
元親は四国統一できず!?
長宗我部氏、実は四国を平定できていなかった!? 土佐の戦国大名・長宗我部元親の四国統一を疑問視する声が、研究者の間で大きくなっている。「阿波や讃岐、伊予に降伏していない勢力があった」とする非統一説が台頭。
南国市の県立歴史民俗資料館も、既に「四国統一」表記を後退させた。逆に、伊予の戦国大名・河野氏に関して降伏説を後押しするような新資料が見つかり、長宗我部氏をめぐる議論が熱を帯び始めている。
高知新聞 http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=260292&nwIW=1&nwVt=knd
長宗我部による四国統一について
秀吉による四国攻めが始まる以前、長宗我部元親が四国統一を達成していたかについては、統一は完成していたとするのが通説である。 しかしながら統一は完成していないとする研究者も複数おり、見解は分かれている。
統 一されていたとする説
統一完成説の代表は山本大で、その著書『長宗我部元親』において、天正13年(1585年) 春に伊予河野氏を降伏させて四国統一が成ったとしている。 完成説によるその経過は次の通り。
天正10年(1582年)8月、中富川の戦いの勝利によって長宗我部氏は阿波を平定した。同年讃岐に侵攻し、天正12年(1584年)6月には十河城・虎丸城を陥落させて讃岐を平定した。十河存保は秀吉を頼って上方へ逃れた。天正13年(1585年)春、湯築城の河野通直を降して伊予を平定した。河野氏の降伏によって長宗我部元親による四国統一が完成した。
統 一されていないとする説
大きく分けて2つの論点がある。
阿波・讃岐の未制圧津野倫明の説によると、天正12年(1584年)6月に讃岐で落城した のは十河城のみであり、十河存保は虎丸城でその後も抗戦を続けた。また森村春の阿波土佐泊城は、中富川の戦い以後も落城することはなかった。従って長宗我部氏は阿波・讃岐を完全には制圧できなかった としている。 また山本浩樹も津野の説を支持し、秀吉は海路を通じて両城への補給を続け、これによって両城は持ちこたえたと推測している。伊予の未制圧山内譲・内田九州男は河野氏の地盤である中予は攻略できず、統一は完成していないとする立場を取る。 また山本浩樹も、長宗我部氏と河野・毛利氏の抗争は郡内表(喜多郡、現大洲市周辺)を中心とし、河野氏の本拠である道後地方に長宗我部方が攻め込むことはなかったとしている。清良記によれば、土居清良の領土である南予の三間では、長宗我部氏の南予侵攻をことごとく撃退したと記述されている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81#.E5.9B.9B.E5.9B.BD.E7.B5.B1.E4.B8.80.E3.81.AF.E5.AE.8C.E6.88.90.E3.81.97.E3.81.9F.E3.81.8B人気戦国大名の勝率
1位 毛利元就 8割
2位 長宗我部元親 8割弱
3位 豊臣秀吉 7割5分
4位 島津義弘 7割5分弱
5位 上杉謙信 7割
5位 織田信長 7割
7位 徳川家康 6割5分
8位 伊達政宗 6割
9位 武田信玄 6割
10位 北条氏康 5割
領土拡張率ランキング(ver.03)
家督相続年 相続時勢力圏 最大勢力圏 勢力拡大率
1織田信長 1551年 4万石 800万石 200倍
2毛利元就 1523年 2万石 180万石 90倍
3長宗我部元親 1560年 2万石 80万石 40倍
4三好長慶 1532年? 10万石 200万石 20倍
5島津義久 1566年 15万石 180万石 12倍
6尼子経久 1478年 10万石 70万石 7倍
7北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
8武田信玄 1541年 26万石 90万石 3倍
9上杉謙信 1548年 45万石 90万石 2倍
10伊達政宗 1584年 45万石 80万石 2倍
http://2r.ldblog.jp/archives/2852451.html