私が、2014年に、kjで行った、沖縄(okinawa)県(日本の、最南端に位置する県)を紹介する投稿に、加筆・修正を行った物です。投稿文は、基本的に、2014年に行った投稿、そのままとなっています。最新の情報と異なっている部分があったら、申し訳ありません。
沖縄(okinawa)県は、日本の47の都道府県(prefecture)の内の一つで、日本の都道府県(prefecture)の中で、最南端に位置する県です(沖縄(okinawa)県の気候は、熱帯性から亜熱帯性となっています。ちなみに、日本は、南北に約2,800kmあり、北海道(hokkaido)(日本の最北端に位置する県)の気候は、亜寒帯気候となっています)。沖縄(okinawa)県は、1879年まで、琉球(ryukyu)王国と言う独立国だった為、日本の中で、かなり個性的な文化を有する地域となっています(沖縄(okinawa)県の伝統文化は、地理的条件及び、中継貿易国として栄えた歴史から、とても大雑把言えば、日本・中国・東南アジア・オセアニア(Oceania)の要素が入り混じった文化と言う感じかな。。。)。
沖縄(okinawa)県は、非常に多くの熱帯的で美しいビーチ(beach)と魅力的な文化を有する事から、日本の他地域から、非常に多くの観光客・保養客が訪れます。私は、スキューバダイビング(scuba diving)はしませんが(一応、大昔に、PADI(アメリカに本部を置く、世界最大のスキューバダイビング(scuba diving)団体。アメリカ(PADIアメリカ)、カナダ(PADIカナダ)、日本(PADI日本)、オーストラリア(PADI Asia Pacific)、イギリス(PADI international)、スイス(PADIヨーロッパ)等に地域事務所を置く)の、Open Water Diverのlicenseを取ったが、完全なペーパーダイバー(licenseは、持っているが、ほとんど、スキューバダイビング(scuba diving)をしていない人)ですw)、沖縄(okinawa)県は、もちろん、日本における、スキューバダイビング(scuba diving)のメッカ(ある物事の中心地として、それに関係する多くの人が集まったり、あこがれたりする場所)である事は、言うまでもありません(ちなみに、沖縄(okinawa)県の海の、珊瑚(coral)の種類の数は、オーストラリアの、グレートバリアーリーフ(Great Barrier Reef)の、珊瑚(coral)の種類の数を、上回っています)。
沖縄(okinawa)県は、沖縄(okinawa)本島(hontou)(沖縄(okinawa)県の中心となっている、沖縄(okinawa)県で最大の島であると共に、最大の人口を有する島)及び、その周辺の島々から成ります。沖縄(okinawa)県は、東西約1,000km、南北約400kmの海域に広がる、約160の島々により構成されています。沖縄(okinawa)本島(hontou)(沖縄(okinawa)県の中心となっている、沖縄(okinawa)県で最大の島)から、波照間(hateruma)島(沖縄(okinawa)県最南端の有人島であると共に、日本最南端の有人島)までは、南西に400km以上、沖縄(okinawa)本島(hontou)から、与那国(yonaguni)島(沖縄(okinawa)県最西端の島であると共に、日本最西端の島。有人島)までは、南西に、約500kmあります。沖縄(okinawa)県は、前述の通り、約160の島々により構成されていますが、沖縄(okinawa)県の島々の、ほとんどが、熱帯的な、とても美しい海に囲まれています。沖縄(okinawa)県の、約160の島々の内、有人島(人が居住している島)は、46から49くらい(資料によって異なる)、また、有人島の内、美しいビーチ(beach)があると言う事(まあ、前述の通り、沖縄(okinawa)県の島々の、ほとんどが、熱帯的な、とても美しい海に囲まれているのですが。。。)と、宿泊施設が整っていると言う事の、二つの条件を満たす島は、沖縄(okinawa)本島(hontou)(沖縄(okinawa)県の中心となっている、沖縄(okinawa)県で最大の島)を含み、30くらいだと思います。ちなみに、沖縄(okinawa)県では、有人島から、美しいビーチ(beach)を有する無人島への、海水浴ツアー(tour)も、盛んに行われています。沖縄(okinawa)本島(hontou)のビーチ(beach)の海も十分美しいですが、一般的に、沖縄(okinawa)県の、沖縄(okinawa)本島(hontou)以外の島々のビーチ(beach)の海は、より美しいと思います(まあ、沖縄(okinawa)本島(hontou)は、多くの人々が暮らし、多くの観光客・保養客が訪れるので、仕方がないと思います。沖縄(okinawa)本島(hontou)のビーチ(beach)の海も、東京に住んでいる、私からすれば、十分過ぎる程、美しいですが。。。)。
