4月の第一金曜日(以下、この日と書きます。この日は、私も彼女も、個人的に休みでした)、前日に我が家に泊まった彼女と(ちなみに、前日の夕食は、彼女と、私の街の飲食店で食べました)、夜更かしをし、朝寝坊をし、遅い朝食兼昼食(内容は、普段の朝食(パン、シリアル(cereal)、野菜サラダ(salad)、3種類程の果物、牛乳、ジュース(juice)、ヨーグルト(yogurt)と同じでした)を食べた後、上野(ueno)areaに遊びに行って来た時の物です。
上野(ueno)area(東京都心部の北東部に位置する)は、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)、最大級の繁華街となっています。
上野(ueno)には、上野(ueno)公園があります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。
現在(4月13日から10月13日まで)、大阪では、万国博覧会(Universal Exposition)、大阪万国博覧会2025(Expo 2025)が開催されています。
日本では、大阪万国博覧会(Expo
‘70)(1970年に、日本(及び、アジア)で最初に開催された万国博覧会(Universal
Exposition))、沖縄(okinawa)海洋国際博覧会(Expo
‘75)(1975年に、沖縄(okinawa)で開催された)、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo
‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)、大阪国際花と緑の博覧会(Expo
‘90)(1990年に、大阪で開催された)、愛知(aichi)万国博覧会(Expo
2005)(2005年に、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本第三の都市圏人口を有する都市)の郊外・近郊で開催された)、大阪万国博覧会2025(Expo
2025)(現在開催中)と、現在まで、合計6回、万国博覧会(Universal Exposition)が開催されています。
参考に、以下、「」内。私の前の投稿文より。。。
「私は、女性に、結構合わせているようでいて、その一方において、実は、女性に結構、自分の趣味に付き合って貰って来てもいます。今の彼女も含み、相手の女性は、それはそれで、私色に染まって、私の影響を受けて、私と共に、楽しんで来てくれました(楽しんでくれてます)。ちなみに、私の今の彼女は、元々、好奇心が強い性格です。」
写真以下。この日は、まず、上野(ueno)areaにある、国立近現代建築資料館(日本の、国立の、(日本の)近代と現代の建築に関する資料館)で、3月8日から8月31日まで開催中の(途中、前期と後期の展示の入れ替え期間あり)、日本で開催された、万国博覧会(Universal
Exposition)の建築に関する展覧会(exhibition)。以下、この展覧会(exhibition)と書きます)の、この時、開催されていた(3月8日から5月25日まで開催されていた)、前期の展覧会(exhibition)を見て来ました。
この展覧会(exhibition)は、前期と後期に分かれており、後期(現在(6月14日から8月31日まで)、開催中)は、「人・自然・環境へ」と言うタイトル(題名)が付いた、沖縄(okinawa)海洋国際博覧会(Expo
‘75)(1975年に、沖縄(okinawa)で開催された)、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo
‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)、大阪国際花と緑の博覧会(Expo
‘90)(1990年に、大阪で開催された)、愛知(aichi)万国博覧会(Expo
2005)(2005年に、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本第三の都市圏人口を有する都市)の郊外・近郊で開催された)の、4つの、万国博覧会(Universal
Exposition)の建築に関する展覧会(exhibition)、この日、私達が見て来た、前期(3月8日から5月25日まで開催されていた)の展覧会(exhibition)は、「技術・デザイン(design)・芸術の融合」と言うタイトル(題名)が付いた、大阪万国博覧会(Expo
‘70)(1970年に、日本(及び、アジア)で最初に開催された万国博覧会(Universal
Exposition))の建築に関する展覧会(exhibition)です。
我が家(東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地に位置します)の最寄り駅から、国立近現代建築資料館(日本の、国立の、(日本の)近代と現代の建築に関する資料館)の最寄り駅の、地下鉄の、湯島(yushima)駅(上野(ueno)areaにある、地下鉄・電車駅の一つ)までは、時間は、ある程度かかるものの(23分程度かかる)、交通の便は、良く、乗換え無しの、地下鉄で、1本で行けます。
写真以下3枚。この展覧会(exhibition)の看板。
写真以下10枚。この日、見て来た、この展覧会(exhibition)の、前期の展示の、展示風景例、及び、展示物の例。
写真中央部分の展示は、前期と後期で変わらないのかもしれません。
