以下、山口 淑子(yamagichi yoshiko)に関する説明は、wikiを参考にしました。
山口 淑子(yamagichi yoshiko)(1920年生まれ。2014年に亡くなる)は、日本の、女優・歌手です。
山口
淑子(yamagichi
yoshiko)は、様々な名前で活動し、(第二次世界大戦以前の)中国・満洲国(Manchukuo)・日本、第二次世界大戦後の香港(Hong
Kong)で、李 香蘭(Li Hsiang-lan・ri koran)、第二次世界大戦後の、日本で、山口 淑子(yamagichi
yoshiko)、アメリカで、シャーリー・ヤマグチ(Shirley Yamaguchi)の名で、映画、歌等で活躍しました。
山口
淑子(yamagichi yoshiko)の父方の祖父は、侍(samurai)の家の出身の、日本の、漢学者(中国学者)であり、その影響で、山口
淑子(yamagichi yoshiko)の父親は親中でした。山口 淑子(yamagichi
yoshiko)の父親は、1906年に中国に渡りました。
山口 淑子(yamagichi
yoshiko)は、1920年に、当時、南満洲鉄道株式会社(The South Manchuria
Railway)(下の補足説明を参照)で、日本人職員に中国語を教えていた、佐賀(saga)県(九州(kyusyu)(日本の南部)に位置する県の一つ)出身の父親(日本人)と、福岡(fukuoka)県(九州(kyusyu)(日本の南部)に位置する県の一つ)出身の、日本の女性との間に、中国で生まれました。
南満州鉄道株式会社(The
South Manchuria
Railway):満州(中国東北部地域)に、存在した、日本の、(実質的に、植民地経営の)国策会社。1906年設立。1945年解散。鉄道事業を中心として、様々な事業を展開し、日本の満州(中国東北部地域)経営の中核を担っていた。
山口 淑子(yamagichi yoshiko)は、南満洲鉄道株式会社(The South Manchuria Railway)で、日本人職員に中国語を教えていた父親の影響で、幼少期から、(父親の方針もあって)中国語に親しんで育ちました。
山口
淑子(yamagichi yoshiko)は、山口 淑子(yamagichi
yoshiko)の家の隣人で父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった、瀋陽(Shenyang)銀行の頭取(社長)(中国人)の、義理の娘となり、「李香蘭(Li
Hsiang-lan)」という中国名を得ました。その後、後に天津(Tianjin)市長になった中国人とも義理の娘として縁を結びました。中国の旧習(古い習慣)では、元来、縁を深めるために互いの子供を義子とする習慣がありました。これは実際に戸籍を移す法的な養子と言う関係ではなく、それぞれの姓で互いの子供に名前を付けあう等のものでした。
山口
淑子(yamagichi yoshiko)は、瀋陽(Shenyang)の、ヤマトホテル(Ymato
Hotel)(下の補足説明を参照)で、コンサート(concert)の前座(opening
act)の歌手として歌っていた所、1932年の、満州国(Manchukuo)(中国東北部地域。日本の、傀儡国家(操り人形国家・実質的には、日本の植民地国家)の誕生と共に、開局した、瀋陽(Shenyang)の、公共ラジオ放送曲の、企画課長に、目にとまる事になり、日本語も中国語も堪能であり、また、その絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、瀋陽(Shenyang)の、公共ラジオ放送曲の番組の歌手に抜擢されました。
ヤマトホテル(Ymato Hotel):南満州鉄道株式会社(The South Manchuria Railway)が経営していた、高級ホテルのチェーン(chain)。最盛期には、満州(中国の東北部地域)に、20以上の、高級ホテルを展開していた。
山口
淑子(yamagichi
yoshiko)は、1938年には、満州国(Manchukuo)の、国策映画会社から、中国人の専属映画女優「李香蘭(Li
Hsiang-lan)」としてデビュー(debut)し、以後、1930年代後期から1944年頃まで、満州国(Manchukuo)の、国策映画会社の専属女優として、日本の映画に、多く出演し、人気を得ました。山口
淑子(yamagichi
