後から、若干、内容を追加しました。
以下、参考の投稿。
タイムトラベル旅行Expo ‘85/Dragon Ballのテーマ他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3741212?&sfl=membername&stx=nnemon2
タイムトラベル旅行Expo ‘70/マッハGoGoGoのテーマ他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3741216?&sfl=membername&stx=nnemon2
4月の前半に、私の、長野(nagano)県にある、別荘で、過ごした際、別荘から足を延ばし、戸倉上山田(togurakamiyamada)温泉に宿泊した後、東京の我が家に帰って来たのですが、その帰り道に、富岡(tomioka。群馬(gunma)県(下の補足説明参照)の南西部にある小都市)に寄って、日本の代表的な近代化産業遺産の一つ、旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したりした時の物です。旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したのは、この時が、初めてでした(富岡(tomioka)を散歩したのも、この時が、初めてでした)。
群馬(gunma)県:東京area(東京圏)の北西端に位置する県。南は、埼玉(saitama)県、西は、長野(nagano)県、東は、栃木(tochigi)県、北は、新潟(niigata)県と(少しではあるが)福島(fukushima)県と接する。
日本では、多くの伝統的な文化財が保存されていますが、それと共に、(伝統的な文化財には、遥かに及ばないものの)、多くの近代化産業遺産が、保存されています。その様な近代化産業遺産(日本に保存されている近代化産業遺産)の中で、群馬(gunma)県の南西部にある小都市、富岡(tomioka)にある、旧富岡(tomioka)製糸工場(旧富岡(tomioka)製糸場)は、代表的な物の一つとなっています。
以下、「」内は、興味の有る方だけ、ご覧下さい。
「日本は、19世紀後半から、西洋の技術及び一部の文化を取り入れ、近代化を図る様になりました。日本は、それ以来、着実に近代化・工業化を進め、日清戦争(1894年から1895年の間に行われた、日本と中国(清)の間の戦争。兵力的には、圧倒的に優位であった中国(清)に対し、日本は、近代化された軍隊により勝利した)、日露戦争(1904年から1905年の間に行われた、日本とロシア(Russia)の間の戦争。日本の実質的な勝利に終る)等を経て、第一次世界大戦(1914年から1918年。下の補足説明参照)が終る頃には、日本は、名実共に、工業国且つ世界の大国(列強)の一つとなりました。
第一次世界大戦:1914年から1918年。日本は、第一次世界大戦においては、連合国側で、戦勝国であった。日本は、主戦場であったヨーロッパ(Europe)から離れていたので、損害が少なく(国土は、戦火に見舞われなかった)、むしろ、連合国側の他の参戦国からの軍需品の注文を受け、好景気に湧き、高度経済成長を果たした(wikiを参考にしました)。戦後は、日本は、戦勝国且つ資本主義工業国且つ大国として、イギリス、フランス、イタリアと共に、国際連盟(League
of nations)(下の補足説明参照)の発足時の常任理事国となりました。
国際連盟(League of
nations):1919年から1946年。国際連合(United
Nations)の前身。発足時の常任理事国は、イギリス、フランス、日本、イタリア。発足時の加盟国は、42ヶ国。加盟国は、最高で60ヶ国近くに達した(1930年代半ば)。1946年に解散して国際連合(United
Nations)に移項(wikiより)。
とは言え、日本と、(日本よりも遥かに前から、強力に工業化やインフラ(infrastructure)整備を推し進めていた)イギリス、ドイツ(下の補足参照)、アメリカ等との差は、ずっと大きく、また、日本は、途中、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被った事等もあって、(日本は)、1960年代初め頃まで(特に1950年代頃まで)は、南欧諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル(Portugal)、ギリシア(Greece))等と共に、資本主義工業国(若しくは、資本主義的な工業国。第二次世界大戦後は、西側先進工業国)の中では、農業を中心とした第一次産業の比率が比較的高い農業国的な国であり、最も貧しく後進的なグループ(group)に属していました。
ドイツ:ドイツも、日本同様、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被りましたが、元々、第二次世界大戦以前から世界最高水準の科学技術力、(高速道路(Autobahnen)や世界最高水準の緻密さを誇る鉄道網等の)世界最高水準のインフラ(infrastructure)を有していた等の蓄積があった上に、第二次世界大戦後、特に西ドイツは、日本と同様、奇跡と言われる高度経済成長を果たし、見事に復活を遂げました(ちなみに、戦後、東ドイツも、着実な経済成長を遂げました)。西ドイツも、日本と同様、1970年代初め頃は、経済の発達にのみ集中する時代から抜け出しつつあると言われていた様です。
