1920年 10月以後日本軍の満洲出兵と時を合わせて灰だけ(在満) 独立軍は新しい活動基地を尋ねて小満(蘇満) 国境誌どおり移動を開始した. 青山里戦闘(青山里戦闘)で日本軍を打ち破った北路軍政署(北路軍政署), 振付(安武)が率いる対韓国民回(大韓国民会), 催震動(崔振東)が指揮する群舞都督府(軍務都督府), 洪範図(洪範図)の大韓独立軍(大韓独立軍)とその他義軍部(義軍府), 光復団(光復団), 臣民団(研トブ? などの多くの独立軍たちが小満国境に位したミルサン(密山)に集結したが, これら独立軍は安全地帯であるソ連(蘇連) 沿海州(沿海州)で越境して新たに装備の補充と軍事訓練を行うことに決めて入京の前に一つの統合軍団を結成する事にした. そして大韓独立軍団(大韓独立軍団)が編成された. この軍団は私は兵力を 3個大隊で編成して 1代代を 3中隊で, 1中隊を 3牛どおり分けたが小隊総帥が 27個であったし兵力が 3500人に達した.
大韓独立軍団の幹部陣をよく見れば総裁に徐一(徐一), 副総裁に洪範図(洪範図) キム・ジャジン(金佐鎭) チョ・ソンファン(〓成煥), 総司令官にキムキュシック(金〓植), 参謀総長に李章寧(李章寧), 連隊長に李青天(李青天), 中隊長にギムチァングファン(金昌煥) 早冬式(趙東植) ユンギョングチォン(尹〓天) 五光では(呉光鮮) などがそれぞれ就任したということが分かる.
大韓独立軍団は部隊編成を終えた後にソ連地これでに入って行った. しかし最初の目的とは違いこの軍団はソ連の敵軍(赤軍)・白軍(白軍)の間の内戦に荒されて入ってソ連に利用だけあって一部はまっすぐに満洲に帰還したが一部は黒竜江(黒竜江) 沿岸の自由詩(自由市)に移動したがその後自由詩思弁(自由市事変)を経験してからは結局ソ連軍によって武将解除される悲劇を経験した.
が当時の前から沿海州に在留していた大韓国民議会(大韓国民議会)の文昌範(文昌範), 盛りして(韓滄海)と自由代代(自由大隊)のオハムック(呉夏黙), バックスングギル(朴承吉) などがその年 12月初にハバロフスクの敵軍(赤軍) 第2軍団本部に交渉して沿海州に入って来た満洲(満州)で活動した独立軍を1ヶ所で集結するように交渉した. かくして国民議会は自由詩に軍事駐屯地を用意する一方独立軍に人を派遣して自由詩で集結するように導いた.
1921年 3月中旬まで自由詩に集結した独立軍は催震動(崔振東) 許在旭(許在旭)の群舞都督府(軍務都督府), 振付(安武) ゾングイルム(鄭一武)の対韓国民回(大韓国民会), 洪範図(洪範図) 李青天(李青天) 旗下の独立軍と軍政書だったし前からシベリアで武将活動をして来た金表石(金票突), 朴公序(朴公瑞)の二万軍隊, ニコライ最の茶盤軍隊, グリゴ−ルリ朴の独立軍団, 林表(林彪) 高名数(高明秀)のニハンググン(尼港軍)とオハムック(呉夏黙)の韓人歩兵自由代代(韓人歩兵自由大隊) などとして総兵力が 1900人余りだった.
このように修改の武将団体が自由詩(自由市)に集結することで大軍団の結成と軍拡の機会は渡来したがそれぞれ事情が他の数種の部隊集結は自然意図しない紛争を持って来た. すなわち敵軍の第2軍団 6連隊長としてフックハジバング守備大将を兼任しているオハムックとニハンググンというゾックギェ(赤系) パルチサン部隊を導いて活動した朴一理夜間の軍事力掌握のための暗闘がそれだった.
1921年 1月利用(李〓), チェヤング(蔡英) などは韓人軍事委員会(韓人軍事委員会)を結成して当時黒竜株(黒竜州) 一帯を管轄する極東共和国政府(極東共和国政府) 軍部(軍部)に交渉した. ここに軍部ではバックチァングは(朴昌殷)を総司令官に, グレゴ−ルレプを参謀部長に任命して自由詩で派遣する同時にニハンググンの名称をサハリン義勇隊で改称して独立軍及び自由代代などすべての武将団体はサハリン義勇隊の管轄の下に二人のを言い付けた. 韓人軍事委員会は極東政府政府に秘密協定を結んだがその内容は韓国人軍隊の編成を無制限に承認して武器被服食糧を無制限で供給するというの, 軍事委員会以外にいかなる団体を問わず軍事力を許容値ないということを明示した.