yoshiko)は、映画の主題歌も歌って大ヒット(hit)させ、女優として歌手として、日本や満洲国(Manchukuo)で、大人気となりました。そして、山口
淑子(yamagichi
yoshiko)は、流暢な中国語等から、日本でも満洲(Manchukuo)でも多くの人々から中国人スター(star)と信じられていました。
1943年6月には、阿片戦争(First
Opium War)で活躍した中国の英雄・林則徐(Lin
Zexu)の活躍を描いた、日本占領下の上海(Shanghai)の中国の映画会社と満州国(Manchukuo)の国策映画会社の合作の、長編時代劇映画、「萬世流芳(Eternity)」(中国の映画の歴史上、初の、大ヒット(hit)作品となった映画)に、林則徐(Lin
Zexu)の弟子の恋人(後の妻)役で、出演し、中国全土で、公開されると、直ちに、山口 淑子(yamagichi yoshiko)(李香蘭(Li
Hsiang-lan))が歌った、主題歌と、挿入歌が、中国で、大ヒット(hit)し、山口 淑子(yamagichi
yoshiko)(李香蘭(Li
Hsiang-lan))は、日本と満洲(Manchukuo)だけでなく、中国の民衆からも、人気を得ました。その後、山口 淑子(yamagichi
yoshiko)は、次々と、中国で、曲が、ヒット(hit)し、日本と満洲(Manchukuo)だけでなく、中国でも、人気スター(star)となりました。山口
淑子(yamagichi yoshiko)(李香蘭(Li
Hsiang-lan))は、1930年代から1940年代に、上海(Shanghai)で活躍していた、七大歌后(Seven Great
Singing Stars)(7大、女性歌手)及び、七大歌后(Seven Great Singing
Stars)の中でも、特に有名な、五大歌后(5大、女性歌手)の一人に数えられ、中国での人気は、日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わるまで(1945年まで)留まる事を知らず、1945年6月に、上海(Shanghai)で行われたコンサート(concert)では、自分のヒット(hit)曲や、中国・日本・欧米の歌曲等披露し、観客の喝采を浴びました。
日本の第二次世界大戦の敗戦を、中国の、上海(Shanghai)で迎えた、山口
淑子(yamagichi
yoshiko)は、中国人として祖国を裏切った容疑で、中国の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、国外追放処分となり、日本に帰国しました。日本に、帰国後は、山口
淑子(yamagichi
yoshiko)名義で芸能活動を再開し、1940年代後期から1950年代初めにかけて、日本映画で活躍した後、1950年代には、香港(Hong
Kong)やアメリカの映画等でも活躍しました。
山口 淑子(yamagichi
yoshiko)は、1952年から1958年にかけて、香港(Hong Kong)で、香港(Hong
Kong)映画に主演し、中国語圏で、「李香蘭(Li Hsiang-lan)」の名前を復活させました。また同時に、香港(Hong
Kong)で、主演映画の主題歌もヒット(hit)させました(それ等の山口 淑子(yamagichi yoshiko)(李香蘭(Li
Hsiang-lan))の曲は、現在でも、世界中の、中国人・中国系の人々の間で歌い継がれています)。
山口
淑子(yamagichi yoshiko)は、私生活においては、イサム・ノグチ(Isamu
Noguchi。1904年生まれ。1988年に亡くなる。1940年代から1980年代にかけて活躍した有名な彫刻家、画家、デザイナー(designer)。日本系、アメリカ人。アメリカ生まれだが、2歳から13歳まで日本で過ごした)と1951年に結婚しましたが、1956年に離婚しました。山口
淑子(yamagichi yoshiko)は、1958年に、日本の、外交官と、再婚しました。
山口 淑子(yamagichi
yoshiko)は、1958年に、結婚の為、芸能界を、基本的に、引退しましたが、1969年から1974年3月まで、日本の、テレビ番組の司会者を務めました。山口
淑子(yamagichi yoshiko)は、1974年から1992年までの18年間は、日本の、国会議員を務めました。