1940年に、東京で、日本(及び、アジア)で、最初に、万国博覧会(Universal
Exposition)が開催される予定でしたが、戦争の影響で中止となり、結局、日本(及び、アジア)で、最初の、万国博覧会(Universal
Exposition)は、1970年に、大阪(東京に次ぐ、日本、第二の都市圏人口を有する都市)で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)を、待たなければなりませんでした。仮に、1940年に、東京で、万国博覧会(Universal
Exposition)が開催されていたならば、坂倉 準三(sakakura
jyunzo)(下の補足説明を参照)(1937年に、フランスの、パリ(Paris)で開催された、万国博覧会(World Expo)、The
Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie Moderneの、坂倉
準三(sakakura jyunzo)が設計した、日本館の建物は、この、万国博覧会(World
Expo)における、建築部門において、グランプリ(最高の賞・最優秀賞)を受賞しました)や、もしかしたら、既に、早くも、若手建築家として力をつけて来ていた丹下
健三(tange kenzo)(下の補足説明を参照)が、設計者として活躍したかもしれません。
坂倉 準三(sakakura
jyunzo):1901年生まれ。1969年に亡くなる。1930年代後半から亡くなるまで活躍した、日本の有名な現代建築家)は、他の、日本の第二次世界大戦後の復興期(1950年代から1960年代初期)の、現代建築界をリード(lead)した、日本の有名な建築家達と共に、日本の現代建築設計の水準を、世界最高水準に引き上げる為の基礎を、1950年代に、固めた建築家の一人です。
丹下
健三(tange
kenzo):日本の世界最高水準の建築家の一人。1950年代から、亡くなる近くまで活躍。日本人建築家の中で、初めて世界に名が知られた建築家であると共に、1960年代に、日本を、現代建築設計の分野において、世界最高水準の国の一つに、引き上げた人物として知られています。1913年に生れ、90歳以上生きて、2005年に、亡くなりました。
ちなみに、前述した、1940年に、東京で、開催される予定であった、日本(及び、アジア)で、最初の、万国博覧会(Universal
Exposition)の前売り券が、後述する、1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)で代替として使用できたため、大阪万国博覧会(Expo ‘70)において、約3000枚が、実際に使用されました(wikiより)。
大阪(東京に次ぐ、日本第二の人口を有する都市)で、1970年に開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)は、日本(及びアジア)で開かれた最初の万国博覧会(Universal Exposition)です。大阪万国博覧会(Expo
‘70)は、330万平方m(約100万坪)の敷地に、110以上(118)のパビリオン(展示館)が建ち並びました。私の過去の投稿で、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の敷地面積に関して、約860,000坪と書いていましたが、330万平方m(約100万坪)の間違えでした(過去の投稿、ある程度、訂正して置きましたが、訂正し切れていない投稿もあると思います)。
ちなみに、現在(4月13日から10月13日まで)、大阪で開催中の、万国博覧会(Universal
Exposition)、大阪万国博覧会2025(Expo
2025)(会場は、大阪の都心部の海沿い)の敷地面積は、155万平方m(約47万坪)で、1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)(会場は、大阪の都心部に近い、大阪の、北部郊外)の敷地面積の、半分以下となっています(ただし、現在(4月13日から10月13日まで)、大阪で開催中の、万国博覧会(Universal
Exposition)、大阪万国博覧会2025(Expo
2025)は、パビリオン(展示館)の数は、180以上と、1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)のパビリオン(展示館)の数(118)を上回っています)。
現在、大阪で開催中の、万国博覧会(Universal
Exposition)、大阪万国博覧会2025(Expo 2025)は、現在の日本は、1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の時と比べて、人々の娯楽及び娯楽施設が多様化し、娯楽施設も、たくさある事等から、万国博覧会(Universal
Exposition)の開催の、人々の、気運が高まらず(人々の、気持ちが盛り上がらず)、万国博覧会(Universal
Exposition)の開催前は、万国博覧会(Universal
Exposition)の開催前の、入場券の前売り券の販売状況等からしても、マスコミやSNSの間で、人気がないのではないか(入場者数は、少ないのではないか)と予想されていましたが、いざ、開催されてみたら(実際に開催されたら)、予想外に、とても人気で、とても多くの人々が訪れている様です(私も、正直に言って、ここまで、人気が出るとは(ここまで、たくさん人々が訪れるとは)、予想していませんでした)。
