このお話にはあんまり関係ないといえば関係ない、実は根っこでもあるお話として「西洋科学・技術の伝来」というお話があります。日本だと、一応1543の火縄銃の伝来や、その後のキリスト教伝来1549等以降がそれに相当します。16世紀ですね。
朝鮮の場合、諸兄の御意見もあるかと思いますが秀吉の出兵・宣祖36(1603)の欧羅巴国輿地図の弘文館への収納とか、あたりになるかと思います。一応宣祖15(1582)、済州島への西洋人漂着が最古だそうです。ただ、それ以前に文物の類は日本や中国を介し間接的に交換されていたかもしれませんが、せいぜい珍奇なものとしての位置しかなかったでしょう。ちなみに煙草・唐辛子・カボチャ・トマトなんかも同時期に日本(もしかすると中国)から、18世紀にはいるとサツマイモが日本から、19世紀にやっとジャガイモが中国経由(陸路)で入って来たのだそうです(このあたりまた聞き豆知識)。
ともあれ、17世紀には朝鮮も西洋文化と向き合い、その後ぽつぽつと医書も中国経由で入って来ているようなのですが、入って来ただけで実用レベルには到達せず、かえりみられる事もありませんでした。最も日本の蘭学にしても18世紀以前に人口に膾炙したとは言いづらいのですが。ただ、この時期に日本では新奇なものという事だけでなく有用なものとして西洋科学を見ていた層が、幕末期の科学の勃興の礎になった事は間違いなく、新井白石のように海外の事情を聞き取る政治顧問もいたことは重要だと思います。朝鮮でもこの様な動きがなかったわけではないのですが、なぜか実際の技術革新に影響を及ぼさなかったと見ています。水車の問題なんかは西洋技術ではないですが、こうした技術の受容の問題のひとつでしょう。朝鮮で西洋技術を具体的に検証したり、結果や状況を出版したり、翻訳のための辞書を制作したり、といった事がどれ位行われていたかというと、氷河期ではなかったかと思います。この辺は今回全く考慮していないのですが、科学技術についてはやはりこの時期にどうも越えられない壁が完成したのではないかなぁと思っています。
さて、天然痘。
ポックスウィルスに属していて、その感染力・致死率(40%※1)は凄まじい代わりに一回罹患すると二度と罹らない(実際にはかかる場合もある)、痘痕(あばた)と呼ばれる分かりやすい跡が残る、それが天然痘という病気です。1980年代に撲滅されているので我々にはなじみの薄い病気です。最近まで非常に恐れられていた病気で、克服された伝染病の代名詞でもあります。豆知識ですが、オセロの中島が日本で最後の仮性天然痘患者(種痘により天然痘の軽い症状が出た患者)だそうで、その症状が出たときは日本中から医師が見学に来たり皮膚の提出を求められたそうです。
※1 ペストで致死率60%程度
予防方法は種痘が唯一の方法であり、極めて高い効果が得られます。近年まで行われた種痘は牛痘法と呼ばれ、ジェンナーによって1796に考案されたものです。何でも牛痘(牛の天然痘)ウィルスと人間の天然痘のウィルスがかなり近い割に、牛痘では人間に大きな症状が出ない上天然痘に対する抗体も作られるためこの方法が効果的なのだそうです。
歴史に天然痘が出てくるのは非常に古く、紀元前1100年代にはエジプトに症例が見られるそうです。中国では5世紀末に流入し、そのまま陸路を伝い朝鮮には6世紀前半に流入します。対して日本にはやや遅れ6世紀中盤以降に流入します。その後かなり長い時間、流行を繰り返し、そのたびに神の怒りとか祟りとされてきます。
この病気が一回しかからない事(免疫性が高い)は古くから知られていましたが、既に中国では宋代(真宗もしくは仁宗:11世紀)に天然痘の膿を余人に接種させる人痘というものが出てきたといわれます。実際には明代にその端緒があり、清代に普及したと三木栄は述べています。康熙52(1713)の「痘疹定論」・乾隆6(1741)の「種痘新書」等が人痘に関する最古の書籍ですが、この人痘法は日本へ入るのが先になります。日本へは延享1(1744)、朝鮮では正祖14(1790)に伝来(朴斉家による)しています。三木は「この方法は明和1(1764)に日本から朝鮮へ書籍の贈呈という形で入ったが全く関心を持たれなかったらしい、実学派が出てくるまでは因循固陋で無理だった」と書いています。
