以下、かなり前の事ですが、基本的に、2010年の6月の下旬に行った投稿から抜粋して来た物で(投稿文は、2010年の6月の下旬の投稿を前提としています)、2010年の3月の半ばに、林 芙美子(hayashi fumiko)記念館を訪れた時の物です。
東京中心部(東京23区)の西部(中心寄りの西部)に位置する新宿(shinjyuku)区の北西部(落合(ochiai)・中井(nakai)area)にある、林 芙美子(hayashi fumiko)記念館を訪れました。
写真以下。現地で散歩。新宿(shinjyuku)区の北西部は、私の街(東京中心部(東京23区)の西部に位置する渋谷(shibuya)区の中北部)と同じで、現在も、静かで、落ち着いた住宅地となっている、1920年代から1930年代に開発された、中流階級(ここで言う中流階級とは、労働者階級に対する中流階級)向けの新興住宅地です。1920年代から1930年代当時は、東京の都心に、比較的近い、東京の郊外と言った感じだった事でしょう。
この街も、東京の他の住宅地同様、第二次世界大戦中の(第二次世界大戦末期の)空襲の被害を受け、昔の面影は、ほとんど残っていないと言われている様ですが、この街の、今回散歩した一帯は、空襲の被害が比較的酷くなかった&第二次世界大戦後も、住宅の建物の建て替えが、それ程は、急速に進まなかった為か、第二次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、趣のある古い一戸建て住宅の建物が、結構、たくさん残っています(私の街よりも、遥かに高い比率で、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、趣のある古い一戸建て住宅の建物が、残っている印象を受けます)。写真以下31枚は、その例です。
写真以下15枚。第二次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる日本伝統式の一戸建て住宅(一部西洋式を取り入れている日本伝統式の一戸建て住宅を含む)。一部の一戸建て住宅の壁の一部が新しく見えるのは、おそらく壁の塗り替えによる物で、建物自体は、古いと思います。建て替えられる前の、我が家の近所の、私の実家(元々、私の、母方の祖父母の家。母方の祖父母共、既に、亡くなり、現在は両親が引き継いで暮らしている(ちなみに、私の母は、一人っ子です)。私の母方の祖母の父(田舎の地主)が、東京及び、その郊外(当時)に、幾つか保有していた、不動産の一つを、私の母方の祖父母が、結婚する際に、私の母方の祖父母に与えた物)の建物も、こんな感じだった様です(その建物(実家の元々の建物)は、第二次世界大戦中の空襲の被害は、免れたものの、残念ながら、私が生まれる前(私の母が高校生の頃。1960年代)に、現在の趣の無い建物に立て替えてしまったそうです(なお、現在の実家の建物は、近年、改装した際に、耐震補強を施しました))。ちなみに、建て替えられる前の、実家の建物は、西洋式は、取り入れられていない日本伝統式の一戸建て住宅だったそうです。


写真以下2枚は、同じ一戸建て住宅です。




写真以下4枚は、同じ一戸建て住宅です。






写真以下2枚は、同じ一戸建て住宅です。



写真以下5枚。第二次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、西洋式と日本伝統式、両方の要素が取り入れられている一戸建て住宅。





写真以下11枚。第二次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる西洋式の一戸建て住宅。











写真以下4枚。現在、新宿(shinjyuku)歴史博物館で行われている、佐伯 祐三(saeki yuzo)の展覧会(exhibition)のチラシ(leaflet)から。。。

佐伯 祐三(saeki yuzo)。1898年に大阪(仏教の寺の、男4人女3人の兄弟の次男として生まれた)で生まれ、1928年、30歳の若さで亡くなった、1920年代に活躍した、日本の近代画家です。

佐伯
祐三(saeki yuzo)と、その家族(1920年代に撮影された物)。佐伯 祐三(saeki
yuzo)は、1921年、東京美術学校(現在の東京芸術大学。日本の芸術系の大学の中で、最高峰の大学。東京大学、京都(kyoto)大学等と並ぶ、日本を代表する名門大学の一つ)在学中に結婚、それを機会に、新宿(shinjyuku)区の北西部に、アトリエ(studio)兼住宅を建て、新しい生活を始めました。この頃、新宿(shinjyuku)区の北西部には、佐伯
祐三(saeki yuzo)だけで無く、才能の有る、若手エリート(elite)画家達が、多く暮らしていました。

