ちょっとゴールを見失いかけていますね。よろしくない。ネットで中途半端なSSやよく言う「エたる」文章はこの到着点のないまま書き進めた結果だといつも思っています※1。塀の時と違って、物言わぬ数字がそびえ立っている事も始末が悪い。だから常にゴールを意識する事が肝要。
こういうときは頭の切り替えに武満とか三善、間宮なんかで耳からリフレッシュするのがよいですね。ただなかなか名演奏がないというのが難点です。アシュケナージやウェルナー・ハースなんかのお気に入りも心が安らぎます。
まずは前回torotoroさんからご指摘のあった件。
torotoroto 04-23 00:09:16 罹患率上昇の原因に、赤痢を判別する検査の精度があがったから。とか、ないですかねえ。
残念ながら所詮素人の検討なので、具体的にこれ、と言う論考は見いだす事ができませんでした。細菌培地などは19世紀末、コッホとかの時代に一気に発達し(寒天培地なんかが有名ですね)ここでいったん完成してしまいます。Difco & BBLと言う会社(培地の会社)の略史によると、1940年代以降に研究が進み、1950-60年代に試薬の類が再びよくなっているようで、昭和初期には19世紀末とあまり大きな違いはなかったのではないかと思います。もちろん、雑菌の混入を防ぐ手段など常に医療は発展していたので精度は上がっていったものと思います。ただ、この時期に画期的な研究を見つけられなかった、ということでご了解下さい。
※1 エたる…エターナルから来た造語。作者が消え、物語が止まってしまった時などに使われる。エターナル(永遠に)完結しなくなってしまった、くらいの意味。
とにかくまず人口の把握とかをしてみたわけですがこれが結構面白い傾向でした。基本的に総督統計年報によっていますが、各地の面積は『朝鮮地誌資料』(T8:1919)を参考にしています。実際には土地の編入・分割などが何回か行われているので確度は低い情報である事をまずご承知下さい。また、こんな事になるとは思っていなかったので、欠落部分がやたら大きい事も平にご容赦。朝鮮の情報については1924(T13)以降は1934(S9)・1937(S12)・1940(S15)・1942(S17)を使っています。
朝鮮各道の人口変化
朝鮮各道人口密度変化と赤痢死亡率
まず人口そのものは昭和に入ってからの増加が極めて顕著である事が分かります。特に京畿道(首都)と咸鏡北道(鉱工業地帯?)における伸びはものすごいですね。許粹烈の電波論文で頭がくらくらしたのですが、そんなものを見るまでもなく1920年代から1940年代初頭へかけて朝鮮半島の工業生産は4倍近い伸びを示します。
読まなきゃよかった。
終戦直後のこうした資産の6割以上が現在の北朝鮮域に展開している事からも、この時期に盛んに工業地帯が北部に展開していた事はよく知られるところです。この工業の労働力が人口増加を担っていたのはいうまでもありません。
都市部への人口集中は、こうした工業地への人口流入以上に激しいものだとと思われます。次のグラフは京畿道の4地域(京城府・仁川府・高陽郡・加平郡)の人口密度指数(1912:M45=100)の変化を追ったものです。
京畿4地域人口密度変化
加平郡を除く3地域は途中で何度か府域郡域が編入や分割によって面積が変化しています。グラフでもよく分かるのは高陽郡で、1936にいったん京城府へ南部が分割され(京城府へ編入)たため、一瞬人口密度ががくんと落ちています。それでも京城府がこの時期に拡大し、隣接した地域も人口が拡大していった事が容易に分かります。加平郡が京畿全体の平均と同じ程度の増加であった事は非常に興味深いですが、これはまた別の話。なお筆者はこれらの地域がどのような地域かについてほとんど分かっていません。京城は首都、高陽は隣接地域として、仁川は京城に次ぐ地域として、加平は京畿で最も人口の少ない地域のひとつだったため選んだだけです。ちなみに位置関係は以下のようになります。
抽出した4地域の位置関係
八道の中で京畿の人口密度指数は200まであがります(他の地域もそれくらいになるところが多い)。これは咸鏡北道の260には及びませんが、そもそも人口の少なかったこの地域と比較する事が間違っているような気がします。しかし京畿の平均を無視するように京城府付近は300から800まで上昇しています。住環境の劣化はものすごかったでしょう。
ところがこの増加の最も大きい時期、1937-42にかけては赤痢による死亡率はむしろ下がります。この直前、増加の始まる1934から37にかけては死亡率はいったん上昇していますので、34-37は密集による被害が拡大し、37-42は撃退する傾向にあった事が分かります。二点(二つの年)のみの比較だとこうした病気の当たり年裏年と言った事になる可能性があります。が幸いな事にこの37-42は3点の比較ができており、確実に減少傾向が認められますので、戦争中にも関わらず衛生環境はよくなったと見ていいです。
全部の道を出すと煩雑で分かりづらかったので、他道と比較して典型的な動きを見せた5道の赤痢死亡率指数(1912=100)を次に示します。他の道はこの5道のどれかに似た動きを見せたと思ってください。
朝鮮各道赤痢死亡率指数変化