写真以下7枚(写真は、借り物)。山口 淑子(yamagichi yoshiko)。

1933年。

1940年。日本にて。

1940年代。

1941年。資生堂(shiseido)(下の補足説明を参照)の、ポスター(poster)。
資生堂(shiseido):1872年創業。東京に本社を置く。日本の大規模化粧品会社の一つであると共に、日本最大、且つ、日本を代表する化粧品会社です(世界でも、有数の規模の化粧品会社です)。

「わが生涯のかがやける日(我が生涯の輝ける日)」(1948年の、日本の映画)より)

「醜聞(Scandal)」(1950年の、日本の映画)より。

「風雲千両船」(1952年の、日本の映画)より。
以下3つ(動画は、借り物)。山口 淑子(yamagichi yoshiko)。
以下2つ。山口
淑子(yamagichi yoshiko)(李香蘭(Li Hsiang-lan))の曲の例。山口 淑子(yamagichi
yoshiko)-「夜来香(Fragrance of the Night)」(1944年)。「夜来香(Fragrance of the
Night)」は、元々、中国の歌謡曲ですが、山口 淑子(yamagichi yoshiko)(李香蘭(Li
Hsiang-lan))版の曲により、中国全土に、広まりました。山口 淑子(yamagichi
yoshiko)は、1945年6月に、上海(Shanghai)で行われたコンサート(concert)では、「夜来香(Fragrance of
the Night)の香りも、やがて消える。今の内に楽しみましょう、その香りを」と観客に語りかけました。
前半、中国語版。後半、日本語版。
「支那(中国)の夜」(1938年の、日本の映画)より。山口 淑子(yamagichi yoshiko)(李香蘭(Li Hsiang-lan))が、歌っているのは、同映画の主題歌で、「支那(中国)の夜」(1938年)(山口 淑子(yamagichi yoshiko)の曲の一つ)。
以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。
以下、諏訪 根自子(suwa nejiko)に関しては、wiki等を参考にしました。
諏訪 根自子(suwa nejiko)(1920年生まれ。2012年に亡くなる)は、1930年代の初め頃から1950年代頃にかけて活躍していた、日本の、女性、violinistです。
諏訪
根自子(suwa
nejiko)は、元々、山形(yamagata)県(日本の、東北地方に位置する県の一つ)で、大規模な、肥料会社を経営する、山形(yamagata)県の、お金持ち・資産家であった家に生まれましたが、諏訪
根自子(suwa nejiko)は、その家が、没落した後に生まれました(経営していた、肥料会社が倒産し、諏訪 根自子(suwa
nejiko)の両親が、山形(yamagata)県から、東京の、現在の、渋谷(shibuya)区(東京中心部の西部に位置する)に該当する地域に、引っ越した後に、生まれました)。もっとも、没落したとは言っても、諏訪
根自子(suwa nejiko)の家族は、東京で、中流層から中上流層(upper-middle
class)程度の、生活水準は、維持していた様です。
諏訪 根自子(suwa
nejiko)の両親は、文学・芸術に関心が高く、当時の、日本の、有名な、作家・芸術家達と、親しく、また、諏訪 根自子(suwa
nejiko)が3歳の頃から、諏訪 根自子(suwa
nejiko)に、当時の、有名な、violinistに、バイオリン(violin)を習わせました。
諏訪 根自子(suwa
nejiko)は、少女の頃から、貴族の家の、party等で、バイオリン(violin)を演奏する機会を得て、その、(年齢の割の)、実力の高さが、(まず、上流階級の社交界で)高く評価され、注目を浴びる様になり、1930年代初めに、プロの(専門の、職業としての)、violinistとして、デビュー(debut)しました。以後、諏訪
根自子(suwa nejiko)は、1930年代の初めから1930年代の中期にかけて(諏訪 根自子(suwa
nejiko)が、10代の初めから10代の中頃にかけて)、(年齢の割に、とても高い実力があった事から)天才と呼ばれ、また、美人(美少女)であった事から、日本の、大衆の間で、現在で言う、女性、アイドル(idol)歌手的な、人気を博しました(おそらく。。。)。もっとも、当時、諏訪