写真以下8枚。1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)に関する展示より。1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)のテーマは、「人類の進歩と調和」でした。
1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
1937年パリ万国博覧会日本館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3943863?&sfl=membername&stx=nnemon2
1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の、エキスポタワー(Expo Tower)。1970年完成。設計は、菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)(下の補足説明を参照)が行いました。高さ127m。展望台の付いた塔で、岡本 太郎(okamoto
tarou)(1911年生まれ。1996年に亡くなる。1930年代から1990年代半ば(主として1950年代から1980年代)に活躍した、日本の有名な現代美術artist)がデザイン(design)した「太陽の塔」と共に、大阪万国博覧会(Expo
‘70)のシンボル(象徴)的な建物として建てられました。
菊竹 清訓(kikutake
kiyonori):1928年生まれ。2011年に亡くなる。日本の有名な建築家。菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)設計事務所から、伊東 豊雄(ito
toyo。1941年生まれ。日本の世界的に有名な建築家)を始めとする多くの著名な建築家を輩出。ちなみに、現在活躍中の世界の建築家の中で、最高classに有るSANAA(妹島
和世(sejima kazuyo。1956年生まれの日本の女性建築家)&西沢 立衛(nishizawa
ryue。1966年生まれの日本の建築家))は、(菊竹 清訓(kikutake kiyonori)設計事務所出身である)伊東 豊雄(ito
toyo)の、建築設計事務所の出身です。
菊竹 清訓(kikutake kiyonori)及び、エキスポタワー(Expo Tower)に関しては、上でもリンクを付けましたが、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
1937年パリ万国博覧会日本館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3943863?&sfl=membername&stx=nnemon2
岡本 太郎(okamoto tarou)、及び、「太陽の塔」に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
鯉のぼり(日本の伝統的な風習)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3532447/page/60?&sfl=membername&stx=nnemon2
1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の、パビリオン(展示館)の一つで、電気事業連合会(1952年設立。日本全国の、10の(1970年当時は、沖縄(okinawa)電力が加盟していなかった為、9の)、大規模な、電気会社(電力会社)による、事業者組合)の展示館の、電力館。建物の、設計は、坂倉 準三(sakakura jyunzo)の建築・設計事務所が行いました。
以下、「」内。電力館の建物の解説(説明)は、基本的に、この展覧会(exhibition)の展示の解説(説明)より。。。電力館の建物は、高さ約40m、4本柱の、つり構造の、主な建物と、(主な建物に隣接する)水上劇場の、二つの建物から構成されていました。
「電力館は、35m四方に建てられた4本の鋼鉄柱から、直径22mの空中劇場と直径30mの展示場を吊り下げている。
空中劇場の、ファザード(外観)に張り巡らされた鏡面には、刻一刻と変化する空の色と共に、屋根のトラスや4本の鋼鉄管と言った幾何学的な構造物が、湾曲して映り込む。
日が傾くと、電力館の天井に整列した電灯が明かりを灯し、くっきりと現れる明暗差は、万物の立体感を強調させ、宙に浮く、金属的な円筒と、空気の層で覆われた、水上劇場、隣り合う両者の造形の対比を、より強く印象づけていた。」
住友(sumitomo)財閥(第二次世界大戦後に、連合国総司令部(GHQ)の政策により、日本全国の財閥が解体された事に伴い解体)は、大阪(東京に次ぐ、日本第二の都市圏人口を有する都市。日本の商業の中心都市)に拠点を置く財閥であり、第二次世界大戦前の、日本の三大財閥又は四大財閥の一つです。住友(sumitomo)財閥の歴史は、17世紀以前に遡り(源流企業は、1590年創業)、Rothschild財閥等を超える、世界最古の財閥とも呼ばれています(wikiより)。ちなみに、1910年に、住友(sumitomo)家(住友(sumitomo)財閥の当主家)の邸宅で、住友(sumitomo)家の、美術品・工芸品のコレクション(collection)を見学した、ドイツ人の、女性、東洋美術研究家のフリーダ・フィッシャー(Frieda Fischer-Wieruszowski)は、「世界中の大富豪が束になったとしても、住友(sumitomo)コレクション(collection)を凌駕することは到底無理だろう」 と圧倒された様子を綴っています(wikiより)。