日本は、1950年代から1960年代にかけて、奇跡と言われる高度経済成長を果たし、1975年に発足した、サミット(summit)(下の補足説明参考照)には、日本は、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリアと共に、G6として、発足当初のメンバー(member)として参加しましたが、先に進む、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ等に追いつこうと、ひたすら経済成長のみを追い求めた結果、1950年代から1960年代にかけて、水俣(minamata)病等の深刻な公害病、大気汚染等の深刻な環境問題が発生しました(日本が成熟した先進工業国としての道を歩き始めた、1970年代においては、それまでの、経済発展最重視の政策から、公害や環境に対する取り組みが本格的に行われるようになり、1970年代を通じて、日本の環境は、ずいぶん改善されました)。
サミット(summit):(主要)先進国首脳会議。1990年代後半にロシア(Russia)が参加してからは、主要国首脳会議。1975年発足。発足当初のメンバー(member)は、アメリカ、西ドイツ、フランス、イギリス、日本、イタリア。イタリアも、日本と同様、第二次世界大戦後、奇跡の経済成長を遂げました。西ドイツ、日本、イタリアの、第二次世界大戦後の奇跡の高度経済成長は、もちろん、それぞれの国の、それまでの蓄積と国民の努力も有りましたが、戦後、西側先進国の一員となった、かつての枢軸国(敗戦国)且つ工業大国(西ドイツ、日本、イタリア)を、ソビエト(Soviet)連邦を中心とした東側諸国に対する、対抗勢力として育成しようとしたアメリカの、寛大な政策の、おかげも、かなりあると思います。ちなみに、フランスも、第二次世界後、著しい経済成長を遂げましたが、イギリスは、長期に渡って経済が停滞傾向にありました(イギリス病(The
British disease)と呼ばれたりもした)。
国民一人当りのGNPにおいて、日本がアメリカを追い抜かした1980年代から、まだバブル景気(economic
bubble)の余韻が残っていた1990年代半ば頃にかけては、おそらく、歴史上、日本の経済が、最も勢いが有り、且つ、最も世界に影響力が有った時期だと思います。この時期は、日本は、産業技術力・競争力及び、経済力で、アメリカに脅威を与える程で有り、このまま行けば、(日本は、アメリカよりも、人口が、ずっと少ないのにもかかわらず)、日本経済規模がアメリカを上回り、世界一になるのではないかと、少なからぬアメリカの知識人達が日本に対して脅威を感じていました(日本の国民一人当りのGDPが、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス等の2倍程に達し(確か)、ルクセンブルク(Luxembourg)、スイスと並んで、世界最高水準だった時期もあります。これは、人口5,000万人以上の先進工業大国としては、異例の事です。第二次世界大戦後においては、他は、全盛期のアメリカ位かな。。。)。もっとも、この頃の日本については、個人的に、大分、背伸びをしていたと言うか、過大評価されていた様に思います。
インターネット(Internet)が、先進国及び新興工業国の家庭に、広く普及し始めた、1990年代後期以降(所謂、ITの時代?)、アメリカは、総合的な、産業技術力・競争力及び、経済成長で、日本を巻き返し、日本は、逆に、長期に渡る、停滞期に入りました(それは、現在まで続いています)。また、一方において、日本は、従来の得意分野(の一部)である、自動車産業、電子産業、造船産業、製鉄(鉄鋼産業)で、これ等の分野で成長著しい韓国に、激しい追い上げを受ける事になりました。
日本は、現在、丁度イギリス病(The
British
disease)の頃のイギリスの様に、経済が停滞中です。日本は、果たして、国際的な産業競争に乗り遅れたり、適切な産業転換を図れなかったりして、このまま、過去に蓄積した技術や富を食いつぶしながら、徐々に衰退して行くのでしょうか。。それとも、イギリスの様に復活を遂げるのか。。。」
話が、大分、脱線しましたが、写真以下68枚。旧富岡(tomioka)製糸工場(旧富岡(tomioka)製糸場)。旧富岡(tomioka)製糸工場は、日本における産業革命を象徴する史跡であると共に、日本の代表的な近代化産業遺産の一つです。富岡(tomioka)製糸工場(富岡(tomioka)製糸場)は、1872年に操業が開始された、官営(国営)(後に民営化された)の製糸工場で、日本初の器械化された製糸工場です。富岡(tomioka)製糸工場は、1987年まで、約115年間操業を続けましたが、現在は、富岡(tomioka)市の所有・管理の下、日本の近代化産業遺産として保存され、史跡として一般に公開されています。現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物です。
富岡(tomioka)製糸工場は、日本の製糸工場の模範となるべき工場として、国が、フランスから技師を招き、フランスから、最新式の器械を導入して(当時、フランスとイタリアが、世界の製糸業の先端を行っていた)、19世紀後半に建てた製糸工場(1872年に操業開始)で、当時としては、最新式の設備を持つ、世界最大級の規模を持つ製糸工場でした。
写真以下2枚。古い絵に描かれた、富岡(tomioka)製糸工場。


