基本的に、2020年の10月の下旬に行った投稿の再掲です。
以下でリンクをつけた2つの投稿。前に行った投稿から抜粋して来た物で、彼女と(私の今の彼女と)、山梨(yamanashi)県(東京圏の西部に隣接する県)にある、(最近コロナ騒動で、ちょっと足が遠のいてしまっていますが)個人的にお気に入りの温泉旅館に、宿泊して来た時の事に関する物です。
山梨県の、460年以上の歴史を有する温泉旅館前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3748879?&sfl=membername&stx=nnemon2
山梨県の、460年以上の歴史を有する温泉旅館後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3748878?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、上でリンクを付けた、2つの投稿の続きと言った感じの投稿です。
以下、基本的に、前に行った投稿から抜粋して来た物で、彼女と(私の今の彼女と)、山梨(yamanashi)県(東京圏の西部に隣接する県)にある、個人的に、お気に入りの温泉旅館に、宿泊して来た時の事に関する投稿から、抜粋して来た物です。
以下、この時の、2日目(以下、この日と書きます)の続きです。
写真以下。この日は、温泉旅館を、チェックアウト(checkout)した後、恵林(erin)寺を訪れました。恵林(erin)寺は、甲府(kofu)都市圏の東端部に位置する、塩山(enzan)area(かつての、塩山(enzan)市(人口2万5千人程の小都市)。西沢(nishizawa)渓谷の玄関口となっている都市)の北の郊外の、のどかな、住宅地にある(この時、宿泊した温泉旅館と塩山(enzan)areaの市街地の中間位の場所にある)、仏教の寺です。山梨(yamanashi)県は、甲府(kofu)都市圏(下の補足説明を参照)を中心として、果物の栽培が盛んな県であり、日本の果物の、主要な産地の一つとなっています。塩山(enzan)areaも、果物の栽培が盛んとなっています。
甲府(kofu):山梨(yamanashi)県の中心部にある中都市(中規模程度の人口の都市)で、山梨(yamanashi)県の県庁所在地(capital)であると共に、山梨(yamanashi)県で最大の人口を有する都市となっている。山梨(yamanashi)県は、個人的に、甲府(kofu)都市圏と、そこから広がる(それを取り囲む)、豊な自然と田舎によって構成されている県と言った感じの印象を受けます。山梨(yamanashi)県は、甲府(kofu)都市圏を中心とした、葡萄等の果物とwineの主要な産地となっています。山梨(yamanashi)県は、葡萄・桃等の果物の、日本における主要な産地の一つとなっていますが、山梨(yamanashi)県の中央部の甲府(kofu)盆地(甲府(kofu)都市圏)を中心として、非常に多くのワイン(wine)醸造所(ワイン(wine)製造所)とワイン(wine)会社があり、日本のワイン(wine)の主要な産地の一つであると共に、おそらく、日本最大のワイン(wine)の産地となっています(山梨(yamanashi)県には、私が、軽く調べた限り、約80のワイン(wine)醸造所と、70以上のワイン(wine)会社があります)。
西沢(nishizawa)渓谷に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
武田 信玄(16世紀の地方領主)・西沢渓谷→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3748876?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真以下54枚。恵林(erin)寺。恵林(erin)寺を訪れたのは、この時で、2回目でした。恵林(erin)寺は、武田(takeda)家(1580年代初めまで、現在の、山梨(yamanashi)県に該当する地域を統治していた地方領主の家)の、寺です。恵林(erin)寺は、1330年に、二階堂 貞藤(nikaido sadafuji)(当時、この辺りを荘園として統治していた地方領主)が、夢窓 疎石(musou soseki)(14世紀の、日本の有名な、仏教の僧侶)に依頼して、自分の邸宅の敷地の跡地に、創建した、仏教の寺です。恵林(erin)寺は、1470年代に、戦乱により、一時期、荒廃しましたが、武田(takeda)家の寺に定められてからは、再興しました。恵林(erin)寺は、武田 信玄(takeda shingen)(下の補足説明参照)により、再興されました。