数日後バックチァングウンが総司令官職を辞任すると極東政府ではグリゴ−ルレプを連隊長でバックイルリヤを軍政委院長でそれぞれ任命した. この命令を受けたグリゴ−ルレプとバックイルリヤは直ちに軍隊管理に取り掛かったところ, まず部隊駐屯地を自由詩西北部屋に位したマサノ−プで決めて各部隊をこちらに移動させた.
しかしこれらは極東政府当局者たちから再老令(在露領) 韓国人たちに関する問題はイルクーツクにある国際共産党(国際共産党)の東洋秘書部(東洋秘書部)で扱うということを聞いてイルクーツクに行った. その所で電路共産党(全露共産党)と力を合わせて東洋秘書部に韓国人武将君を統括することができる権限を自分たちに委任してくれるのを要請した. この結果誕生されたことが高麗革命軍政議会(高麗革命軍政議会)だった.
● 高麗革命軍政議会(高麗革命軍政議会)の成立
韓人軍事委員会(韓人軍事委員会)が再老令(在露領) 武将部隊を管轄するようになったことに不満を解くことは自由代代(自由大隊)のオハムック(呉夏黙) などは 1921年 2月 27日代表 6人をチーターの極東共和国政府に派遣して武将部隊の管轄を自分たちに渡してやることを交渉した.
軍政議会を組織することを前提にまず臨時軍政議会を立てて総司令官にガルナンダラシビルリ, 副指令官にオハムック, 臨時参謀部長にユズヨン(兪柱淵), 委員にギムハソック(金夏錫) チェジャキチャン(蔡成竜)を任命した. そして軍政議会の兵力強化のために敵軍(赤軍) 5軍団の騎兵 6百人と東(同) 軍団内に属した電動民族君(全同民族軍) 韓国人 6百人を部属させて共産主義宣伝のためにイルクーツク共産党政治学校第1回卒業生 16人を同行した.
これら軍政議会幹部たちは 1921年 4月 14日イルクーツクを出発して 17日チーターに到着した. これらはすなわち極東共和国政府(極東共和国政府) 軍部総長に軍政議会成立頃とを通告して各武将団体を導くことを要求した. ここに軍部総長は敵軍第2軍団に武将団体の引き継ぎを命じてチーターにいた韓人部(韓人部)を解体こんにちはだった.
5月 2日自由詩に到着した軍政議会は韓国人武将部隊の自由詩集結を強行した. しかしサハリン義勇隊を含めたマサノ−プに駐屯中の韓人軍事委員会はこれを拒否した. このようになると軍政議会側はイルクーツク東洋秘書部にこのような事情を報告した. しかし当時兵力面の劣勢に処していた軍政議会としてはなすすべがなかった. その後 5月 28日電動民族君 6百人が自由詩に到着して, 6月 2日にはマサノ−プに駐屯中だった洪範図の独立軍 440人余りが自由詩で合流したし 6月 6日には総司令官ガルナンダラシビルリと委員ユドングヨル(柳東説) 催高麗(崔高麗) 仲間がコカシャスギ兵士 6百名余を率いて自由詩に到着することで情勢は一変して軍政議会が優位を占めるようになった. しかしまだマサノ−プにはニハンググン, 銃軍部, 茶盤君, これで君など総 1400人余りが駐屯していた.
● 軍政議会(軍政議会)と韓国義勇軍(韓国義勇軍)の間の内戦発生
軍事力で優位を占めるようになった軍政議会はすなわち力強い措置を取り始めたしマサノ−プ駐屯軍は自然劣勢に置かれるようになった. 総司令官の命令でクラスナヤにまで部隊を移動させたマサノ−プ駐屯軍は軍政議会に掌握された. 軍政議会ではサハリン義勇隊の連隊長グリゴ−ルレプと副官金しては(金海先)を命令不服従で逮捕してすぐ部隊を自由詩で率いようとした.