根自子(suwa nejiko)は、現在の、、女性、アイドル(idol)歌手、女性アイドル(idol)グループ(group)(idol
girl group)よりも、もっと、幅が広い層・幅が広い年齢層の人々に、人気を得ていたと思います。
写真以下3枚(写真は、借り物)。諏訪
根自子(suwa nejiko)。諏訪 根自子(suwa nejiko)は、1930年代の初めから1930年代の中期にかけて(諏訪
根自子(suwa
nejiko)が、10代の初めから10代の中頃にかけて)、(年齢の割に、とても高い実力があった事から)天才と呼ばれ、また、美人(美少女)であった事から、日本の、大衆の間で、現在で言う、女性、アイドル(idol)歌手的な、人気を博しました(もっとも、当時、諏訪
根自子(suwa nejiko)は、現在の、女性、アイドル(idol)歌手、女性アイドル(idol)グループ(group)(idol girl
group)よりも、もっと、幅が広い層・幅が広い年齢層の人々に、人気を得ていたと思います)。諏訪 根自子(suwa
nejiko)は、第二次世界大戦中は、日本政府と、(当時、日本と同盟国であった)ドイツの、ナチス(Nazi
Party)の、プロパガンダ(propaganda)にも利用され、1942年に、ドイツで、Hans
Knappertsbuschが指揮をする、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berlin
Philharmonic)と共演した際には、ナチス(Nazi Party)の、宣伝の代表者であった、Joseph
Goebbels(プロパガンダ(propaganda)の天才と呼ばれた)から、Stradivariusと伝えられる、バイオリン(violin)を贈られています。



動画は、借り物。諏訪 根自子(suwa nejiko)の演奏で、「Andante Cantabile」。1930年代の初めから1930年代の中期頃(諏訪 根自子(suwa nejiko)が、10代の初めから10代の中頃)。
諏訪 根自子(suwa nejiko)は、私生活においては、日本の、外交官と結婚しました。
以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。
以下、基本的に、2017年に行った投稿から抜粋して来た物です。
以下、原 節子(hara setsuko)について紹介します。
原
節子(hara setsuko)(1920年生まれ)は、1930年代中期から1960年代初め頃にかけて活躍していた、日本の女優です(原
節子(hara
setsuko)は、特に、1940年代後期から1950年代にかけて、日本を、代表する女優の一人として活躍し、日本映画の、黄金期を代表する女優の一人となっています)。原
節子(hara
setsuko)は、(それ以降、年老いて行く姿を、見せたくなかったのか)、理由は、よく分かりませが、1963年(40代の前半で)、女優を引退し、それ以降、表舞台(芸能界)からは、完全に姿を消しました。ちなみに、小津
安二郎(ozu yasujiro)(後で説明します)が亡くなったのは、1963年ですが、小津 安二郎(ozu yasujiro)の死と、原
節子(hara setsuko)の引退は、何等かの関係があるのか、無いのかは、謎となっています。原 節子(hara
setsuko)は、引退以降、2015年に、95歳で亡くなるまでの、多くの時期を、鎌倉(kamakura)(東京の南部近郊)の、静かで、落ち着いた住宅地にある家で、ひっそりと暮らしていた様です(ちなみに、原
節子(hara
setsuko)は、維持費もかかるし、もう不要と考えたのか、1994年に、狛江(komae)市(東京都心部に近い、東京の西部郊外)の、かつての、主な自宅(主な自分の家)(敷地面積、約2,900平方m(約900坪))を、売却しています。もう一つ、ちなみに、原
節子(hara setsuko)は、生涯、独身でした)。
私は、原 節子(hara
setsuko)は、特に、ファン(fan)と言う訳でもなんでもないのですが(べつに、ファン(fan)と言う訳ではないのですが)、私は、個人的に、小津
安二郎(ozu yasujiro)(下の補足説明参照)の映画が好きで、原 節子(hara setsuko)は、小津 安二郎(ozu