富岡(tomioka)製糸工場の古い写真。

写真以下4枚。(旧)富岡(tomioka)製糸工場の門(入り口)等。(旧)富岡(tomioka)製糸工場は、群馬(gunma)県(東京area(東京圏)の北西端に位置する県)の南西部にある小都市、富岡(tomioka)の市街地にあります。富岡(tomioka)製糸工場は、創業時には、世界最大級の製糸工場でした。現在は、史跡として一般に公開されています。現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物です。





操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場では、ポール・ブリューナ(Paul
Brunat)(富岡(tomioka)製糸工場設立の総指揮者・操業開始当初における、指導責任者・工場管理者)、男性技師、工女(女性工場労働者)からなる、日本政府に雇われた、10人程のフランス人が、指導的な立場で、働いていました。写真一番左側に写っている男性は、日本人通訳かと思われます。フランス人生糸技術者、ポール・ブリューナ(Paul
Brunat)は、東京圏及び、その周辺地域を調査し、富岡(tomioka)付近は、製糸に必要な繭を確保出来る事、町の中心部に、工場建設に必要な広い土地を確保出来、また町民の同意があった事、(製糸に必要な)水が豊富である事、燃料の石炭が、近くの、高崎(takasaki)、吉井(yoshii)で採れる事等の理由で、富岡(tomioka)に、日本の工業化の模範となるべき、製糸工場を建設しました。尚、フランス人工女(女性工場労働者)達は、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、日本人工女(女性工場労働者)達に対し、工場における、器械化された製糸作業の指導を行いました。


写真以下4枚。操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人男性技師達の寮として使われていた建物です。フランス人男性技師達が役目を終えて去った後は、改装されて、事務所及び、(工場を視察しに来る政府関係者等を接待する)貴賓室の建物として使われる様になりました。




写真以下3枚。操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人工女(女性工場労働者)達の寮として使われていた建物です。後に改装され、1階は、食堂、2階は、休憩室・会議室等として使われていました。


写真左側は、上で紹介した、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人男性技師達の寮として使われていた建物。

写真以下3枚。東繭倉庫。規模の大きな建物です。




写真左、東繭倉庫。写真右、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人男性技師達の寮として使われていた建物。

写真右、東繭倉庫。写真左、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人工女(女性工場労働者)達の寮として使われていた建物。

写真以下。ブリューナ(Brunat)館。操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、富岡(tomioka)製糸工場設立の総指揮者及び(富岡(tomioka)製糸工場の操業開始当初における)指導責任者・工場管理者であった、フランス人技術者、ポール・ブリューナ(Paul Brunat)が、家族と共に暮らしていた、工場内に有る邸宅です。中々立派な邸宅です。富岡(tomioka)製糸工場は、日本の工業化の基礎となるべき重要な施設の一つとして建てられた物なので(その後に、日本各地に、たくさん建てられた製糸工場の模範となるべき工場として建てられた)、その設立の総指揮者及び操業開始当初における指導責任者で有った、ポール・ブリューナ(Paul Brunat)には、(富岡(tomioka)製糸工場に関連して雇われたフランス人の中でも)、給料面も含めて、破格の(特別な)待遇が与えられました。ブリューナ(Brunat)館には、ワイン(wine)等の食料品を貯蔵していたと言われる、レンガ(煉瓦)造りの地下室が三室有ります。当初、富岡(tomioka)製糸工場は、たびたび工女(女性工場労働者)募集の通達を出しても、予定通りの人数が集まりませんでした。富岡(tomioka)製糸工場へ入場すると「外国人に生き血をとられる」と言う噂が、流れていたからです。フランス人技師達が、好んで飲むワイン(wine)を、生き血と思いこんだ所から、この様な噂が生じた様です(旧富岡(tomioka)製糸工場のパンフレット(leaflet)より)。当時の日本人は、基本的に、上流階級の人々、若しくは、西洋人(西洋文化)に、頻繁に接する職業に就いている者を除いて、ワイン(wine)など見た事も無かった事でしょう。。。尚、ブリューナ(Brunat)館は、ポール・ブリューナ(Paul Brunat)が、その役目を終えて、家族と共に、富岡(tomioka)を去った後は、改装されて、(工場の福利厚生(福祉)の一環としての)工女(女性工場労働者)の習い事(文化教室)の教室、工女(女性工場労働者)の為の余暇施設等として使われました(確か。。。ちょっとガイド(guide)さんに受けた説明の記憶が曖昧。。。)。










富岡(tomioka)製糸工場後編(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
富岡(tomioka)製糸工場後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3629118?&sfl=membername&stx=nnemon2