軍政議会のこのような取り計いに対して韓国義勇軍(韓国義勇軍) 側では連隊長と副官の釈放を要求しながらここに応じなかったし軍政議会のオハムックと催高麗に対する懲戒を要求して出た. しかし韓国義勇軍側は自由詩に集結する場合軍政議会が義勇軍将校を皆逮捕するだろうと言ううわさがあってずっと自由詩への移動を拒否しただけでなく部隊を他の所に移動しようと計画した. しかし軍政議会側は韓国義勇軍の武将解除をさせることを計画して兵力を動員して韓国義勇軍をかこんだ.
ここに韓国義勇軍側はまたオハムック, 催高麗, ギムハソック 3人を軍政議会で追放灸箚?要求した. しかしこの要求は受諾することができなかったし結局韓国義勇軍は自由詩で少し落ちたスラブセカに移動された. しかしその後にもずっと義勇軍側はオハムックなどの処罰を主張して出たが総司令官ガルナンダラシビルリはこれらの要求を黙殺して将校と副詞官を合して 1百人を 1個の中どおり編成しながら 3個中隊を 1個大対廬, 3個大隊を 1個連帯に編成する事にした. しかし義勇軍側は 150人を単位で 1個中隊を編成することを主張したがこの主張は受け入れられることができなかった. 6月 25日総司令官は具体的な部隊編成に取り掛かったし各部隊は次のように構成された.
第1連帯は銃軍部(総軍府)と合同民族連帯(合同民族連隊), 第2連帯はニハンググンと独立軍団(独立軍団), 第3連帯は自由代代(自由大隊), 国民回(国民会), 独立軍団, 本隊はこれで君とダマングンがそれぞれ含まれたのだ.
軍政議会の以上のような部隊編成は計画的に義勇軍の兵力を分散して弱化させようとするのだった. ここに義勇軍側は満洲出身独立軍とサハリン義勇隊は決して分離することができないから一緒に編成されるようにしてくれるのを要求して出た. しかし義勇軍の兵力を分散させて全軍を掌握しようと祈る軍政議会がこれらの要求を聞き入れるわけはずがなかった. このような軍政議会の仕打ちを続いて頑として反対して来る義勇軍に対して軍政議会は強制で武将解除を断行することを決めて 6月 28日部隊をスラブセカで出動させた. 軍政議会は自由屍水肥大第29連帯と交渉して 4個中隊の敵軍増員兵力を得た後敵軍 2軍団に装甲車の内院を要請した.
この日午後 6時まで両軍の最後談判が決裂されると結局悲劇は発生したあと巻いた. 2代の装甲車と 30余門の機関銃を先に立たせた軍政議会兵力はすぐ義勇軍を攻撃した. 弱気に処していた義勇軍は交戦 1時間ぶりに敗走こんにちはだった. この戦闘で義勇軍側は 272人が戦死して 864人が虜につかまれたし行方不明された者が 250人にのぼる大きい被害を被った.
● イルクーツクへの強制移送
無力(武力)で義勇軍の武将解除を強行した軍政議会は虜 864人の中 5百人は自軍に編入させて残り 364人に対して審査して重大犯罪者に判明された 72人はイルクーツクに押送して 482人は敵軍(赤軍) 第2軍団に越してしまった.
7月 5日高麗革命軍政議会(高麗革命軍政議会)はイルクーツクの東洋秘書部から一通の電報を受け付けたところその内容は高麗革命軍隊(高麗革命軍隊)を満洲で出動させる計画を停止してイルクーツクでイブレ(入来)しなさいというのだった. このような命令の理由は原動政府(遠東政府)と日本間に対連回の(大連会議)が開催されることで国際上問題に関してやむなくズングジハムというのだった. ソ連政府のこのような一方的な仕打ちはすべての韓国人を激怒するようにした. 速く満洲に出動して対日抗戦(対日抗戦)に参戦することが地上の念願だった韓国人武将勢力はソ連政府の裏切り行為にがっかりして一部はイルクーツク行を反対して脱営したりした.
しかしイルクーツク行は強行されて 8月末に移動を完了した. この時イルクーツクに到着した純粋韓国人兵力が 1745人だった. この兵力は敵軍 5軍団管轄の 1個旅団で編成されて旅団長にガルナンダラシビルリ, 軍政委院長に縛繩だけが任命された. しかし 10月 3日ガルナンダラシビルリが買えば良いし新たに旅団長にオハムック, 政治部長にチェドングスン(蔡東順)が任命されたし同年 10月 28日旅団内に 6ヶ月授業期間の士官学校を設立して 2百人の士官を養成した. 高麗革命軍官学校(高麗革命軍官学校)の校長は李青天(李青天)だったし, 教官はチェヤング(蔡英), ギムスングビン(金勝彬) 軍政委院長はソンウゾング(鮮于政)がそれぞれ担当した.