以下、この投稿の写真は、全て、前に、kjにアップ(upload)した写真の、再利用で、沖縄(okinawa)本島(hontou)に関する写真です。
沖縄(okinawa)本島(hontou)は、沖縄(okinawa)県の中心となっている、沖縄(okinawa)県で最大の島であると共に、最大の人口を有する島です。沖縄(okinawa)本島(hontou)は、沖縄(okinawa)県で、最大の島だけあって、非常に多くの(40ヶ所以上の)、熱帯的な、美しいビーチ(beach)を有しています。
沖縄(okinawa)本島(hontou)の、南部に位置する中都市、那覇(naha)は、沖縄(okinawa)県で、最大の人口を有する都市であると共に、沖縄(okinawa)県の中心都市となっています。
写真以下30枚。那覇(naha)の、首里(shuri)areaにある、首里(shuri)城(castle)(首里(shuri)城(castle)跡)。首里(shuri)城(castle)(首里(shuri)城(castle)跡)のある首里(shuri)は、琉球(ryukyu)王国の首都(政治の中心地)として栄えた、小都市です。首里(shuri)(首里(shuri)市)は、1954年に、首里(shuri)の貿易港都市・商業都市として発展して来た那覇(naha)市に編入され、那覇(naha)市の一部(現在の那覇(naha)市の北東部(内陸部の北部)area)となりました。
写真以下30枚。那覇(naha)の、首里(shuri)areaにある、首里(shuri)城(castle)(首里(shuri)城(castle)跡)。写真は、2012年に撮影した物。
首里(shuri)城(castle)は、琉球(ryukyu)王国の国王が、居住し、琉球(ryukyu)王国の政府(王府)の拠点となっていた城(castle)です。首里(shuri)城(castle)の創建年代は、明らかではありませんが、13世紀末から14世紀頃と推定されています。14世紀初めから15世紀初めまでは、中山(chuzan)王国(現在の那覇(naha)市を中心に存在していた王国)の城(castle)として使われていました。1429年に、第一尚(第一sho)家が、琉球(ryukyu)を統一し、(統一)琉球(ryukyu)王国の、国王家となると、首里(shuri)城(castle)は、第一尚(第一sho)家の居城として、琉球(ryukyu)王国の政府(王府)の拠点となりました(これにより、首里(shuri)城(castle)は、1430年代に、琉球(ryukyu)王国の王家の城(castle)として、ふさわしい様に、拡張・整備されました)。同時に、首里(shuri)城(castle)がある首里(shuri)は、琉球(ryukyu)王国の首都(政治の中心地)として栄えました。これは、第二尚(第二sho)家(1469年から1879年まで琉球(ryukyu)王国を統治した王家で、琉球(ryukyu)最後の王家)の、城(castle)(居城)であった時も、変わりませんでした。首里(shuri)城(castle)の建物は、数度にわたり焼失しており、その度に再建されてきました。一度目の焼失は、15世紀半ばの、琉球(ryukyu)王国の王位争いの際で、城(castle)の敷地内の建物は、完全に破壊されました。二度目の建物の焼失は、1660年の事であり、再建に11年の年月を要しました。しかしながら、1709年に、三度目の火災が起きて、主な建物が焼失してしまいました。現在の首里(shuri)城(castle)の建物は、三度目の火災で焼失した建物の再建が完了した1715年の以降の、首里(shuri)城(castle)の姿(おそらく、基本的に、18世紀から19世紀後期までの姿)を基に復元(再建)されています(これから復元(再建)予定の建物も、そうだと思います)。
琉球(ryukyu)王国は、1609年に、島津(shimazu)家(下の補足説明参照)の軍に侵攻され、それ以降、琉球(ryukyu)王国は、形式的には、独立国としての地位を維持したものの、島津(shimazu)家の実質的な支配下に入りました。
島津(shimazu)家:封建制時代(19世紀半ば以前)に、現在の、鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)地方(日本の南部)の南部に位置する県。沖縄(okinawa)県を除けば、九州(kyusyu)最南端に位置する県)に当る地域を統治していた、地方領主の家。日本有数の、富と力を有する、地方領主の家であった。近代以降は、貴族階級に組み入れられ、公爵家(貴族階級の中で、最高の階級に属する家)となり、日本の上流階級としての、地位と富を維持した。