この技術は正祖23(1799)丁若鏞の知るところとなり、正祖24(1800)に朴斉家と共にこれを実施、種を李鍾仁に託し伝種します。しかし正祖が死に純祖が立つと西教信奉の咎で全員左遷(というか配流)。丁若鏞は配流後、この方法が行われている事を聞いたりしつつ、それでもめげずに憲宗1(1835)に牛痘法を試みた痕跡があります。西洋学が禁止されていたときの事なので内密の実験でしかなかったようですが、これが朝鮮半島における種痘の最も古い例と考える事ができます。五洲衍文長箋散稿種痘弁証説にその一件がでてくるそうですが、残念ながら原著は見つけられませんでした。三木の本にはその部分の引用がありますが、これは長いので割愛。ただ、この時期丁若鏞は配流されている事、西洋学は弾圧されていた事など、どうやって書籍(もしくは技術)を入手したかは全く不明です。1828にはジェンナーの牛痘法が漢籍に翻訳されている事から、有り得る事ではありますが、このあたりは伝聞のそのまた伝聞とも言えますし、そもそも五洲衍文長箋散稿、どこまで実証的なのか私にはとんと分からず。
日本では寛政1(1790)の緒方春朔の種痘(人痘)・文化7(1810)中川五郎治による種痘(牛痘)が最初ですが、これらが日本全国へ普及していくのには嘉永2(1849)の緒方洪庵による除痘館・安政5(1858)お玉が池種痘所開設まで待たなければなりませんでした。春朔は当時漢文基本の医書を和文で書くなど、医療の普及に努めた事でも特に重要な人物です。ここで日朝の差は浮き彫りになります。かたや西洋学を徹底的に弾圧した朝鮮(丙寅教獄:1866等)、かたや素人にも分かる本の出版を試みる日本。何がそうさせたかについて論じ始めるとこれはまた全く違う話になり大きく横道(というかそっちの方がでかいかも)に逸れていくのでここで止まります。が、しかし、少なくともスタートラインはほぼ同じであったはずの天然痘防疫(清の人痘法・ジェンナーの牛痘法の漢訳移入など)は、50年程度で彼我の差を取り返せないところまで格差を生んでいました。
嘉永7(1854)の日米和親条約によって開港し西欧経済・文化の嵐に翻弄され、明治維新を迎えた日本は過激ともいうべき欧化主義を推進します。これは医療についても同じく行われ、明治2(1869)に種痘所(医学所)を東京医学校(大学東校)へと格上げしていき、ドイツ系の医学の積極的吸収を行います。この学校は最終的に東京大学医学部(現在の東大医学部)へとつながります。明治7(1874)には近代医療行政の整備も行い医師免許や医薬分業を推進します。しかし当時の伝統的医師である漢方医について禁止したかというとそう言う事は行わず、自然減少から消滅という方向性を打ち出します。面白いのはここで漢方というものが根絶するわけではなく、漢方医が医師免許を取得しその存続を試みる、西洋医が漢方に興味を持つと、二面から伝統医学というものを残そうという動きもある事です。これが漢方の戦後の再評価につながったわけです。
ここでやっと朝鮮科学史・医学史の巨人が出てきます。朝鮮の開国は1876(年表が間違っていました。トホホ)。この年来日した使節団中の朴永善が順天堂病院で種痘に関する技術授与、書籍購入をします。書籍は帰国後池錫永に与えられ、種痘(牛痘)法も伝授されたといいます。池は既に牛痘法については予備知識があったと三木は述べていますが、この辺も実際は不明。池は牛痘の卓越性を知る事になり実践を願うのですが、当時朝鮮王朝には全くその準備がない。当時半島で種痘を行っていたのは、開国翌年から運営開始した、日本海軍の釜山済世医院のみ。そのことを池は知らないまま「釜山は開港しており、日本人医師もいるから、種痘法も学べるだろう」という漠然とした意識のまま、知己もないまま釜山に旅立ちます。偶々浦瀬裕が「そう言う人物が釜山に来た」事を知り、池を済世医院を紹介します。ここで池は種痘法の技術習得をするのですが、済世医院から滞在費・痘苗・種痘針・帰りの旅費までもらいます。対して朝鮮側は日本人居留地への往来制限をしていたため東莱府が池を捕縛するという事をしています。このあたりも日本と朝鮮のものの考え方が垣間見え、興味深いものがあります。推測かつ余談になりますが、この時の済世医院の行動は緒方洪庵の除痘館の考え方も反映されていたのではないかとも思われます。