武田 信玄(takeda shingen):1521年生まれ。1573年に亡くなる。16世紀に、現在の山梨(yamanashi)県に該当する地域を統治していた、有力、且つ、有名な地方領主。武田(takeda)家(現在の山梨(yamanashi)県に該当する地域を統治していた、地方領主の家)の、19代目の当主として、武田(takeda)家の勢力を拡大し、武田(takeda)家を、日本有数の、有力な地方領主の家とした(武田(takeda)家の勢力が、最も、拡大したのは、武田 信玄(takeda shingen)の息子の、武田 勝頼(takeda katsuyori)(武田(takeda)家の20代目の当主)の時代であり、武田(takeda)家の勢力範囲は、長野(nagano)県(山梨(yamanashi)県に隣接する県)、静岡(shizuoka)県(山梨(yamanashi)県に隣接する県)の他、さらに、その周辺地域まで及んだ)。武田 信玄(takeda shingen)は、領地(現在の、山梨(yamanashi)県に該当する地域)においては、甲府(kofu)の、武田(takeda)家の邸宅の周辺を都市として整備すると共に、積極的な農地の開墾を行いました。また、西洋の掘削技術を積極的に取り入れる等して、金の鉱山の開発を、積極的に行い、膨大な量の金を産出し、金貨を発行して、体系的な、地方通貨の貨幣制度を整備すると共に、領地(現在の、山梨(yamanashi)県に該当する地域)内の、農地の開拓の費用や、軍事費に充当しました(wikiを参考にしました)。武田 信玄(takeda shingen)は、山梨(yamanashi)県の人々の間においては、現在においても、絶大な人気があります。
1582年に、織田 信長(oda nobunaga)(下の補足説明参照)と徳川 家康(tokugawa ieyasu)(下の補足説明参照)の連合の軍隊は、武田(takeda)家の領地(現在の、山梨(yamanashi)県に該当する地域)に攻め込み、武田(takeda)家は、滅ぼされました。その際に、その時、恵林(erin)寺に潜伏・保護されていた(恵林(erin)寺において、当時の、恵林(erin)寺の僧侶が、匿っていた)、かつて、織田 信長(oda nobunaga)に敗れ、武田(takeda)家の領地(現在の、山梨(yamanashi)県に該当する地域)に寄宿していた(かつての)地方領主や、武田(takeda)家の関係者達の、織田 信長(oda nobunaga)の軍隊への引き渡しを、恵林(erin)寺の僧侶が、断固として、拒否をした事から、織田 信長(oda nobunaga)は怒り、織田 信長(oda nobunaga)の軍隊へ、恵林(erin)寺の僧侶、諸共、恵林(erin)寺を、焼き払う事を命じ、恵林(erin)寺は、恵林(erin)寺の僧侶、諸共、織田 信長(oda nobunaga)の軍隊によって、焼き払われました。
織田 信長(oda nobunaga):1534年生まれ(地方領主の家に生まれる)。1582年に亡くなる。1570年代から1580年代初めに亡くなるまで、日本で、最も有力な、領主であり、日本で、最も、力のある権力者であった。戦争に、とても、強かった。敵対する者・敵対する勢力に対しては、とても残酷で冷徹な面を持つ一方で、人々の身分や家柄に対する考え方や宗教・迷信等を含む、固定的な(伝統的・因習的な)考え方を嫌い、新しい物や革新的な事が好きであった。当時において、既に、近代的・現代的な合理主義の精神を持っていた、合理主義者・実質主義者であった。私生活においては、派手な事や、華やかな事を、好んだ。個性が強い、カリスマ的な(charismaticな)、権力者であった。現在でも、日本の歴史上の人物の中で、最も、人々の関心を引く(人々の興味を集める)人物の一人であり、最も、人気が高い人物の一人となっている。韓国では、悪名が高い(悪い意味で有名な)、下層階級の農民出身の(豊臣秀吉(toyotomi hideyoshi)の父親の、職業については、諸説あるが、何れにしても、下層階級出身であった事は、間違えないとされている)、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)(1536年、又は、1537年生まれ。1598年に亡くなる)の才能を見出し、重要な家来の一人としたのが、織田 信長(oda nobunaga)です(豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)は、後に、日本全国の地方領主達の長(leader)となり、日本を、実質的に統治しました)。
徳川 家康(tokugawa ieyasu):1543年生まれ。1616年に亡くなる。地方の、小さな豪族の家に生まれるが、後に、非常に有力な地方領主となる。17世紀初めに、豊臣(toyotomi)家側の軍隊に勝利する等して、日本全国の地方領主達の長leader)となり(後の、1615年に、徳川(tokugawa)家は、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)直系の、豊臣(toyotomi)家を滅ぼした)、以後、19世紀半ばまで、江戸(edo)(現在の東京)を拠点に、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治する事となる、徳川(tokugawa)家(徳川(tokugawa)将軍(shogun)家)の、基礎を作った。