19世紀後期、日本政府(中央集権に基づいて、出来るだけ効率良く、迅速に、日本を近代的な国家にする事を目指す新政府)は、中国との冊封関係(tributary relationship)(中国に朝貢する関係)を絶つ事等を琉球(ryukyu)王国に要求しましたが、琉球(ryukyu)王国が、これに従わなかった為、武力的威圧の下で、1879年に、強制的に、沖縄(okinawa)県を設置し、琉球(ryukyu)を正式に、日本に組み入れました(これにより、琉球(ryukyu)王国及び、琉球(ryukyu)王国と中国との冊封関係(tributary relationship)(中国に朝貢する関係)は、消滅し、琉球(ryukyu)は、沖縄(okinawa)県として、実質的にも、形式的にも、日本の一部となりました)。ちなみに、琉球(ryukyu)王国の王家(第二尚(第二sho)家)は、近代日本において、貴族階級に組み入れられ、侯爵家となり、日本の上流階級としての、地位と富は、維持しました。
封建制時代には、日本全国には、たくさんの地方領主の城(castle)が有りました。しかしながら、明治(meiji)時代(1868年から1912年)に入ると、出来るだけ効率良く、迅速に、日本を近代的な国家にする事を目指す、新中央政府にとっては、(無駄に多い、維持費のかかる、前近代的な建物が、広大な敷地内に建っている)封建時代の象徴的な建物で有る、城(castle)は、必要の無い物(無用の長物)となります。これによって、19世紀末に、日本全国の、多くの城(castle)の、ほとんどの建物が取り壊され、かつての地方領主達の城(castle)の敷地は、他の用途の土地に転用されました(もっとも、地方領主としての地位を失うと供に、封建制時代の城(castle)等を失ったものの、多くの地方領主達は、貴族階級に組み入れられ、近代社会(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまで)においても、日本の上流階級としての地位と富は、維持しました。ちなみに、前述の通り、琉球(ryukyu)王国の王家(第二尚(第二sho)家)も、近代日本において、貴族階級に組み入れられ、侯爵家となり、日本の上流階級としての、地位と富は、維持しました。
首里(shuri)城(castle)も例外ではなく、1879年に、琉球(ryukyu)王国が消滅して以降、首里(shuri)城(castle)の敷地は、当初は、日本の陸軍の施設として利用され、その後は、首里(shuri)市に、払い下げられて(売却されて)、学校等として利用されました。城(castle)の建物は、第二次世界大戦前までは、正殿(seiden。首里(shuri)城(castle)で、最も重要であった建物)等が残り、日本の国宝に指定されていましたが(1925年に国宝に指定される)、第二次世界大戦末期の、沖縄(okinawa)地上戦(下の補足説明参照)において、ほとんど、全てが、焼失してしまいました(首里(shuri)城(castle)の地下に、日本陸軍の、沖縄(okinawa)守備隊が、地下壕を堀り、総司令部を置いた事等から、現在の那覇(naha)市に当る地域は、沖縄(okinawa)地上戦の最大の激戦地の一つとなり、壊滅的な被害を受けました。首里(shuri)においては、日本軍とアメリカ軍の激しい戦闘で、首里(shuri)城(castle)や、その城下の町並み、琉球(ryukyu)王国の宝物・文書を含む、多くの文化財が破壊されました。首里(shuri)城(castle)の宝物庫は、奇跡的に、戦災を免れましたが、中の財宝は、全て、アメリカ軍に略奪されました(戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもあります。wikiより。。。))。
沖縄(okinawa)地上戦:1945年の、3月の終わりから、約3ヶ月に渡って、沖縄(okinawa)県(主に、沖縄(okinawa)本島(hontou))で行われた大規模な地上戦。日本軍、アメリカ軍及び、民間人に、非常に多数の犠牲者が出た。非常に多数の民間人を巻き込んだ(非常に多数の、民間人犠牲者を出した)戦いである事等から、(厳密には、異なりますが)、一般的には、第二次世界大戦における(又は、近代・現代の日本において、日本と他国の間で行われた)、日本国内唯一の地上戦、又は、日本の歴史上、日本国内において、日本と他国との間に行われた、唯一の大規模地上戦として知られています。この戦いで、日本の沖縄(okinawa)守備軍が敗戦し、沖縄(okinawa)県が、アメリカ軍の支配下に入った事等から、沖縄(okinawa)県は、第二次世界大戦の日本の敗戦に伴い、1945年から、1972年に日本に返還されるまで、アメリカの統治下に置かれていました。
