入母屋って 何? いつからあるの?
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入母屋造(いりもやづくり)は、東アジアの伝統的屋根形式のひとつである。広義には当該形式の屋根をもつ建築物のことを指す。単に入母屋ということもある。
入母屋造の屋根は、上部においては切妻造(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)、下部においては寄棟造(前後左右四方向へ勾配をもつ)となる構造をもつ。弥生時代の集落遺跡である登呂の竪穴式住居が茅葺きの入母屋造で復元されているほか、奈良県の佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡(かおくもんきょう)にも当時の住居様式四種が表されており、その中の一つにも入母屋造のものが見られる。また、家形の埴輪は屋根形式が入母屋であるものが多い。
日本においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた。瓦葺きの入母屋は、法隆寺の金堂や平安神宮大極殿のほか、各地の城郭建築でも見ることができる。京都御所の紫宸殿のように切妻部分と寄棟部分の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)と呼ばれる。
なお、この形式の屋根は西洋では少なく、木造建築が発展している一部の村でしか見られないが、日本のほか、中国、韓国、台湾のほか、ベトナム、タイ、インド、インドネシア等、東洋の寺院ではよく見られる。中国では歇山頂(けつさんちょう)、歇山式屋頂、または九脊頂とも称される。宋朝では九脊殿、曹殿、廈両頭造などと呼ばれたが、清朝の頃に歇山頂と呼ばれるようになった。
by Wikipedia
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Wikiに頼るのって駄目ですよね。特に歴史関係。入り口としては便利だけど、それが真実かどうか?であるとか、現在の学説はどうか、という点では慎重であるべきです。序と、そのおまけでも述べた通り、「格式の高い形式として重んじられた」のではなく、あくまで格式の高い人物(または組織)が多く採用してきた結果、格式が高いと目されているのです。
たとえば極端な話神宮(伊勢神宮)は、現在も神社本庁の本宗(至高至貴にして全国神社の総親神)で、文位無(これは大神や石上の上)、中世では石清水と共に二所宗廟、近代敗戦までの社格制度上社格外とされる、驚異の格式を持つ「格式高い」施設であり、建造物は切妻平入り千木鰹木10本のお社です。
なぜ文位無とか社格外が凄いのかと言いますと、これは位階を超越しているという意味合いで、むしろ位階を与える、という立場の格なんですね。これはたとえば冠位十二階を聖徳太子や蘇我馬子が持っていなかったのと同じ事で、古代からこっちずっと与える側(≒天皇;位を与える立場)だ、と言うことです。ちなみに神宮は、天皇以外の奉幣禁止(私幣禁断)・近代までは大中臣氏や白川氏が祭主を務め、近代以降は皇族または公爵の親任。現在は女性の元皇族が就任。今は事実上サーヤ様が祭主。それこそ皇居を除けば最も権威ある領域です。伝統もまた然り。
わかりやすく言えば「信仰的権威としての天皇直下のナンバー2」ですね。切妻だけど。
それでも御所皇居と言った部分は入母屋なわけですが、なぜなのでしょう。それを考えるために先ずは日本の入母屋形式の歴史を「瓦の流入」以前について検討します。
1 竪穴住居と入母屋
この写真は日本史の教科書でおなじみの「登呂遺跡の竪穴住居復元施設」ですね。入母屋です。実はこの復元には元ネタがありまして、母型になったのはこれです。こっちも入母屋。

菅谷鑪高殿(近世)
現在の考古の世界ではこの復元は非常に問題が多いことが指摘されています。内部にせよ、外部にせよ。登呂遺跡の復元担当の先生がなぜこれを母型にしたのかすらよくわかんないんです。当時の話をまとめると、その先生が「これだ!」とぴーんと来たらしいんですけど、序のおまけの絵なんかは検討しなかったのかなぁと思うわけです。今は発掘例も非常に多くなり、焼失の結果部材が配置された状態で残存していたり、火山噴火の降灰でそのまま埋まっていて屋根構造までわかるようになってきていて、多くの遺跡でそれを元にした復元が行われています。
たとえばこんな感じ。

渋川中筋遺跡(6C)の竪穴住居
関東ではまだまだ古墳時代ですね。でも同じ遺跡にはこんな遺構もあります。

渋川中筋遺跡(6C)の掘立柱施設
これは入母屋ですな。
さて、では日本において最も古い入母屋は何かと言いますと、これ。

北海道八雲町栄浜1遺跡199号住居祉出土家型石製品(4600年前:BC2600程度)
これは蝦夷やアイヌの系譜で日本じゃねぇ、というのは無しで。領域としての日本ですから。加えてその形状は現在の茅葺き入母屋の農家のそれに酷似しており、日本には縄文時代から入母屋があったと考えていいんです。でここでもうお話しは終わりにしてもよいのですが(入母屋は半島から流入した文化ではないので)続行。
次にお見せするのも有名な遺跡の構造物。