住友(sumitomo)グループは、日本の、かつての、住友(sumitomo)財閥系の、企業のグループです。
1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の、パビリオン(展示館)の一つで、住友(sumitomo)グループの展示館である、住友(sumitomo)童話館の建物。設計は、大谷 幸夫(ootani sachio)(1924年生まれ。2013年に亡くなる。1960年代から活躍していた、日本の、建築家・都市計画家)が行いました。
以下、「」内。住友(sumitomo)童話館の建物の解説(説明)は、基本的に、この展覧会(exhibition)の展示の解説(説明)より。。。
「住友(sumitomo)グループ46社、共同による、住友(sumitomo)童話館は、展示室や休憩室等の9つの要素が、球体のイメージとして表れ、大小の、それ等が、空中に浮かび上がり、地上は、広場として開放された、立体感と、近未来感に溢れる、パビリオン(展示館)であった。
直径13mから24mの、ドームは、それぞれ、柱3本を、立体的に組み合わせた、複合柱が3箇所で支えている。
観客は、広場から導入エスカレーター(escalator)で、透明ステーションの上の階に導かれ、3つのドームを回遊し、透明ステーションの下の階に戻る。続いて、階段で下りながら、4つドームを巡った。
透明ステーションと結合したエレベーター(elevator)と階段で昇る事が出来る展望台は、高さ60mあった他、地上には、扇型屋根の劇場と事務棟が設けられた。」
1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の、パビリオン(展示館)の一つで、日本鉄鋼連盟(鉄鋼業の総合的な調査・研究機関として1948年に設立された、日本の製鉄会社の組合)の展示館である、鉄鋼館の、当時、世界で最新、世界で最高の技術が結集された、音楽堂(観客に音楽を聴かせる施設)。
真鍋 博(manabe hiroshi)(下の補足説明を参照)の、1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)をテーマとした、絵本(子供向けの絵が多い本)(1970年)。
真鍋 博(manabe hiroshi):1932年生まれ。2000年に亡くなる。1950年代から活躍していた、日本の、イラストレーター(illustrator)。
適当に検索して出て来たsiteから、真鍋 博(manabe hiroshi)の作品例(ent・ryの「t」と「r」の間の、「・」を抜いて下さい)→
https://globalhead.hatenadiary.com/ent・ry/2020/11/12/115545
前述の通り、日本では、大阪万国博覧会(Expo
‘70)(1970年に、日本(及び、アジア)で最初に開催された万国博覧会(Universal
Exposition))、沖縄(okinawa)海洋国際博覧会(Expo
‘75)(1975年に、沖縄(okinawa)で開催された)、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo
‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)、大阪国際花と緑の博覧会(Expo
‘90)(1990年に、大阪で開催された)、愛知(aichi)万国博覧会(Expo
2005)(2005年に、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本第三の都市圏人口を有する都市)の郊外・近郊で開催された)、大阪万国博覧会2025(Expo
2025)(現在開催中)と、現在まで、合計6回、万国博覧会(Universal Exposition)が開催されています。
ちなみに、1975年に、沖縄(okinawa)海洋国際博覧会(Expo
‘75)が開催された、沖縄(okinawa)は、日本最南端に位置する県で、日本の南部に位置する島、沖縄(okinawa)本島(hontou)を中心とした県です。沖縄(okinawa)県は、1879年まで、琉球(ryukyu)王国と言う独立国だった為、日本の中で、かなり個性的な文化を有する地域となっています。また、沖縄(okinawa)県は、第二次世界大戦の日本の敗戦に伴い、1945年から、1972年に日本に返還されるまで、アメリカの統治下に置かれていました。
以下、「」内。基本的に、前に行った投稿から抜粋して来た物です。
「私は、子供の頃、それぞれ、父と、血の繋がっていない親戚のおじさん(私の母方の又従兄弟の、お父さん。私の母の、私の母と同年代の女性の、いとこの夫)に連れられて(母は、一緒に行った記憶が無いけど、興味が無かったのかなw)、2回、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo
‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)を見に行きました。
ちなみに、私の父と母は、結婚前、二人で、大阪万国博覧会(Expo ‘70)(1970年に、日本(及び、アジア)で最初に開催された万国博覧会(Universal Exposition))を見に行ったそうです。」
筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo ‘85)、とても楽しかった記憶があります。
以下、参考の投稿。
007は二度死ぬテーマ曲/Le Samouraïテーマ曲他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3741217?&sfl=membername&stx=nnemon2
タイムトラベル旅行Expo ‘70/マッハGoGoGoのテーマ他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3741216?&sfl=membername&stx=nnemon2
タイムトラベル旅行Expo ‘85/Dragon Ballのテーマ他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3741212?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真以下8枚。この展覧会(exhibition)の、パンフレット(leaflet)より。。。
写真以下6枚。大阪万国博覧会(Expo
‘70)、沖縄(okinawa)海洋国際博覧会(Expo ‘75)、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo
‘85)、大阪国際花と緑の博覧会(Expo ‘90)、愛知(aichi)万国博覧会(Expo 2005)の、同一の縮尺による、敷地図。
左から、大阪万国博覧会(Expo ‘70)(1970年に、日本(及び、アジア)で最初に開催された万国博覧会(Universal Exposition))、沖縄(okinawa)海洋国際博覧会(Expo ‘75)(1975年に、沖縄(okinawa)で開催された)、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo ‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)、大阪国際花と緑の博覧会(Expo ‘90)(1990年に、大阪で開催された)、愛知(aichi)万国博覧会(Expo 2005)(2005年に、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本第三の都市圏人口を有する都市)の郊外・近郊で開催された)(写真右上端も、愛知(aichi)万国博覧会(Expo 2005)の敷地の一つです)。
私が、子供の頃だったからかもしれませんが、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo ‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)の敷地は、とても広く感じたのですが、比較してみると、大阪万国博覧会(Expo ‘70)(1970年に、日本(及び、アジア)で最初に開催された万国博覧会(Universal Exposition))と比べると、敷地は、かなり小さいですね。
左から、大阪万国博覧会(Expo ‘70)(1970年に、日本(及び、アジア)で最初に開催された万国博覧会(Universal
Exposition))、沖縄(okinawa)海洋国際博覧会(Expo
‘75)(1975年に、沖縄(okinawa)で開催された)、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo
‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)。
写真左上、沖縄(okinawa)海洋国際博覧会(Expo
‘75)(1975年に、沖縄(okinawa)で開催された)。写真下側の中央、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo
‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)。写真右上、大阪国際花と緑の博覧会(Expo
‘90)(1990年に、大阪で開催された)。
左から、筑波(tsukuba)国際科学技術博覧会(Expo
‘85)(1985年に、東京圏の北東部に位置する中都市(中規模程度の人口を有する都市)、筑波(tsukuba)で開催された)、大阪国際花と緑の博覧会(Expo
‘90)(1990年に、大阪で開催された)、愛知(aichi)万国博覧会(Expo
2005)(2005年に、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本第三の都市圏人口を有する都市)の郊外・近郊で開催された)(写真右上端も、愛知(aichi)万国博覧会(Expo
2005)の敷地の一つです)。
おまけ。国立近現代建築資料館から見た、(国立近現代建築資料館に隣接する(国立近現代建築資料館の敷地と繋がっている))旧岩崎(iwasaki)庭園。手前、極一部(とても一部だけ)残っている(現存している)、かつての日本伝統式の邸宅の建物。奥、かつての西洋式の邸宅の建物。
以下、前に行った投稿から抜粋して来た、旧岩崎(iwasaki)庭園に関する説明です。