第二次世界大戦後、1950年に、首里(shuri)城(castle)跡(かつての首里(shuri)城(castle)の敷地)に、琉球(ryukyu)大学が設置されましたが、1950年代後半から、建物等の、首里(shuri)城(castle)の復元(再建)が始められました。1972年に、沖縄(okinawa)県が、日本に返還されると、首里(shuri)城(castle)跡は、国の史跡に指定されました。1979年に、琉球(ryukyu)大学が、首里(shuri)城(castle)跡から移転すると、1980年代に、首里(shuri)城(castle)の本格的な復元計画が策定されました。これにより、1980年代末に、首里(shuri)城(castle)の建物の、本格的な、復元作業が始まり、1992年には、正殿(seiden。首里(shuri)城(castle)で、最も重要であった建物)を中心とする建物群等の、復元が完了しました。それ以降も、徐々に、建物の復元が進められており、現在も、建物の復元作業が行われています。
昔風に描かれた、首里(shuri)城(castle)公園の地図。首里(shuri)城(castle)跡(かつての首里(shuri)城(castle)の敷地)は、現在は、首里(shuri)城(castle)公園として、首里(shuri)城(castle)の復元・整備が進められています。
首里(shuri)城(castle)主要部の復元完成予想図。パンフレット(leaflet)より。。。首里(shuri)城(castle)の完全な復元を目指し、現在も、復元が進められています。なお、首里(shuri)城(castle)の復元は、三度目の火災で焼失した建物の再建が完了した1715年の以降の、首里(shuri)城(castle)の姿(おそらく、基本的に、18世紀から19世紀後期までの姿)を基に行われています。
写真以下28枚。首里(shuri)城(castle)跡。首里(shuri)城(castle)跡は、世界遺産(UNESCO World Heritage Site)に指定されている、琉球(ryukyu)王国の主要な遺産群(全部で9つ)の一つとなっています。首里(shuri)城(castle)跡は、今まで、3回、訪れていますが(一番、最近、訪れたのは、この写真を撮影した時(2012年))、訪れる度に、復元が進んでいて、興味深いです。


写真以下9枚。首里(shuri)城(castle)の正殿(seiden。首里(shuri)城(castle)で、最も重要であった建物で、首里(shuri)城(castle)を象徴する建物)。(たぶん、先代の建物の、1712年頃に再建された当時の姿で)復元(再建)された物(ちなみに、首里(shuri)城(castle)の正殿(seiden)の、先代の建物(1712年頃に再建された物)は、第二次世界大戦により、1945年に焼失するまで、現存し、国宝に指定されていました)。首里(shuri)城(castle)の正殿(seiden)は、琉球(ryukyu)王国の国王が、自ら政治を執り行ったり、琉球(ryukyu)王国の王家が、様々な儀式を執り行っていた建物で、首里(shuri)城(castle)で、最も重要な建物でした(韓国の、景福宮(Gyeongbokgung)で言えば、勤政殿(Geunjeongjeon)の様な建物です)。また、琉球(ryukyu)王国の王家の権威を示す(象徴する)建物、琉球(ryukyu)王国を象徴する建物と言う意味においても、首里(shuri)城(castle)で、最も重要な建物でした。首里(shuri)城(castle)の正殿(seiden)の建物は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本にしながら、琉球(ryukyu)独特の意匠(design・装飾)に纏められています(首里(shuri)城(castle)公園のsiteより。。。)。
写真以下7枚。首里(shuri)城(castle)の正殿(seiden)の内部。
写真以下2枚。パンフレット(leaflet)より。。。
写真以下2枚。王座。王座は、尚 真王(sho shin王)(在位1477年から1526年)の肖像画を基に、復元された物です。
琉球(ryukyu)王国の国王の王冠。
尚(sho)家が、保有していた、琉球(ryukyu)王国の文化財(琉球(ryukyu)王家の服等)の一部。
