吉永 小百合(yoshinaga sayuri。1945年生まれ)は、1950年代後期頃から活躍している、日本の女優で、日本を、代表する女優の一人です。吉永 小百合(yoshinaga sayuri)は、若い頃は、(おそらく)、国民の妹的な、人気を博していました。ちなみに、吉永 小百合(yoshinaga sayuri)は、私の街(渋谷(shibuya)区(東京都心部の西部に位置する区)の中北部)出身です。
写真以下2枚。写真は、適当に、借り物。若い頃(まだ、少女、又は、少女の雰囲気が残る頃?)の、吉永 小百合(yoshinaga sayuri)。


吉永 小百合(yoshinaga sayuri)は、本業は、女優(映画女優)なので、歌は、(かなり)下手ですがw、曲も出しています。動画は、you tubeから借りて来た物で、吉永 小百合(yoshinaga sayuri)-「いつでも夢を」(1962年)の、当時(1962年頃の?)の、生演奏。おそらく、当時(1962年頃の?)の、日本の、テレビ番組より。。。橋 幸夫(hashi yukio)(下の補足説明参照)との、デュエット(duet)曲です。当時、おそらく、吉永 小百合(yoshinaga sayuri)は、国民の妹的な、人気がありました。当時(1960年代初め頃は)、日本では、既に、庶民の家庭にも、テレビが普及していましたが、おそらく、映画の全盛期も、まだ続いていました。
橋 幸夫(hashi yukio):1943年生まれ。1960年に、デビュー(debut)。1960年代に、すっきりとした(さっぱりとした)、顔立ち(顔)で?、若い女性達に、人気があった、日本の、アイドル(idol)歌手。現在も歌手として活動を行っている。
以下、おまけ。
比較的、最近(今年の、9月15日)、原 節子(hara setsuko)が、95歳で亡くなりました。ご冥福をお祈りします。原 節子(hara setsuko)(1920年生まれ)は、1930年代中期から1960年代初め頃にかけて活躍していた、日本の女優です(原 節子(hara setsuko)は、特に、1940年代後期から1950年代にかけて、日本を、代表する女優の一人として活躍し、日本映画の、黄金期を代表する女優の一人となっています)。原 節子(hara setsuko)は、(それ以降、年老いて行く姿を、見せたくなかったのか)、理由は、よく分かりませが、1963年(40代の前半で)、女優を引退し、それ以降、表舞台(芸能界)からは、完全に姿を消しました。ちなみに、小津 安二郎(ozu yasujiro)(後で説明します)が亡くなったのは、1963年ですが、小津 安二郎(ozu yasujiro)の死と、原 節子(hara setsuko)の引退は、何等かの関係があるのか、無いのかは、謎となっています。原 節子(hara setsuko)は、引退以降、最近(今年の、9月15日に)、95歳で亡くなるまでの、多くの時期を、鎌倉(kamakura)(下の補足説明参照)の、静かで、落ち着いた住宅地にある家で、ひっそりと暮らしていた様です(ちなみに、原 節子(hara setsuko)は、維持費もかかるし、もう不要と考えたのか、1994年に、狛江(komae)市(東京都心部に近い、東京の西部郊外)の、かつての、主な自宅(主な自分の家)(敷地面積、約2,900平方m(約900坪))を、売却しています。もう一つ、ちなみに、原 節子(hara setsuko)は、生涯、独身でした)。
鎌倉(kamakura):鎌倉(kamakura)(東京の南部近郊に位置する)は、中世(1185年から1333年まで)に、日本の政治の中心地であった中都市であり、中世以来の歴史を有する、寺や神社(shrine)が、数多くあります(ただし、鎌倉(kamakura)の寺や神社(shrine)の、現在の建物については、(極一部の例外を除き)中世よりも後の時代に、火事等の焼失により、再建された物であったり、時代に合わせて、建て替えられている物です)。その為、鎌倉(kamakura)は、東京近郊の主要な観光地の一つとなっています。鎌倉(kamakura)は、(中世には、日本の政治の中心地でしたが)、15世紀半ば以降、衰退し、一時期、基本的に衰退した状態に有りましたが、19世紀頃から、徐々に観光地として発展し始め、また、19世紀後期以降、東京に近い、近代別荘地・保養地として発展し、再興しました(wikiを参考にしました)。鎌倉(kamakura)は、19世紀後期以降、作家や詩人等、多くの文学者が、好んで、居住し、若しくは、別荘を構えて来ました。また、鎌倉(kamakura)は、1920年代、1930年代頃から、横浜や東京に通勤する、大学教授や高学歴(大学卒)会社員等の、インテリ(知識人)中流層・中上流層が暮らす、郊外住宅地として発展して行きました。鎌倉(kamakura)は、現在も、小説家や、画家、文系の大学教授等、文化人達に好まれ、鎌倉(kamakura)及び、その周辺には、こうした人々が、多く暮らしているイメージが有ります。
私は、原 節子(hara setsuko)は、特に、ファン(fan)と言う訳でもなんでもないのですが(べつに、ファン(fan)と言う訳ではないのですが)、私は、個人的に、小津 安二郎(ozu yasujiro)(下の補足説明参照)の映画が好きで、原 節子(hara setsuko)は、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画に、比較的、多く出演している事から、原 節子(hara setsuko)は、映像を通じてw、比較的、馴染みのある女優です。
小津 安二郎(ozu yasujiro):1903年生まれ。1963年に亡くなる。1920年代後半から、1960年代初めに活躍。日本の世界的に有名な映画監督の一人。

