後述する、弥生(yayoi)美術館に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
近代着物展他(内容追加版)前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3783125/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
近代着物展他(内容追加版)後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3783124/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、基本的に(若干、内容を追加したり、参考の投稿を入れ替える等しています)、2020年の4月の後半に行った投稿から抜粋して来た物です。
以下、「」内。私の前の投稿文より。。。ちなみに、我が家(東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地に位置します)の近所の私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で、母方の祖父母共、既に亡くなり、現在は両親が引き継いで暮らしています(ちなみに、私の母は、一人っ子です)。
「亡くなった、私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)や中原
淳一(nakahara jyunichi)も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya
koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、晩年になっても、蕗谷
虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。」
蕗谷 虹児(fukiya koji)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3634899/page/18?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、蕗谷 虹児(fukiya koji)及び、その作品に関する、詳しい投稿。
蕗谷虹児(fukiyakoji)1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3646085/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3646084/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3646082/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)4→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3646081/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)5→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3646080/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
竹久 夢二(takehisa yumeji)に関しては以下の投稿を、参照して下さい。
竹久 夢二(takehisa yumeji)等→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3738731/page/10?&sfl=membername&stx=nnemon2
亡くなった、私の母方の祖母に関しては、以下の投稿を参照して下さい。ちなみに、私は、大の、おばあちゃん(母方の祖母)子でした。
母方の祖母の話 →
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658687/page/34?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。

写真は、借り物。中原
淳一(nakahara jyunichi)。中原 淳一(nakahara
jyunichi)(1913年生まれ、1983年に亡くなる)は、1930年代から1970年代にかけて活躍した、日本の、イラストレーター(illustrator)、人形作家です。中原
淳一(nakahara jyunichi)は、竹久 夢二(takehisa
yumeji)や、それに続いた、日本の画家・挿絵画家・グラフィックデザイナー(graphic
designer)に続いて、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家です。中原 淳一(nakahara
jyunichi)は、1939年には、自身の(自分の)デザイン(design)した商品等を置く、雑貨店、中原 淳一(nakahara
jyunichi)shop、「ヒマワリ(向日葵)」を東京の都心部の麹町(koujimachi)に開店し、この店は、学生等、当時の、日本の、若い女性達に大変な人気を博しました。ちなみに、個人的な話ですが、亡くなった、私の母方の祖母は、竹久
夢二(takehisa yumeji)や中原 淳一(nakahara jyunichi)も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya
koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、晩年になっても、蕗谷
虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

2011年の7月から9月にかけて、弥生(yayoi)美術館で行われていた、展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。この展覧会(exhibition)は、中原
淳一(nakahara
jyunichi)の少女雑誌(少女向けの雑誌)、「ひまわり(向日葵)」の展覧会(exhibition)で、「焼け跡に咲いた復興の花」と言う、副題が付けられています。以下、この展覧会(exhibition)についての文は、パンフレット(leaflet)の文を、ほぼ、抜粋。1947年、まだ敗戦の爪痕の残る日本に、一冊の少女雑誌が誕生しました。その名は、「ひまわり(向日葵)」。「よき(良い)女性の人生は、よき(良い)少女時代を送った人に与えられる」との信念から、画家、中原
淳一(nakahara
jyunichi)が、自ら、刊行した雑誌です。物資が乏しい時代、それは粗雑な紙の刷られた、薄い冊子でしたが、内容は、文学・音楽・美術・身だしなみ・マナー(manners)等、多岐に渡り、読者たちの、心の糧となりました。どんな状況の下でも、少しの工夫と心掛けで、心が豊かに、美しく生きられる。中原
淳一(nakahara jyunichi)のメッセージに励まされ、少女達は、新たな一歩を踏み出したのです。
写真以下6枚。中原 淳一(nakahara jyunichi)の作品例(絵葉書より。。。)。
「娘十二ヶ月 一月・鹿子帯」。1940年。
「娘十二ヵ月 二月・如月の雪」。1940年。