以下、朝拝儀式及び、朝拝儀式に関連する説明は、パンフレット(leaflet)の説明文を参考にしました。琉球(ryukyu)王国では、様々な祭祀・儀礼等の行事を行う事で、国家の安泰を願っていました。かつて、琉球(ryukyu)王国の政府(王府)が、執り行った儀式は、年間に90回程あり、その中で、最も行事が多い月が、正月でした。正月だけでも、年間の、政府(王府)行事の約三分の一である、30を越す行事がありました。その中で、最大の儀式は、御庭(una)(首里(shuri)城(castle)の正殿前の広場)を中心に、大晦日から1月1日にかけて行われる、朝拝御規式(chohaiokishiki)と呼ばれる朝拝儀式でした。朝拝御規式(chohaiokishiki)は、中国風の規模の大きな儀式でした。
写真以下2枚。首里(shuri)城(castle)で行われていた、琉球(ryukyu)王国の朝拝御規式(chohaiokishiki)の復元模型。
パンフレット(leaflet)より。。。
ちなみに、写真右端の建物は、南殿(nanden)。南殿(nanden)については、後で説明します。
以下、琉球(ryukyu)と中国の関係に関する説明は、パンフレット(leaflet)の説明文を参考にしました。
琉球(ryukyu)は、1372年から、琉球(ryukyu)王国が消滅し、沖縄(okinawa)県が設置された1879年まで、約500年間、中国と冊封関係(tributary relationship)(中国に朝貢する関係)にありました。琉球(ryukyu)で国王が代わる度に、中国の皇帝は、琉球(ryukyu)王国に使者(冊封使)を使わし、首里(shuri)城(castle)で即位式を行わせました。琉球(ryukyu)王国は、中国との冊封関係(tributary relationship)を通じて、中国との結びつきを深め、貿易や文化交流を進める事が出来たのです。
中国からの使者(冊封使)を迎えた、琉球(ryukyu)王国の新国王の即位式を、復元した模型。ちなみに、模型の左端の建物は、首里(shuri)城(castle)の北殿(hokuden)。琉球(ryukyu)王国の大臣等が働いていた建物で、琉球(ryukyu)王国の政府(王府)の政務の中枢となっていた建物です。また、中国からの使者(冊封使)を接待した場所でもありました。第26回G8
Summit(沖縄(okinawa)Summit)(2000年)においては、復元された北殿(hokuden)の建物が、各国首脳を招いた晩餐会(夕食会)に用いられました。
南殿(nanden)の建物。復元(再建)された物。南殿(nanden)は、正殿(seiden)の右側、北殿(hokuden)(正殿(seiden)の左側に位置する)の、向かいに位置する、日本風の建物で、年間を通じて日本風の儀式を行ったり、薩摩(satsuma)藩(下の補足説明参照)の役人の接待を行った場所です。
薩摩(satsuma)藩:島津(shimazu)家が統治していた、概ね、現在の鹿児島(kagoshima)県に当る地域。
南殿(nanden)の裏に位置する、書院(shoin)・鎖之間(sasunoma)の内部の例。復元(再建)された物。書院(shoin)・鎖之間(sasunoma)は、南殿(nanden)と渡り廊下で繋がっている、日本風の建物で、琉球(ryukyu)王国の国王が、日常の執務を行っていた建物です。
写真以下10枚。那覇(naha)市の南東部に位置する、識名園(shikinaen)。識名園(shikinaen)は、琉球(ryukyu)王国の国王家の別荘の一つだった物で、琉球(ryukyu)王国の国王家の、最大の別荘だった物です。識名園(shikinaen)は、琉球(ryukyu)王国の国王家の保養や、外国からの使者の接待に使われました。識名園(shikinaen)は、1799年に完成しましたが、敷地内の建物は、第二次世界大戦末期の、沖縄(okinawa)地上戦において、ほとんどが焼失してしまいました。したがって、現在見られる識名園(shikinaen)の建物は、第二次世界大戦後に、焼失前の姿に、復元された物です。識名園(shikinaen)は、現在は、那覇(naha)市が、所有・管理し、一般に公開しています。識名園(shikinaen)は、世界遺産(UNESCO
World Heritage Site)に指定されている、琉球(ryukyu)王国の主要な遺産群(全部で9つ)の一つとなっています。
国王家や、国王家に接待された外国からの使者達は、ここから船を池に浮かべて、船遊びを楽しみました。
写真以下8枚。玉陵(Tamaudun)。玉陵(Tamaudun)は、琉球(ryukyu)王国の王家(第二尚(第二sho)家(1469年から1879年まで琉球(ryukyu)王国を統治した王家で、琉球(ryukyu)最後の王家))の墓だった物で、尚