青森県青森市三内丸山遺跡大型竪穴住居復元施設(長32m巾10m:4300年前)

中はこんな。
この次かその次くらいに出てくる予定のエビノコ大殿の規模が29.2*15.3ですので、ほぼ同じ規模の構造物です。一列に比較することはできませんが、古代日本の王宮クラスの構造物に匹敵する建築だとご理解いただければ十分。これの復元に当たっては「大雪の時に二階部分からの出入りが考えられる」という推測から寄棟と入母屋の複合的施設として復元しているようです。冬になるとこんなになるようです。

雪の重みにも充分耐えていますね。雪かきしているんでわかりづらいですが、なるほど一階部分が埋没したら二階からの出入りになります。これは東北の曲がり屋にもよく見られる建築で、おそらくそれを参考にしたのだろうと思います。
瓦?十分乗るんじゃないですかね。
さて、時代を一気に古墳まで飛ばします。間に弥生時代があり、吉野ヶ里遺跡墳丘墓前の祀堂は後々の神社拝殿の原型とも思われるとか、北主祭殿は12.5mの方形+礎板(礎石の板状の物)であるとか結構色々面白いのですが、復元、という点では「それはどうかなぁ」と言うのが多すぎるのでここでは割愛。まぁ、この時代も日本は着々と巨大建造物を造っていたと言うことだけにしましょう。
古墳時代の家の遺物と言えばまずこれ。

佐味田宝塚古墳(奈良県北葛城郡)家屋文鏡(4C末-5C初)
ACDは住居系で、Bは倉庫、Aは一般(と言っても蓋があるので偉い人?)Cは宮殿状の施設、Dは基壇を持つ大陸系の施設と考えられています。時代的には卑弥呼のあとで倭の五王の前くらいかな。
これらの絵に酷似した埴輪も全国から多数発見されていますが、実はある意味最も重要な埴輪がこれ。

室宮山古墳出土家型埴輪(奈良県御所市:葛城氏の根拠地)
葛城氏は雄略帝の攻撃で滅びるんですが、実はこの古墳の近くに豪族居館跡しかも焼失した遺跡があるんです。それが極楽寺ヒビキ遺跡。ここからこの家型埴輪の板状柱によく似た遺構がでてるのです。

極楽寺ヒビキ遺跡遺構図
この発見によって、こうした家型埴輪の板状部分が「制作時粘土を形成・焼成する必要から板状にしていた」という従来の説はひっくり返り、こうした家型埴輪が「かなり写実的」なものであろうと言うことになったわけです。

こうしてで来た遺構の復元図はこんな感じ。
葛城氏は神功皇后の時半島に派遣された将軍のひとりを祖に持っている(と言っても美女に心を奪われて誤ってカラを滅ぼすという逸話もあり)氏で、4-5Cの倭国における朝鮮外交を担っていた氏族と考えられています。仁徳から仁賢帝まで八代に渡り嫁さんを出す、ヤマト政権の軸(後に物部や蘇我になるポジ)氏族です。滅ぼした雄略帝も葛城氏から葛城韓媛(かつらぎのからひめ)を世話してもらっていて、この女性は清寧帝を生んでいます。但し皇后にはなっていません。
葛城氏自体、韓媛と言う命名から見ても半島との関係は深かったと見えますので、「瓦以前」の技術流入の大きな部分を担っていたことでしょう。しかしこの段階でもたとえば須恵器は伽耶の系譜であったり、半島南部に前方後円墳があったりと、こうした技術を倭国が「教えてもらった」という議論には私は否定的です。弥生から仏教伝来までの技術は主として大陸や半島の技術者集団が戦乱を避け移住、もしくは交易によって流入してきたものと考えています。
ということで、この回の結語
1 日本には縄文時代から仏教伝来以前まで連綿と入母屋文化を持っていた。
2 縄文時代には古代王宮に匹敵する木造建築を築いていた。
3 弥生時代にも大規模な建築物がある。
4 古墳時代の家型埴輪などは実はかなり写実的な部分があると考えられる。
※tigerⅦ氏が指摘している通り、大陸での入母屋の興隆は6C以降、半島では全く不明です。もちろん中国南部や東南アジアではそれ以前から入母屋があったと考えられていますが。氏が指摘している通り、6Cあたりに大陸から半島へ入母屋瓦屋根葺が伝来し、半島で最新の様式として重用された可能性は充分あろうと思います。
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