● これででの韓国義勇軍社会(韓国義勇軍事会)
自由詩思弁(自由市事変)を避けて身を隠した利用(李〓)は 1921年 7月沿海州に到着した. 当時これでには満洲から独立運動をしたギムギュなら(金圭冕), 張機影(張基英), 朴上春(朴常春), 催期学(崔基学), 旱雲用(韓雲用) などが集まっていたし自由詩思弁以後こちらへ来た朴一理夜盗あった. かくしてこれでにはまた多い韓国の武将勢力が集結することができた. 1921年 10月 29日には再び韓国義勇軍社会(韓国義勇軍事会)が組職されて委員長にギムギュミョンが任命されて資金の調逹と武器購入に努力する一方韓国義勇軍司令部(韓国義勇軍司令部)を設置して司令官に利用, 参謀長に林表(林彪), 参謀官に旱雲用, 金弘一(金弘一)が任命されたし, 第1中隊長は林表, 第2中隊長に金弘一, 第3中隊長に旱雲用がそれぞれ先任されて部隊編成を完了したし士官養成のための韓国義勇軍無関学校(韓国義勇軍武官学教)を設立した.
韓国義勇軍は敵軍(赤軍) 沿海州司令部の当局者が彼らの白軍(白軍) 掃討作戦に協力してくれるのを要請すると幹部会議をしたあげく沿海州司令部と次のような軍事協定を締結した.
「第一, 韓国義勇軍は赤緯だね(赤衛軍)の白糖掃討前(白党掃蕩戦)を手伝って参戦する. 第二, 韓国義勇軍の装備と食糧及び給料は敵軍と等しい大宇でソ連政府が負担する. 第三, 見た作戦間(作戦間) 級作戦後にも韓国義勇軍はその募集兵力の人員に制限を受けないでこれらの装備と兵力をソ連政府がずっと支援する. 第四, 見た協定はソ連政府の承認を得て沿海州司令官がここに署名する.」
が協定に 1921年 11月 12日ギムギュミョンが韓国義勇軍の代表で署名こんにちはだった. そして 11月 13日義勇軍の第1中隊と第2中隊がすなわち出動こんにちはだった. 敵軍側から新武器弾薬装備を普及受けた義勇軍はこれでの時の西の方と半端川辺の間を作戦地球で引き受けた. 二万戦闘で第3中隊長旱雲用は第1小隊 45人と一緒に白軍の騎兵部隊と合戦をして 6百人を射殺してからは田園壮烈に戦死することで敵軍兵士らを感嘆するようにしたし韓国軍の勇猛性を広くふるった. その後ハバロフスク攻撃前にも参戦して多くの成果をあげた. その後韓国義勇軍はハバロフスク黒竜江(黒竜江) 北岸(北岸)のニコルライェブカからインスクの間のえんえん 5白里に達する地域内の鉄道橋梁及び地方治安を維持する黒竜江鉄道守備隊の任務を受けた.
当時韓国義勇軍司令部と敵軍間の関係はたとえソ連政府の軍需普及を受けてからはあったが義勇軍は敵軍に属した部隊ではないあくまでも敵軍(赤軍)と対等な位置で前後装備のサポート約束によって参戦したのだ. しかし前後(戦後) 敵軍側は完全に義勇軍を裏切ったのだ.
またイルクーツク派による謀略が義勇軍内部で起きたが軍政委員集まろう朴が何人の老令出身将校たちを集めて司令官を更迭しなければならないと先導してからは司令官が親日派であるザングザックリム(張作霖)と連絡を取りながら部隊を導いて満洲で脱出しようと祈るとおとし入れた. そしてギムハソック(金河錫), オハムック(呉夏黙), 催高麗(崔高麗) などもイルクーツクのソ連秘密機関に利用などは自由詩思弁の責任者でザングザックリムと連絡を取る反革命分子なので逮捕しなければならないと罪のなくてとうとう利用(李〓) 逮捕領をソ連各機関に発送した. 司令官利用は仕方なく辞職書を残しておいてこれだけで去った. ソ連政府が参戦の前に義勇軍と密約した装備の普及, 軍事教育などを履行しないだけでなくオハムックなどの謀略で義勇軍の立場(入場)はすごく困るようになった.