工業地域であったろう咸鏡北道が昭和に入って高止まりするのに対して、京畿は全体の変化にほど近く、減少する傾向を示しました。もとより咸鏡北道は大元の人口が少ないため、患者数のわずかな差が大きなぶれになって現れやすい事を差し引いても、衛生環境がやや劣化していったと思われます。対して首都部は強烈な人口流入に対して、医療の充実や衛生環境の維持に注力していたであろう事が分かります。そして、この人口集中地域を何とかするだけで、朝鮮半島全体の衛生状態が改善されるくらい京城付近に人口が集中していったと見ていいでしょう。
統治する側としてはどちらが楽かと問われるとやや難しいところはありますが、物資(医薬品や医療器具)の集積、医療担当者の充実という切り口から見れば、過度でない限り、集中していた方が容易であったろうと思います。また戦時中であり、強権を発動し衛生環境を維持する事もできた、と考えられなくもありませんが、ここについては未調査です。
いずれにせよ人口の集中によりむしろ医療機関を広く展開させなくてよかったために赤痢を減らす事に成功したのではないかと思います。また、工場労働者の増加は人間を集めて一気に診療・治療する事には都合がよく、こうした部分も赤痢減少・死者の減少に一役買ったと考えられます。
乳幼児の死亡率など他の資料も検証が必要ですが、朝鮮各道の人口は大正期よりも昭和に入ってからの増加の方が大きく、特に工業地帯と考えられる地域に顕著であった事は非常に興味深いものでした。そして、どうもこの辺には統計のマジックが隠れているような気がしてなりません。この事について話していたときにfmdoll氏に指摘されたのですが、実は隠れていた農業人口が食える場所を求めて工業地帯や首都部に流入した部分があったのではないか、と言う問題が出てきてました。また臨戦態勢のため人口把握が精密にならざるを得なかったのではないかとか、そんな事も考えてしまいました。
今回の結論
1 赤痢は内地・台湾・半島では全く違った発生傾向を示した。特に内地・半島ではパンデミック期にはむしろ発生が少なくなって いた。理由は不明である。昭和にはいるとこの両地域は発生率そのものが増加する傾向を示すが、内地が高止まりしたままなのに対し、半島では戦時中に減少す る、と言う不思議な傾向を示した。外地(半島・台湾)の内地人(日本人)は、現地人の発生率と似たような傾向を示しながらも漸次減少傾向を示した。
2 半島人口については昭和に入ってからの伸びが大きく、都市部への集中は極めて大であった。逆に大正期は半島全体で緩やかに人口が増えているように思われ た。ただし、爆発的とも言える人口増加は単に自然増だけでは説明しづらく、人口統計の信頼性に疑問すら残った。
3 この人口の集中は衛生管理とい う点で一長一短ながら、伝染病予防という切り口では寄与した部分が多いように思われる。
4 昭和に入って半島の赤痢患者数はいったん増加傾向を示 すが、その後戦時中にむかって下がる傾向を見せた。これは工業地帯や都市部での衛生環境に留意すれば赤痢を押さえ込めたためではないかと思われる。
おまけふたつ。
ひとつめ
日本全国の赤痢発生状況を比較しようと試みましたが、県の数が多すぎてこれは断念しました。て言うか無茶。東京市(元は15区・S7以降は現在の23区に相当)についてはグラフを作ってみました。数字は『東京市統計年表』(S14:1939)のものです。昭和に入ってから患者発生率がうなぎ登りなのに対して、死亡がそれほど増えていません。これはとにかく医者にかかっているからであり、この事は東京市も「患者発生は全国平均から見ても高いもので残念であるが、死亡者は全国平均より低く推移しておりやや首都の面目を示すものである、としています。1910の患者大発生の理由は調べてみましたが不明。1923は大震災の影響です。1924には1922水準まで戻し、死亡率はそれよりも低くなっていますので、被災地での衛生観念の高さがうかがわれます。
東京市赤痢患者率と死亡率
ふたつめ
都市人口の変化を調べようと色々当たっていたときに『釜山府勢要覧』(S14:1939)というものに出くわしました。近代の文献は多くが酸性紙のためさわるだけで紙がぼろぼろと崩れ読むだけでも難儀なものが多いのですが、これもまたそういうもので、壊さないようにそっと読みました。その割に人口変化などは細かい記述が無く衛生も短い記述のみでがっかりしたのですが、ちょっと面白いものがあったので書写してまとめてみました(コピーなんかとれる状態でなく、当然コピー不可)。釜山に居住する朝鮮人の日本語会話のできる率、と言うものです。識字率ならぬ「識話率」とでも言うものでしょうか。
大正時代に識話率が下がってくるのはおそらく付近近在から流入してくる人口のためと思います。片言が分かるレベル(要覧では稍稍解シ得ル者)はその後も下がる傾向を示しており、教育が行き届いて無い層が増えている事がうかがわれます。これに対し昭和(S4:1929)以降は現地での日本語教育が行き届くようになったのか普通に会話できる層が増加する傾向が見て取れます。表示しませんでしたが、1919に比べ1938では会話のできる女性が12倍に達していました。悪辣な日帝による地道な教育活動のたまものですね。逆に大正年間でも朝鮮女性はまともに教育を受けさせてもらえていなかった証左のような気もしますが。
釜山居住者の識語?率
次回はコレラ。コレラはむしろ全体を俯瞰するのではなく、大発生時の顛末などを取り上げてみたいと思っています。
毎度お馴染みおまけのおまけ

すばらしぃ。