「娘十二ヵ月 六月・蛍」。1940年。
「娘十二ヵ月 十二月・雪」。1940年。
「きものノ絵本 裏表紙」。1940年。
「ジュニアそれいゆ 表紙」。1958年。
以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。
写真は、借り物。高畠
華宵(takabatake kasyo)。高畠 華宵(takabatake
kasyo)(1888年生まれ、1966年に亡くなる)は、主として、1910年代から1930年代に活躍した、日本の、画家(挿絵画家、グラフィックデザイナー(graphic
designer))です。高畠 華宵(takabatake
kasyo)(生涯独身であった)は、同性愛者(gay)であったのではないかとも言われていますが、あくまでも、噂に過ぎなく、確定的な情報ではない様です。
2011年の7月から9月にかけて、弥生(yayoi)美術館(東京都心部)で行われていた、高畠 華宵(takabatake kasyo)の展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。
写真以下9枚。絵葉書の写真で済みませんが、高畠 華宵(takabatake kasyo)の作品例。
「夕蛍」(1930年代頃)。
「落葉」(「少女画報」1926年11月号)。
「少女の国」(1920年代に出版されていた少女雑誌)表紙。1927年10月号。
「白萩」(便箋表紙絵)。1920年代から1930年代。
「春の丘」(「少女画報」1929年4月号)。少女画報は、1912年創刊、1942年廃刊の少女雑誌(主な読者は、中流階級以上の10代の女性)です。少女画報は、第二次世界大戦中の、1942年に、戦時(戦争時)雑誌統合令により、「少女の友」(1908年創刊、1955年休刊の少女雑誌。主たる読者層は、少女画報と同じ)に統合されました。1920年代から1930年代の、日本の女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)では、「S」(sisterの略)と言う行為が流行していました。以下、当時の日本の女学校の生徒達の間で流行していた、「S」に関しては、美術館の展示説明を参考にしました。「S」は、女学校の上級生と下級生の間の、擬似恋愛的な行為で、一方(上級生(お姉さん役))は、絶えず守る立場で(守る役割を演じ)、もう一方(下級生(妹役))は、絶えず、守られる立場でした(守られる役割を演じました)。交際の内容は、手紙を交換したり、お揃いの髪型にしたり等、他愛無い(幼稚な)物でしたが、少女時代(や思春期)のロマンティシズム(romanticism)が、生んだ、(当時の)乙女文化(少女・思春期文化)の一つと言えるでしょう。高畠
華宵(takabatake kasyo)は、「S」に関する(又は、「S」を思い起こさせる)、少女や若い女性の作品を、たくさん描いています。
ちなみに、私の母方の祖母と、私の母方の祖母の姉は、実際の姉妹ですが(既に、二人共亡くなっている)、実際の姉妹であり、擬似的な恋愛的な関係でもありませんが、私の母方の祖母の姉が、絶えず、私の母方の祖母を守る立場で、私の母方の祖母は、私の母方の祖母の姉に、絶えず、守られる立場であったと言う点においては、おそらく、「S」の関係に類似していたと思います。
私の母方の祖母の姉に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
約350年の歴史のデパート・私の母方の祖母の姉の話他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658688/page/34?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下2つの投稿は、それぞれ、私が高校の時と、20代初めから20代半ば頃の、当時、私の、疑似的な弟と言った感じであった(まあ、高校の時の、校内の男の親友は、疑似的な弟という程でもなかったかな。。。)、男の親友の話を含む投稿です。私も、私が高校の時の、校内の男の親友も、私が、20代初めから20代半ば頃の、当時、私の、疑似的な弟と言った感じであった年下の男の親友も、ゲイ(gay)でも、ホモでも、全くなく、その正反対の、女好きの男子でしたがw
女子校・共学の違い他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3598600/page/30?&sfl=membername&stx=nnemon2
蔦屋に行ったら2他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3598599/page/31?&sfl=membername&stx=nnemon2 
「ダンス(dance)」(便箋表紙絵)。1930年。
「光」。
「初春」(「少女の友」1931年1月号口絵原画)。

「情炎」の部分。1931年。
以上、基本的に(若干、内容を追加したり、参考の投稿を入れ替える等しています)、2020年の4月の後半に行った投稿から抜粋して来た物でした。
高畠 華宵(takabatake kasyo)は、1923年、鎌倉(kamakura)に、当時、華宵(kasyo)御殿と呼ばれた、日本伝統式と西洋式の要素を合わせ持つ、邸宅を建てて暮らし始めました。
以下、高畠 華宵(takabatake kasyo)の、華宵(kasyo)御殿の説明に関して、wikiを参考にしました。
華宵(kasyo)御殿は、高畠 華宵(takabatake kasyo)の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵(kasyo)御殿は、全国の女性(特に女学生)からのファンレター(ファンの手紙)が殺到し、地方の令嬢(金持ちの家の娘)が、華宵(kasyo)御殿を見たさに家出する程だった。
以下、鎌倉(kamakura)に関する説明は、基本的に、前に行った投稿から抜粋して来た物です。
東京の南部近郊に位置する(神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県。中心都市は、横浜)に位置する)鎌倉(kamakura)は、中世(1185年から1333年まで)に、日本の政治の中心地であった中都市(中規模程度の人口を有する都市)で、中世以来の歴史を有する、寺や神社(shrine)が、数多くあります(ただし、鎌倉(kamakura)の寺や神社(shrine)の、現在の建物については、(極一部の例外を除き)中世よりも後の時代に、火事等の焼失により、再建された物であったり、時代に合わせて、建て替えられている物です)。その為、鎌倉(kamakura)は、東京近郊の主要な観光地の一つとなっています。
鎌倉(kamakura)は、(中世には、日本の政治の中心地でしたが)、15世紀半ば以降、衰退し、一時期、基本的に衰退した状態にありましたが、19世紀頃から、徐々に観光地として発展し始め、また、19世紀後期以降、東京に近い、近代別荘地・保養地として発展し、再興しました(wikiを参考にしました)。鎌倉(kamakura)は、19世紀後期以降、作家や詩人等、多くの文学者が、好んで、居住し、若しくは、別荘を構えて来ました。また、鎌倉(kamakura)は、1920年代、1930年代頃から、横浜や東京に通勤する、大学教授や高学歴(大学卒)会社員等の、インテリ(知識人)中流層・中上流(upper-middle)層(中上流階級(upper-middle class))が暮らす、郊外住宅地として発展して行きました。鎌倉(kamakura)は、現在も、小説家や、画家、文系の大学教授等、文化人達に好まれ、鎌倉(kamakura)及びその周辺には、こうした人々が、多く暮らしているイメージがあります。
バスクリン(bathclin)(入浴剤)は、1897年からの歴史を有する(元々、中将湯(cyujyouto)と言う名前で販売されていましたが、1930年に、バスクリン(bathclin)に名前を変更)、日本の入浴剤です。
高畠 華宵(takabatake kasyo)が、製品のパッケージ(包装)・広告の、デザイン(design)を手掛けた、バスクリン(bathclin)(1930年)→
https://muuseo.com/kazuhiro2471277/items/553
(こちらは、tとrの間の「・」を除いて下さい)→
https://www.yakuji.co.jp/ent・ry19763.html
以下、中将湯(cyujyouto)(後の、バスクリン(bathclin))に関する参考の投稿。
パナソニック汐留美術館 テルマエ展他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3818065?&sfl=membername&stx=nnemon2