徳川 家康(tokugawa ieyasu)(上の説明参照)は、地方領主時代、勢力を拡大しようとする、武田 信玄(takeda shingen)の軍隊に大いに苦しめられましたが、武田 信玄(takeda shingen)を、優れた、地方領主として、尊敬していた面もあり、軍事・政治共に、武田(takeda)家を手本にした物が多くなっています(wikiを参考にしました)。また、武田(takeda)家が、織田 信長(oda nobunaga)に滅ぼされ、さらに、織田 信長(oda nobunaga)が、1582年に、明智 光秀(akechi mitsuhide)(織田 信長(oda nobunaga)の重要な家来の一人)の謀反により亡くなった後、武田(takeda)家の、かつての、有力な家来の、侍(samurai)の多くを、自分の、家来に取り込んでいます。ちなみに、明智 光秀(akechi mitsuhide)は、1582年に、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)の軍隊に敗れ、亡くなっています。
1582年に、織田 信長(oda nobunaga)の軍隊によって、焼き払われ、一度、壊滅した、恵林(erin)寺ですが、敵ながら、武田 信玄(takeda shingen)を尊敬していた、徳川 家康(tokugawa ieyasu)によって、恵林(erin)寺は、17世紀初めに、再興されました。ちなみに、恵林(erin)寺には、武田 信玄(takeda shingen)の墓の一つがあります(武田 信玄(takeda shingen)の墓は、一つではなく、多く存在しており、その内の一つは、武田 信玄(takeda shingen)の葬式が行われた、この、恵林(erin)寺にあります)。また、恵林(erin)寺には、武田(takeda)家の、有力な、家来達の、墓もあります。
写真以下54枚。恵林(erin)寺。恵林(erin)寺は、1905年に、火事により、壮大な建物の、ほとんどを焼失し、その後(おそらく、1900年代後半から1910年代初めに)、寺の建物が再建されています(wikiを参考にしました)。現在の、恵林(erin)寺の建物は、おそらく、基本的に、1582年に、織田 信長(oda nobunaga)の軍隊によって焼き払われ、一度、恵林(erin)寺が、壊滅した後、17世紀初めに、徳川 家康(tokugawa ieyasu)によって再興された際に建てられた建物と、1905年に、火事により、焼失した後、1900年代後半から1910年代初めに再建された建物によって構成されていると思います(たぶん、門等の建物は、基本的に、17世紀初めに、徳川 家康(tokugawa ieyasu)によって再興された際に建てられた物で、寺の、メイン(main)の建物は、基本的に、1905年に、火事により、焼失した後、1900年代後半から1910年代初めに再建された建物であると思います)。
恵林(erin)寺の、パンフレット(leaflet)より。。。武田(takeda)不動尊と呼ばれている、恵林(erin)寺に安置されている、1550年代初めに(武田
信玄(takeda
shingen)が、31歳の時に)制作された仏像です。日本は、古くから、木材が、豊かな国であった事から、伝統的な建築物は、規模の大きな建築物を含めて、木造の物が、主流となって来ました。木造の建築物の欠点の一つとして、火災に、比較的、弱いと言う点があります。日本においては、この様な、仏像は、寺が火災の時は、又は、寺に火災の危機がある時には、素早く、寺の建物から、運び出される事によって守られて来ました(その為の、準備・訓練も行われて来ました)。したがって、日本においては、長い歴史において、寺の建物は、何度か、焼失したとしても、寺に安置されている、古い仏像等は、比較的、よく守られて来ました。
屋根に付いているのは、武田(takeda)家の、家紋(家の紋章(coat of arms))です。
写真以下4枚。恵林(erin)寺の周辺の風景例。恵林(erin)寺の周辺は、塩山(enzan)area(かつての、塩山(enzan)市(人口2万5千人程の小都市))の北の郊外の、のどかな、住宅地で、田舎の、のどかな住宅地と言った感じです。
周辺地域の果物の農園等を営んでいる、古くからの、比較的、裕福な、農家(農民)の家(一戸建て住宅)が、多いと言った感じです。
写真以下2枚。この、ほうとう(houtou)食堂で食べた、この日の、昼食。ほうとう(houtou)。一人、一皿ずつ(二人共、同じ物(ほうとう(houtou))を食べました。写真は、一人分)。この、ほうとう(houtou)食堂の、ほうとう(houtou)は、美味しいです。
昼食を食べた後は、この日は、夕方から、仕事の用事があった為、早目に、東京都心部に帰って来ました。
以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。