小津 安二郎(ozu yasujiro)(日本の世界的に有名な映画監督の一人)。1933年。写真は、借り物。原 節子(hara setsuko)は、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画に、比較的、多く出演しています。
写真以下8枚。原 節子(hara setsuko)。写真は、適当に、借り物。
写真以下3枚は、1935年頃。原 節子(hara setsuko)は、当時、14歳から15歳位。








以下、動画は、全て、you tubeから借りて来た物。原 節子(hara setsuko)。原 節子(hara setsuko)は、とても美人ですが、(10代の頃は除いて)、女優としては、顔は、大きいですねw(一般的に、舞台(演劇)、俳優・女優は、顔が大きい方が良いと考えられていると思いますが、映画・TVドラマ、俳優・女優は、顔が小さい方が良いと考えられていると思います。ちなみに、原 節子(hara setsuko)は、(主に)映画女優です)。原 節子(hara setsuko)は、身長は、165cmであった様ですが、現在の、身長165cmの、日本の女優は、もっと、顔が小さいと思います。
1947年の、日本の映画、「安城家の舞踏會(安城(anjyou)家の舞踏会)」より。。。第二次世界大戦後の、日本の上流階級の没落を描いた映画です。原 節子(hara setsuko)は、没落して行く上流階級の家の娘の役。なお、この動画の俳優は、滝沢 修(takizawa osamu)(1906年生まれ。2000年に亡くなる。1920年代中期から、亡くなる近くまで活躍していた、日本の俳優)。没落して行く上流階級の当主(原 節子(hara setsuko)が演じる、没落して行く上流階級の家の娘の父親)の役。
以下2つの動画は、小津 安二郎(ozu yasujiro)監督の映画で、「晩春(Late Spring)」(1949年の、日本の映画)より。。。父と娘の親子関係を描いた映画です。「晩春(Late Spring)」は、個人的に、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画の中で、一番好きな映画です。娘の役が、原 節子(hara setsuko)、父の役が、笠 智衆(ryu chisyu)(1904年生まれ。1993年に亡くなる。1930年代中期頃から、亡くなる近くまで活躍していた、日本の、有名な俳優。笠 智衆(ryu chisyu)は、小津 安二郎(ozu yasujiro)の、お気に入りの俳優でした)。
この動画の、冒頭に出てくる、北鎌倉(北kamakura)駅(鎌倉(kamakura)にある電車駅の一つ)及び、その周囲の風景は、この映像の当時(1940年代の終わり)と、現在とで、ほとんど変わっていません。