李氏朝鮮の人口は17世紀で500万と言われている。
高麗の建国当初(918年)の人口が210万と言われているから、応永の外冦(1419年)の頃だと300-400万ぐらいか。
対馬からの撤収が始まった7月3日、4日には朝鮮各地を倭寇が荒らしまわっている。軍船227隻、動員17,285名は李氏朝鮮が国防を含めた全てを集中させて集めた数と見ていいだろう。
応永の外寇は、朝鮮の対馬の在鮮商人の抑留、対馬指導者層の明渡航と満を期した大義名分は勝ってから考える勢力拡大のための単なる侵略戦争(世界的に侵略戦争が盛んだった時代なので、朝鮮の不義を責める気は無い。朝鮮の役も時代的に自力で国を守れず明に縋るしかなかった阿呆の李氏朝鮮としか言えないか)。
朝鮮の戦略は
1.圧倒的戦力で対馬を短期間で侵略、支配
2.制圧が済み次第、速やかに朝鮮に引き返し防衛に当たる
だろう。6月26日に仁位郡(『実録』では尼老郡)で対馬に大敗し、尾崎浦まで退却している。この戦いで朝鮮軍は死傷者が2500名以上(内戦死者180名以上)の多大な被害を受けた。侵略を受けてから対馬勢が動員できる兵力を考えると、180名の戦死者は妥当な所(死傷者の大半は奇襲を受けて壊走した際の混乱で出た物じゃないのか?)。この大敗から戦争は長期化の様相を見せ、後の無い朝鮮軍は受け入れられる見込みの無い降伏勧告を出したり戦争の早期収拾に努めている。
短期での勝利以外は全て敗北の李氏朝鮮の対馬侵略は始めから勝機が小さかったと言うしかない。