよいかの問題とも言えるだろう。
その検討も含めて行うのが、対話を行う上での前提、事実確認といえると思うのだが、どうか。
その上で尚関係ない事柄を持ち出しているならば、もしくはその事柄を持ち出した人が関係性を証明できないのであれば、誰であろうと非難されてしかるべきだとは思う。