
写真は、借り物(写真の作者:Riiiisa22)。かつての、李垠(Yi Un)の東京の邸宅の建物(東京都心部でも中心的な地域の西部に位置する)。1930年に建てられました。第二次世界大戦後は、日本の国会(日本の国会は、衆議院(syugiin)と参議院(sangiin)の2つに分かれている)の参議院(sangiin)の議長の公邸等として使用された後、1952年に、princeホテル(日本最大の、高級classホテル・準高級classホテルのチェーン(chain))に買収され、1955年に、客室数、35室の、高級classホテル、赤坂(akasaka)princeホテルとして開業しました。赤坂(akasaka)princeホテルの、新しい建物が建てられてからは、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場等として使用されました。
以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。
ちなみに、英親王李垠伝によれば、(後述する)李垠(Yi
Un)は、お手伝いさん(maid)が、李垠(Yi Un)が自身(自分)の東京の邸宅(前述の通り、現在は、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物は、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場となっている)で飼っていた小鳥を逃がしてしまった際に、お手伝いさん(maid)を叱る事なく、「あの鳥は渡り鳥だから、きっと秘苑(ソウル(Seoul)の昌徳宮(Changdeokgung)の庭園)に帰っていくだろうね」と話したようです。
以下、李垠(Yi Un)に関する文は、wikiを参考にしました。
李垠(Yi
Un):1897年生まれ。1970年に亡くなる。1907年に留学の名目で、日本に渡る。1908年、学習院(gakushuin)に入学。1911年に、日本陸軍中央幼年学校に編入する。小柄な体型のため器械体操を苦手としたが、音楽や武道を得意とし、同期生から敬愛を集めた。日本の陸軍士官学校で教育を受けた。この際には、品行で20点満点中19.7点の評価を受けるほど、模範的な学生だった。
日本の陸軍士官学校卒業後は、日本の陸軍に入隊し、日本の陸軍の将校となる。1920年に、日本の、宮家(miyake)(皇族(天皇の一族(親族))の内、天皇家から独立した生計を営み、且つ、天皇から称号(宮号)を賜り、代々、皇族(天皇の一族)の身分の保持を許された家(家族))の女性である、方子(masako)女王と結婚。政略結婚であったが、妃(妻)である方子(masako)女王と、その実家である梨本(nashimotonomiya)家との関係は良好であった。夫妻の間には、結婚の翌年に長男が誕生したが、1922年、夫妻が生後8ヶ月の長男を連れて韓国を訪問した際、長男は、急死する(長男の急死には、当時より陰謀説がある)。1931年に次男(長男が亡くなっている事により、一人息子(一人だけの子供で、男の子供))が誕生した。
第二次世界大戦の日本の敗戦に伴い、王の身分を失うと共に、日本の陸軍の将校であった為、公職追放となった。李垠(Yi
Un)は、家族と共に、韓国への帰国を試みるが、当時、日本と韓国との間には、国交は樹立されておらず、その上、李承晩大統領(Syngman
Rhee)の妨害などもあり、帰国できなかった。
夫婦の間の一人息子(一人だけの子供で、男の子供)は、アメリカに留学し、1957年にマサチューセッツ工科大学( Massachusetts
Institute of
Technology)を卒業した。夫妻が卒業式に出席するためアメリカ訪問を希望した際には、大学の招聘状を根拠に、日本政府が旅行証明書を発行した。家族でアメリカで生活を送るが、1959年、李垠(Yi
Un)が脳血栓に倒れ、日本に戻る。1963年、李垠(Yi
Un)は、妻である、方子(masako)女王と共に、ようやく、韓国に帰国を果たす。夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮内(Changdeokgung)に住居を構える事となった。1970年、夫婦は、結婚生活50周年の金婚式を病院で開くが、李垠(Yi
Un)は、その3日後に病院で、72歳で亡くなった。
韓国人となった(韓国籍を取得した)、方子(masako)女王は、李垠(Yi
Un)の、遺志を引き継ぎ、当時の韓国では、まだ進んでいなかった、障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。方子(masako)女王は、趣味でもあった七宝焼の特技を生かし、ソウル七宝研究所を設立し、自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮王朝の宮中衣装を持って、世界中を飛び回り、王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と、知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。なお、「明暉」は李垠(Yi
Un)の、「慈恵」は方子(masako)女王のそれぞれの雅号である。方子(masako)女王の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。方子(masako)女王は、1989年、87歳で亡くなり、葬儀は、韓国で、旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われた。
以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。
赤坂(akasaka)princeホテルは、旧館(kyukan)の建物(前述した、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物で、赤坂(akasaka)princeホテルの原点となった建物)、1960年に建てられた、別館(bekkan)(旧(かつての)新館(shinkan))の建物、1982年に建てられた、新館(shinkan)の建物、1997年に建てられた、コンベンションセンター(convention
center)の建物等から成る、規模の大きな、高級classホテルでした。

写真は、借り物(写真の作者:Wiiii)。1982年に建てられた、赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物。1980年代において、隣接する、規模の大きな高級ホテルである、ホテルnew otani(1964年に開業)の、ホテルnew otani garden tower(1974年完成)と共に、地域を象徴する建物でした。