真王(sho shin王)(第二尚(第二sho)家からの、第三代国王)(在位1477年から1526年)が、父、尚 円王(sho
en王)(第二尚(第二sho)家からの、初代国王)を葬る為に、1501年に建設した物です。玉陵(Tamaudun)は、世界遺産(UNESCO
World Heritage Site)に指定されている、琉球(ryukyu)王国の主要な遺産群(全部で9つ)の一つとなっています。
玉陵(Tamaudun)の建物の模型。
玉陵(Tamaudun)の建物内部の平面図。
写真以下6枚。玉陵(Tamaudun)の建物。
これは、パンフレット(leaflet)より。。。

写真以下6枚。斎場(sefa)御嶽(utaki)。御嶽(utaki)は、沖縄(okinawa)県固有の、多神教宗教(琉球(ryukyu)王国の、事実上の国教であった)の、神聖な場所です。日本本土の神道で例えるならば、神社(shrine)と言った感じかな。。。神道も、沖縄(okinawa)県固有の多神教宗教も、原始的な自然崇拝から発展して行った宗教である点は、共通していますが、御嶽(utaki)は、神道の神社(shrine)(仏教の寺や、キリスト教の教会に匹敵する)程、洗練されてはおらず、より原始的な雰囲気を残していると言った感じです。斎場(sefa)御嶽(utaki)は、沖縄(okinawa)県に、多く存在する御嶽(utaki)の中でも、最高の聖地とされる御嶽(utaki)であり、世界遺産(UNESCO
World Heritage Site)に指定されている、琉球(ryukyu)王国の主要な遺産群(全部で9つ)の一つとなっています。



写真以下2枚は、東京のサントリー(Suntory)美術館で、2012年の、6月から7月にかけて行われていた、沖縄(okinawa)県の、紅型(bingata)の展覧会(exhibition)のチラシ(leaflet)(この展覧会(exhibition)は、行きませんでしたが。。。)。紅型(bingata)は、沖縄(okinawa)県の伝統的な染色技法で、その起源は、13世紀頃と推定されています。紅型(bingata)は、琉球(ryukyu)王国時代に、王族や士族(日本本土で言う、侍(samurai)階級と言った感じかな。。。)等の、上流層・富裕層の衣装に用いられました。


写真以下4枚。那覇(naha)市の首里(shuri)areaの、古い雰囲気を残すarea。
写真以下22枚。沖縄(okinawa)の、伝統住宅の例。写真は、全て、同じ住宅で、那覇(naha)・沖縄(okinawa)広域都市圏(沖縄(okinawa)本島(hontou)の、南部から中部にかけての、沖縄(okinawa)県の人口が集中する、都市的な地域)の、地元の、比較的、収入に、ゆとりがある人々が暮らす様な、静かで、落ち着いた住宅地にある、18世紀半ば頃、琉球(ryukyu)王国時代に建てられた、裕福な農民の家です。現在は、人は、住んでおらず、文化財として、一般に公開されています。この住宅は、古い、沖縄(okinawa)の、富裕層の、農家(農民の家)の住宅の姿と雰囲気を、よく残し、現在に伝えています。
この住宅の建物の、平面図。



写真以下10枚。沖縄(okinawa)の市場に並ぶ、色鮮やかな魚。沖縄(okinawa)は、古くから、海産物(seafood)が、豊富な場所と言うイメージがあります。

写真以下3枚。沖縄(okinawa)を代表する大衆食の一つである、沖縄(okinawa)蕎麦。沖縄(okinawa)蕎麦は、沖縄(okinawa)料理の一つで、沖縄(okinawa)県で、非常に、よく食べられている軽食です(沖縄(okinawa)県の人々にとっての、沖縄(okinawa)蕎麦の存在は、アメリカ人にとっての、ハンバーガー(hamburger)の存在と同じと言った感じかな。。。)。基本的な(標準的な)、沖縄(okinawa)蕎麦は、主な具として、豚肉の三枚肉の煮物と蒲鉾(kamaboko。魚の練り物)が載っています(私が知る限り。。。)。
豚肉の三枚肉を具の中心とした、沖縄(okinawa)蕎麦。
ソーキ(soki)蕎麦(豚の、あばら肉(pork spare
ribs)が載った、沖縄(okinawa)蕎麦)。沖縄(okinawa)では、豚の、あばら肉(pork spare
ribs)の事を、ソーキ(soki)と呼びます。白い物は、蒲鉾(kamaboko。魚の練り物)です。ソーキ(soki)は、沖縄(okinawa)蕎麦の具として、よく使われます。ソーキ(soki)を、主な具とした、沖縄(okinawa)蕎麦は、ソーキ(soki)蕎麦と呼ばれます。
テビチ(tebichi)蕎麦(豚足が載った、沖縄(okinawa)蕎麦)。沖縄(okinawa)では、豚足の事を、テビチ(tebichi)と呼びます。