岩崎(iwasaki)家は、日本最大級の財閥の一つであった、三菱(mitsubishi)財閥(近代の日本で最大級の財閥(近代日本の、三大財閥又は四大財閥)の一つ。現在の、三菱(mitsubishi)group(日本最大級の企業グループ(conglomerate)の内の一つ))のオーナー(owner)であり、貴族(男爵)でもあった、資本家の家です。
岩崎(iwasaki)家は、別荘を、たくさん保有していた様です。
東京中心部にも、元(かつて)、岩崎(iwasaki)家の邸宅、別荘(別邸)であった場所が、かなりあり、岩崎(iwasaki)家は、第二次世界大戦前は、たくさんの、とても広い敷地の邸宅・別荘を保有していた様です。岩崎(iwasaki)家は、元々、侍(samurai)の家柄ではあったが、侍(samurai)の中でも、身分の非常に低い家柄であった為?、いくら財産を築いても、近代貴族としては、男爵(最も、身分の低い爵位。日本の近代貴族の爵位は、身分が高い順に、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)止まりでしたが、おそらく、第二次世界大戦前において、日本で、最も富裕な家族の一つであったでしょう。
ちなみに、第2次世界大戦後、貴族、資本家、地主等の日本の上流階級は、貴族制度の廃止、財閥の解体、地主や広い土地を持っている者に、従来よりも不利益となる制度改革等により、かなりの土地と財産を処分せざるを得なくなり、(以前の様に贅沢な暮らしが出来なくなり)、没落しました。
江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家(東京を拠点に、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治していた家)の政策により、日本全国の地方領主達は、1年ごとに、それぞれの拠点としていた地方・地域の地元の城(castle)と東京に、交互に暮らさなければならなかった為、それぞれ、東京に、複数の別邸(別荘)を所有していました。
旧岩崎(iwasaki)庭園は、岩崎(iwasaki)家が、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において榊原(sakakibara)家(現在の新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)の西南部地域を統治していた地方領主の家)の東京の別邸(別荘)の一つの敷地であった土地を手に入れ、1896年に造った、岩崎(iwasaki)家の、東京の、メイン(main)の邸宅の跡です。現在は、日本の国の所有となり、近代の(19世紀後期から1930年代の)、日本の上流階級の邸宅の面影と雰囲気を残す建物と土地の一つとして文化財として保存すると共に、一般に公開しています。
岩崎(iwasaki)家の、東京の、メイン(main)の邸宅であった時は、約15,000坪(約50,000平方m)の敷地に、20棟(20個)の建物があり、庭には、テニスコート(tennis
courts)や日本伝統式の茶室(tea house)、厩舎(馬小屋・horse
stable)、蘭の温室(greenhouse)等がありましたが、現在は(旧岩崎(iwasaki)庭園は)、敷地面積は、当時の、3分の1強の、約18,000平方m(約5,500坪)となり(見た感じ、敷地面積は、5,000坪位かなと思っていたら、概ね、当たっていました)、建物も、(当時は、主に、客の接待・パーティー(party)・一年に一度の岩崎(iwasaki)家の一族(家族・親族)の集まり等に使用されていた)西洋式の邸宅の建物と、ビリヤード(billiard)場の建物、岩崎(iwasaki)家の家族が普段暮らしていた日本伝統式の邸宅の建物(西洋式の邸宅の建物よりも、遥かに(ずっと)、規模が、大きかった)の極一部(とても一部)の、3つの建物(当時のまま残っているのは、西洋式の邸宅の建物とビリヤード(billiard)場の建物のみ)しか残っていません。
以上、前に行った投稿から抜粋して来た、旧岩崎(iwasaki)庭園に関する説明でした。
旧岩崎(iwasaki)庭園に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
旧岩崎東京本邸他前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3784953/page/35?&sfl=membername&stx=nnemon2
旧岩崎東京本邸他後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3784952/page/35?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、後から追加した内容です。
この展覧会(exhibition)の後期の展覧会(exhibition)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
国立建築資料館 Expo展後期他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3958682?&sfl=membername&stx=nnemon2
以上、後から追加した内容でした。
以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
上野公園桜2025他前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3943902?&sfl=membername&stx=nnemon2