写真左は、新宿(shinjyuku)区の北西部の風景を描いた、佐伯 祐三(saeki yuzo)の作品(1920年代)。その右は、パリ(Paris)のリュクサンブール(Jardin du Luxembourg)公園を描いた、佐伯 祐三(saeki yuzo)の作品(1920年代)。

新宿(shinjyuku)区の北西部の風景(テニス(tennis)風景)を描いた、佐伯 祐三(saeki yuzo)の作品。
私の街も、そうですが、新宿(shinjyuku)区の北西部は、他の山の手(yamanote)(東京中心部(東京23区)の西部)の、静かで落ち着いた住宅地同様、中流層、庶民層の住宅と共に、お金持ちの邸宅が、結構たくさんあります。写真以下4枚は、その例です。
写真以下2枚は、同じ邸宅です。




写真以下11枚。林 芙美子(hayashi fumiko)記念館。林 芙美子(hayashi fumiko)(下の補足説明参照)が、1941年から1951年に亡くなるまで暮らしていた家で、現在も、保存され、林 芙美子(hayashi fumiko)に関する資料館となっています。林 芙美子(hayashi fumiko)記念館を訪れたのは、今回が、初めてです。
林
芙美子(hayashi
fumiko):1903年生まれ、1951年に亡くなる。1920年代末から1951年に亡くなるまで活躍した、日本の有名な女性作家(小説家)。貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに(特に)名作がある(wikiより)。夫は、画家の手塚
緑敏(tezuka ryokubin)(有名な画家と言う程では無く、知名度は、林 芙美子(hayashi
fumiko)の方が、遥かに(ずっと)上。人気作家であった妻(林 芙美子(hayashi fumiko))を影で支えた)。

写真の道路左側が、そうです。こんな家に住んでおいて、底辺の庶民を慈しむように描いた作品、何て言うのも、少し変な気がしますが、まあ、昔、貧しくて苦労したと言う事で。。。



写真以下。林 芙美子(hayashi fumiko)の邸宅の建物(現在は、林 芙美子(hayashi fumiko)記念館(林 芙美子(hayashi fumiko)に関する資料館)の建物)。1941年に完成した、一部、西洋式を取り入れた(画家であった夫のアトリエ(studio)部分)、日本伝統式の住宅の建物です。林 芙美子(hayashi fumiko)は、1939年に、土地を手に入れ、新しい家の建物を建設し始めました。林 芙美子(hayashi fumiko)は、家の建物の為、建築の勉強をし、設計者や大工を連れて、京都(kyoto)(日本の西部に位置する大都市。794年から19世紀半ばまで、長らく日本の首都であった都市であり、日本の、伝統文化の中心都市)の住宅を見学したり、材木を見に行ったり、その思い入れは、格別でした(林 芙美子(hayashi fumiko)記念館の公式siteより)。貧しい、若しくは、庶民の家庭に生まれて、後に成功を収め、名声と富を手に入れた者の家に有り勝ちな?成金趣味的な、悪趣味な派手さは、全く感じられない建物で、何て言うか、裕福な家に生まれ、一通り、派手な生活を経験し尽くした後に至る趣味の良さ(白州次郎(shirasu jiro)・正子(shirasu masako)夫妻の様な趣味の良さ?w)に通じる、林 芙美子(hayashi fumiko)の趣味の良さを、個人的に、建物から感じ取る事が出来ました。戦時体制一色となり、民間に配分される物資が、極度に不足し始めた頃(1941年)に完成した住宅の建物(おそらく、普通の中流層程度では、1940年頃から、第二次世界大戦の終り頃までは、基本的に、家の建物を新築する事すら、無理に近かったと思います)ですが、高価で、非常に質の高い建築材料を使って建てられている住宅の建物と言う印象を受けました。







以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。
林 芙美子(hayashi fumiko)に関しては、詳しくは、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
林 芙美子(hayashi fumiko)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3881375?&sfl=membername&stx=nnemon2