yasujiro)の映画に、比較的、多く出演している事から、原 節子(hara
setsuko)は、映像を通じてw、比較的、馴染みのある女優です。
小津 安二郎(ozu
yasujiro):1903年生まれ。1963年に亡くなる。1920年代後半から、1960年代初めに活躍。日本の世界的に有名な映画監督の一人。原
節子(hara setsuko)は、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画に、比較的、多く出演しています。
写真以下7枚。原
節子(hara setsuko)。写真は、借り物。原 節子(hara
setsuko)は、とても美人ですが、(10代の頃は除いて)、女優としては、顔は、大きいと思いますw(一般的に、舞台(演劇)、俳優・女優は、顔が大きい方が良いと考えられていると思いますが、映画・TVドラマ、俳優・女優は、顔が小さい方が良いと考えられていると思います。ちなみに、原
節子(hara setsuko)は、(主に)映画女優です)。原 節子(hara
setsuko)は、身長は、165cmであった様ですが、現在の、身長165cmの、日本の女優は、もっと、顔が小さいと思います。
写真以下2枚は、1935年頃。原 節子(hara setsuko)は、当時、14歳から15歳位。



1936年頃。原 節子(hara setsuko)は、右側で、当時16歳。左側は、黒田 記代(kuroda kiyo)(1916年生まれ。1930年代から1940年代初め頃にかけて、活躍していた、日本の女優。第二次世界大戦後は、活動が、地味となる)。






写真は、借り物。戦争中の、日本の映画、「指導物語」(1941年)の場面より。。。映画の監督は、熊谷 久虎(kumagai hisatora)。以下、この映画の内容に関する説明は、基本的に、wikiから借りて来ました。戦争中の映画であり、戦意高揚を担っている面も、少なくないものの、基本的には、題名通り、あくまで、蒸気機関車(steam locomotive)の、運転の指導を通じた、日本国有鉄道の、年を取った、蒸気機関車の、機関士(操縦者・運転士)と、日本の、若い、軍人(兵隊)との、交流を描いた作品です。当時、21歳であった、原 節子(hara setsuko)は、この映画において、日本国有鉄道の、年を取った、蒸気機関車の、機関士(操縦者・運転士)の、娘の一人(三人姉妹の、長女)の役を演じています(上の写真中央)。
以上、基本的に、2017年に行った投稿から抜粋して来た物でした。
以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。
動画は、借り物。「晩春(Late Spring)」(1949年)。私は、個人的に、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画が好きなのですが、個人的に、小津 安二郎の映画の中でも、一番、好きな映画は、地味な映画ですが(と言うか、そもそも、小津 安二郎(ozu yasujiro)は、黒澤 明(kurosawa akira。1910年生まれ。1998年に亡くなる。日本の世界的に有名な映画監督の一人)等と異なり、人々の日常を舞台とした、地味な映画を特徴とする、映画監督です)、「晩春(Late Spring)」(1949年)です。その理由の一つに、「晩春(Late Spring)」の登場人物達が、私の、身近な人々に重なると言うのがあります。笠 智衆(ryu chishu)と言う、日本の俳優が演じる、保守的で、つましい(質素な)、大学の教授は、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、亡くなった、私の母方の祖父に重なります。原 節子(harasetsuko)と言う日本の女優が演じる、大学教授の娘は、亡くなった、私の母方の祖母に重なります。原 節子(harasetsuko)が演じる、大学教授の娘の、元々、女学校(第二次世界大戦以前の日本における、女子(女性)向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学校と高校に当たる。第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘(中流階級・中上流階級(upper-middle class)・上流階級の、家庭の娘)が通った)の同級生(同学年・同じクラス)である、親友の女性(月丘 夢路(tsukioka yumeji)と言う、日本の女優が演じています)は、我が家、及び、我が家の近所の実家の近所に暮らしていた、亡くなった、私の母方の祖母の姉の若い頃のイメージに重なります。