● イルクーツク脱出記も
イルクーツクに移動して敵軍(赤軍)に編入された満洲出身独立軍たちは最初の目的な満洲に出兵して対日抗戦(対日抗戦)を展開するという夢が消えて敵軍に編入されてしまうと脱出の機会を狙っていた. 特にこれらを刺激させたことは沿海州での利用(李〓)の韓国義勇軍(韓国義勇軍)が白軍(白軍)とのけんかで宣伝を広げているという消息だった. そしてこれらはイルクーツクを脱出してどのようにすれば沿海州の韓国義勇軍と力を合わせることができるか思案するようになった. 特に日本との外交的紛争を憂慮するソ連政府の態度では満洲への出兵と言う(のは)夢も見られない事だったし日々に悪くなって行く貧弱な給食はもっとこれらの脱出計画を急ぐようにした. かくしてチェヤング(蔡英), イダムル(李多勿), 黄河である(黄河一), 宋歳酒(宋世柱) などは 1次で 30人を脱出させて 2次でまた兵力を脱出させようとしたがばれた. これは 1922年 3月 9日の仕事として李青天(李青天), チェヤング, 黄河であるなど 14人がフィッシェされて敵軍第5軍団軍事法院から軍隊叛乱罪に起訴されて拘禁された.
その後にイルクーツク駐在オハムック(呉夏黙) などはソ連政府と協議して自分たちも沿海州に移動させてくれるのを懇請するようになった. それは利用が導く韓国義勇軍の勢力と名声が高めることを心配したから自分たちも沿海州に行こうと思ったのだった. そして 1922年 8月 15日からオハムックのイルクーツク駐屯軍は沿海州に輸送され始めたが人々の当時名称はゴリョトックリブヨンデ(高麗特立連隊)として敵軍の指揮の下に入っていた. このようになって黒竜株(黒竜州)であった自由詩思弁の後遺症はまた沿海州に移されることで再び両軍の間に花火が散ることは紛争が起きた. その後いくらならなくて韓国義勇軍は結局また武将解除にあって多くの兵力がウスムン労動病で引かれて行って酷使にあってしまった.
● 韓国人軍事団体の武将解除
自由詩思弁(自由市事変) 以後高麗革命軍政議会(高麗革命軍政議会)を含めた多くの韓国人武将団体が敵軍(赤軍)に編入されてしまったがそれでも少なくない韓国人武将部隊が沿海州方面で日本軍と白軍(白軍)に対抗して争っていた. これででは利用(李〓)と金光で(金光瑞)の部隊が, 秋風(秋風) 方面では神佑で(申禹汝), 催敬天(崔慶天), キムキュシック(金〓植)の部隊が, ニコルスク方面にもイビョングフィ(李炳煕), ザングインヒョック(張仁赫)の部隊がそれぞれ 200人‾600人 ほどの兵力で活動した. これら武将部隊はこの時までも敵軍側との約束を信頼していた. すなわち敵軍と連合して白軍を撃退した後敵軍の装備支援をもらって国内に進入して大規模の抗日前(抗日戦)を展開することができるというのだった.
1922年 10月白軍が敵軍に完全に制圧されて同年 10月末に日本軍がシベリアで撤兵こんにちはだった. この時を待った韓国人たちがまだ喜びを感じる前にソ連は韓国人軍隊に対して強制で武将解除を実施した. ソ連は日時自分たちの必要によって韓国人たちを利用してから所期の目的を達すると韓国人武将勢力のレゾンデートルを否定してしまったのだ. すなわち韓国人部隊の武将解除を断行することでシベリアの治安を維持する一方対日(対日) 国交上の紛争のさんをとり除いたのだ. 高い血をこぼして対価を得ることができなかった韓国人武将勢力はソ連政府の仕打ちに激怒したがどうする 数がなかった. そして韓国人部隊は満洲方面で敵軍の目を避けて移動するとか武器を包み隠して後日再起をはかるとか敵軍(赤軍)に編入されてしまったりした. 以後ソ連政府は敵軍に編入された者または徹底的な共産主義者を除いた前韓人(全韓人)の武将を厳禁することで 1923年以後シベリアでの抗日独立運動(抗日独立運動)は終止符を 取ってしまったのだ.
解説=> 韓国学中央研究員韓国独立運動史研究委員 シンゼホング(申載洪) 博士
「引き続き」