とにもかくにも池は種痘技術と道具を手に入れ、京城に戻るわけですが、痘苗が駄目になる事を恐れ(生ものだったので、一定期間で駄目になるものだったそうです)、1879妻の郷里忠州郡徳山里で義弟の子(2歳)に種痘を行います。相当反対されたらしいですが善感(成功)で、その後合計42名の種痘を行います。これが半島における朝鮮人による朝鮮人への種痘の始まりとされます。その後池は京城でも種痘を行い、1880来日、本格的に種痘法を学び、帰国後巫女からの流言飛語にめげず種痘を広めます。ところが、1882壬午の乱が起きると池は外国から魔術を移入した罪に問われ捕縛令が出され、当時作ったばかりの種痘所も放火されます。池は何とか難を逃れ、閔妃の台頭で形勢が逆転した事により京城へ帰還、再び種痘を開始します。1855『牛痘新説』を発刊するに至り順調に見えた池ですが、1887声闘により「牛痘により徒党を衆せらる」として配流させられます。配流先でも彼は種痘を行ったため、むしろその地域に種痘が始まるということになるのですが、逆に言えばこの頃でも京城や釜山などの地域を除き、種痘自体が半島全土に行われていなかった事が分かります。1892許されて京城に戻った池は、翌年牛痘保嬰堂を設立します。
明治29(建陽1:1896)釜山領事の支援もあり、池の種痘は拡大していきますが、翌年独立協会へ荷担していき、明治31(光武2:1898)黄海道へ流刑に処せられます。しかしこれは短いもので、翌明治32(光武3:1899)大韓国が官立医学校官制制定をしたときには復帰し、初代官立医学校校長に就任します。ただ、池は1910日韓併合時に校長(当時大韓医院:改名し朝鮮総督府付属医学講習所)を辞職しています。このあたりの事情は調べていませんが、教育制度には日本語の使用(漢文ではなく)を推進したり、横書きハングルを提唱したり、当時の朝鮮語近代化にも大きく寄与した人物ではありましたが、やはり独立派だった事が起因しているのかもしれません。彼の功績は朝鮮実学派を基礎に、西学を実践した近代朝鮮医学・科学から国語学にまで渡る偉大なものです。ただし、親日派として何度も弾圧を受けていた事、彼の偉業のかなりの部分を日本が支えていた事、実際には全国的に医療を普及させたわけではない事には注意が必要でしょう。
池以外の動きとしては1885の釜山での天然痘流行、1899伝染病に関する各種の法令発布、1909李王の種痘などがあります。また1909には仁川で女性種痘要員が初めて育成されています。女性が男の前で衣服を脱ぐ、という事に抵抗があったため全く普及が進まなかった女性への種痘が、これで大きく前進していきます。
さて、ここまでが天然痘に関して総督府以前の近代朝鮮半島の状況です。池の行動以外の部分も含めてかいつまんでまとめると
1 人痘法の移入については少なくとも実施レベルでは日本と大きく差のない時期、ただし牛痘法についてはやや年代に差がある
2 その後の経緯で両国の開国期には越えられない壁ができていた
3 朝鮮では池錫永の活躍により種痘が根付きだしたが、これは日本の支援によるところが大きかった
4 明治18(李太王22:1885)に釜山で天然痘・麻疹が流行するが、日本人居留者には天然痘患者があまりでなかったのに対し、朝鮮人には大流行した。この段階では池の種痘はまだ限定的だった事が伺える。
5 本格的な防疫は明治29(建陽1:1896)以降であり、日本の保護国化によるものと推測
6 明治32(光武3:1899)伝染病に関する緒規則発布以降種痘が全国的に拡がり始めるが、これも心許ないものだったと考えられる
7 明治41(隆熙2:1908)段階でも伝染病に関しては朝鮮人の届出が全くなく、検病的戸口調査によって罹患者を計測している
結論から言ってしまうと、1876の開国以前はほとんど種痘は顧みられることなく開国後も幾度と無く弾圧され、保護国以降本格的に防疫体制が作られていった、という事になります。池の奮闘は非常に偉大かつ貴重なものですが、日本の全面的バックアップによる所が大きく、かえってそのために弾圧されてしまった、というところでしょう。
他の伝染病の状況は、この天然痘ほどはっきりはしていません。しかし天然痘でもこの状況であり、総督府以前は流行ったらあとは巫女を呼んできて伏し拝むだけと言う状態と推察され、被害状況をまとめて対策を立てるという所にはとうてい達していなかったと思われます。それでも天然痘は総督府以前からある程度積極的対策が講じられており、以降の総督府時代の数字にも影響があったのではないかと仮定し数字について検討しようと思います。
さて、次回はこの天然痘が数字的に総督府の中でどう変化していくかというところです。どんな数字になることやら。

写真が一枚もないと窮屈かと思い貼った、後悔はしていない。