以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。
以下、参考の投稿。
小津 安二郎映画「晩春」他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_2/view/id/3580708?&sfl=membername&stx=nnemon2
約350年の歴史のデパート・私の母方の祖母の姉の話他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658688/page/48?&sfl=membername&stx=nnemon2
母方の祖母の話→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658687/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
芸者(geisha)・祖父の話他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658686/page/48?&sfl=membername&stx=nnemon2
旧朝香宮(asakanomiya)邸他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658681/page/48?&sfl=membername&stx=nnemon2
ムーラン・ルージュ(Moulin
Rouge)新宿(shinjyuku)は、1931年から1951年まで、新宿(下の補足説明を参照)に存在していた、大衆、劇場です。名前は、フランスの、パリ(Paris)の、モンマルトル(Montmartre)のムーラン・ルージュ(Moulin
Rouge)から取った物です。
新宿:電車の新宿駅の周辺。東京中心部(東京23区)の西部に位置する。渋谷(shibuya)(電車の渋谷(shibuya)駅周辺。東京中心部(東京23区)の西部に位置する)・池袋(ikebukuro)(電車の池袋(ikebukuro)駅周辺。東京中心部(東京23区)の北西部に位置する)と共に(新宿、渋谷(shibuya)、池袋(ikebukuro)は、何れも、大衆的な繁華街です)、第二次世界大戦後(特に、1960年代以降)、急速に発展し、東京最大級の繁華街の一つとなったが、新宿は、既に、1930年代において、東京の新興繁華街として急速に発展して、東京の主要な繁華街の一つとなっていた。ちなみに、東京都心部の東部(北東部)に位置する、浅草(asakusa)は、現在は、東京の主要な繁華街の一つに過ぎませんが(それでも、東京の下町(旧市街)(東京都心部の東部)の中心的な繁華街となっている)、第二次世界大戦前は、銀座(ginza。東京都心部の中でも、中心的な地域に位置する)と共に、東京の二大繁華街でした(第二次世界大戦前は、銀座(ginza)が、中流層及び上流層の為の中心的繁華街、浅草(asakusa)が、庶民の為の中心的繁華街と言った感じでした。ちなみに、銀座(ginza)は、今でも、東京を代表する繁華街の座を維持していると共に、東京を代表する高級繁華街となっています)。浅草(asakusa)は、第二次世界大戦末期の空襲で、壊滅的な被害を受けました。また、第二次世界大戦後、浅草(asakusa)が、衰退して行く一方で、東京都心部の西部(1920年代から1930年代に、本格的な開発が始まった、東京の新市街・新興住宅地)の、新宿(shinjyuku)や渋谷(shibuya)等が、東京の新たな主要な繁華街として、成長し、台頭して来ました。これにより、浅草(asakusa)は、東京最大級の繁華街の座は、新宿(shinjyuku)や渋谷(shibuya)等、他の繁華街に譲りました(ちなみに銀座(ginza)は、第二次世界大戦前と後を通じて、現在に至るまで、東京を代表する繁華街であると共に、隣の有楽町(yurakucho)と合わせて(銀座(ginza)・有楽町(yurakucho))、東京最大級の繁華街の座を維持)。
明日 待子(ashita matsuko)は、1930年代に活躍し、当時、とても、人気が高った、日本の、女性、アイドル歌手・アイドル女優・ダンサー(dancer)です。明日