ホテルnew otani、及び、ホテルnew otani garden towerに関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
Hotel New Otani→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3871575/page/9?&sfl=membername&stx=nnemon2
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物の設計は、丹下 健三(tange kenzo)(下の補足説明を参照)が行いました。
丹下
健三(tange
kenzo):1913年生れ、2005年に、亡くなる。日本の世界最高水準の建築家の一人。1950年代から、亡くなる近くまで活躍。日本人建築家の中で、初めて世界に名が知られた建築家であると共に、1960年代に、日本を、現代建築設計の分野において、世界最高水準の国の一つに、引き上げた人物として知られています。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、丹下 健三(tange kenzo)に関する参考の投稿。
なまこ壁・1937年パリ万博日本館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3905596/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
赤坂(akasaka)princeホテルは、再開発の為、2011年3月31日を以って閉業しました。
princeホテルは、赤坂(akasaka)princeホテルの跡地に、再開発によって完成した、新しい超高層ビル(2016年に完成)に、2016年に、新しい、高級ホテル、ザ・プリンスギャラリー
東京紀尾井町(The Prince Gallery Tokyo Kioicho)を開業しました。
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物(1982年に完成)は、おそらく、東京の超高層ビルで、ソフィテル(Sofitel)東京の建物に次いで、2番目に、完成してから短い期間で、解体された建物であると同時に、2番目に解体された建物です。
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物は、大成(taisei)建設(日本の大規模建設会社の一つで、日本の、5大建設会社の一つ)が開発した、粉塵や部材の飛散、騒音や振動を最小限に抑える、新しい工法の、「テコレップシステム(Taisei
Ecological Reproduction System)」により、解体されました。
https://youtu.be/KPTTUGxOHDQ?si=x0w1c_dLMc8QZz3n
動画は、借り物。大成(taisei)建設が開発した、最新の(世界最先端の)、大規模建築物の解体の工法により、2012年から2013年にかけて解体された、赤坂princeホテルの新館(shinkan)の建物の、解体の過程(定点撮影)。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、大成(taisei)建設に関する参考の投稿。
菊池美術館・50年代陶芸展他後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3836518/page/24?&sfl=membername&stx=nnemon2
ソフィテル(Sofitel)東京の建物に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
ソフィテル(Sofitel)東京→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3934859?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真以下5枚(写真は、借り物)。1930年に建てられた、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物。再開発により、曳家(hikiya)(建物を、そのまま移動して、移築する、移築方法)により、元々あった場所より少し(44m程)移動し、2016年に、再び、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場として、営業を再会しました。ちなみに、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の、敷地面積は、10,700坪(約35,370平方m)程あった様です。近代日本(19世紀末から第二次世界大戦時まで)において、日本の富裕層の住宅は、邸宅の敷地内に、日本伝統式の建物と西洋式の建物がある場合も多く、特に、上流階級の邸宅は、その様な邸宅が非常に多かったですが(邸宅のメイン(main)の建物が、日本伝統式の建物と西洋式の建物によって構成されている場合も、多かった)、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅のメイン(main)の建物は、この西洋式の邸宅の建物のみであった様です。
以下、参考の投稿。
旧朝香宮(asakanomiya)邸(東京都庭園美術館)前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3735149/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
旧朝香宮(asakanomiya)邸(東京都庭園美術館)後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3735148/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真以下5枚(写真の作者:Riiiisa22)。





1930年に建てられた、かつての、李垠(Yi Un)の東京の邸宅の建物(現在は、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場となっている)に関しては、以下のsiteも参照して下さい。
https://www.edo-chiyoda.jp/bunkazaihogonotorikumi/bunkazaihogochosain/hogocho2019/1/372.html
https://www.tgt-kioicho.jp/facilities/akasakaprince.html
https://akasakaprince.com/