待子(ashita matsuko)は、同年齢の、山口 淑子(yamagichi yoshiko)(李香蘭(Li
Hsiang-lan))、諏訪 根自子(suwa nejiko)、原 節子(hara
setsuko)と共に、日本の、女性、アイドル(idol)の黎明期を支えた、アイドル(idol)の一人とされています。
以下、明日 待子(ashita matsuko)に関しては、wikiを参考にしました。
明日
待子(ashita
matsuko):1920年、岩手(iwate)県(日本の東北地方に位置する県の一つ)の、小都市、釜石(kamaishi)市で、生まれる。日本の伝統的な楽器・日本の伝統的な音楽を嗜む両親の影響で、5歳から、日本舞踊(日本の、伝統的な踊り)等を習う。釜石(kamaishi)市で、警察署長を務めていた、父を、9歳で亡くした後は、母が、食堂を始めて、生活を支えた。13歳の時に、地方巡業中だった、ムーラン・ルージュ(Moulin
Rouge)新宿(shinjyuku)の俳優により、スカウトされ(ムーラン・ルージュ(Moulin
Rouge)新宿(shinjyuku)に入団しないかと誘われ)、即(すぐに)、ムーラン・ルージュ(Moulin
Rouge)新宿(shinjyuku)に入団する事が決定した。
1933年11月に初舞台。以後、1930年代に、ムーラン・ルージュ(Moulin
Rouge)新宿(shinjyuku)の、看板女優(代表的な女優)、看板スター(代表的なstar)の一人として活躍しました。雑誌の、グラビア(写真)や企業の広告ポスター(poster)等でも、活躍し、一大ブーム(大きなブーム(boom))を巻き起こし、現在で言う、アイドル(idol)的な、人気がありました。
ちなみに、当時開業して間もなかった小田急(odakyu)電鉄(dentetsu)(下の補足説明を参照)が、週末の温泉旅行用の急行列車(express)用に、ムーラン・ルージュ(Moulin
Rouge)新宿(shinjyuku)に、テーマ曲の、「小田急(odakyu)行進曲」と「小田急(odakyu)音頭(ondo)」の製作を依頼しており、沿線案内の吹き込みは、ムーラン・ルージュ(Moulin
Rouge)新宿(shinjyuku)の、看板スター(代表的なstar)の、明日 待子(ashita
matsuko)が担当していましたが、実際に78回転盤(SPレコード)6枚組で完成した、テーマ曲、「小田急(odakyu)行進曲」と「小田急(odakyu)音頭」のレコードを、走行中の、電車の車内で演奏をテストしたところ、発車起動時の振動から途端に針が飛んでしまいどうにもならず失敗に終わったため、1935年に、運行開始した、小田急(odakyu)電鉄(dentetsu)の、週末の温泉旅行用の急行列車(express)では、使用されませんでした。
小田急(odakyu)電鉄(dentetsu):1920年代後期に路線を開業。主に、東京都心部の新宿と、東京の、南西部郊外・近郊を結ぶ、通勤電車・観光電車路線を運営している、私営鉄道会社。運営している、電車路線の、総距離は、120.7km。東京圏の9つの、大手(大規模)私営鉄道会社(ちなみに、これには、JR東日本(元、日本国有鉄道)は、含まれていません)の一つ。
以下、参考の投稿。
70年近い歴史を有する特急列車他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3881372?&sfl=membername&stx=nnemon2
明日 待子(ashita matsuko)は、第二次世界大戦中は、戦場の、日本軍の兵士への、慰問公演で活躍しました。
明日
待子(ashita
matsuko)は、1949年に、北海道(hokkaido)(日本の最北端の地方)の興行会社の経営者の息子(当時36歳)と結婚し、以降は、札幌(sapporo)(北海道(hokkaido)の中心都市)に居住し、後に、舞踏研究所を開きました。1953年には、札幌(sapporo)の夫の劇場の中に、レストランを開店させました。1954年には、長女を出産。晩年は、日本舞踏家(日本の伝統的な踊りの先生等)として過ごしました。

写真は、借り物。明日 待子(ashita matsuko)。1938年。
動画は、借り物。明日 待子(ashita matsuko)。