世界三大記念艦と呼ばれる艦がある。
英国ポーツマスの「ビクトリー号」と、米国ボストンの 「コンスティチューション号」と日本の「三笠」である。
また、世界三大海軍建設の父と呼ばれる人物がいる。
米国のセオドア・ルーズベルト大統領とドイツのティルピッツと日本の山本権兵衛である。
セオドア・ルーズベルト大統領は実はアメリカ人初の柔道茶帯を取得した親日家であり、東郷平八郎が読み上げた連合艦隊の解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。
また、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとの逸話もあるほどだ。
しかし、日露戦争後は、次第に日本の台頭に対して警戒心を感じるようになり、やがて贔屓も薄れて“反日”色に染まっていく。
こうして、大白色艦隊・Great White Fleetの世界一周で力を誇示、日本寄港で対日威圧を行い、さらに排日移民法の端緒も彼の時代に作られたのであった。
写真に兵士を見降ろすルーズベルトの姿が見られる。↓

日露戦争に於ける日本の大勝利は世界の海軍に大きな衝撃を与える。
特にアメリカは日本を仮想敵国とみなすようになり大白色艦隊が世界一周航海を始めると、アメリカやヨーロッパ諸国での世論は日本とアメリカの戦争が間近であると騒ぎ立てたのである。
駐フランス大使の栗野慎一郎は「フランスの新聞は日米戦争不可避と書き、日本の外債は暴落した」と伝える。
また駐スペイン公使の稲垣満次郎は「スペインの貴族や資本家から軍資金の提供の申し出があった」と伝えてきていた。
これはスペインが米西戦争で敗れ、恨みを残しているためである。
またアメリカの新聞も右派系を中心として連日に渡り、日本との戦争不可避と伝えたのである。
動員された水兵の数は、14,000人にのぼり月日は14ヶ月に及んだ。その間、世界中の20の港に立ち寄った。

しかし日本の世論はいたって友好的な楽しいものだった。
1908年(明治41年)10月に入り横浜への入港が迫ると連日歓迎・友好の記事で日本の新聞が賑わう。アメリカ艦隊はその姿から、幕末の黒船との対比として白船と呼ばれるようになった。10月18日、横浜港に入港すると興奮は最高潮に達する。 艦隊を率いた将校は連日に渡る園遊会、晩餐会に招待された。また水兵3,000人の日帰り上陸が許可され、浅草・上野などの観光を楽しんだのである。
ここに並ぶ女性たちは、大白色艦隊の来航に先立ち、親善のため民間の船で来日した、艦隊の艦長や将校の夫人・令嬢である。
この写真は、明治41年9月26日、東京の三越呉服店で撮影したもの。
この日一行は朝8時40分横浜発の汽車に乗り、9時27分に新橋到着。三越からの迎えの馬車6台に分乗して店に向かった。
茶菓の接待の後、着物に着替えての写真撮影。
翌日の新聞各紙や雑誌『風俗画報』の米艦隊歓迎特集号にも掲載された。
一方で英国との関係は良好であった。
日露戦争でのヴィッカース製「三笠mikasa」の大活躍は英国製戦艦の威信を大いに高めその宣伝効果は計り知れないものであった。
日本が特別発注した戦艦「金剛kongou」の建造にもヴィッカース社は全面的に協力することになる。図面の引き渡しとともに技術指導が契約の条件となり、日本側から造船、造機、砲熕関係の関係者を招いて最新の建艦術を伝授したのであった。
こうして、日本は金剛級戦艦「比叡」「榛名」「霧島」を自力で建造できるまでの設備と技術を手にすることになる。
ジョージ5世とも仲が良かったのだ♪ ↓

「金剛」は英国ヤーロー社の水管式ボイラーを搭載。
艦艇用の蒸気ボイラーの難しいところは、商船に比べて頻繁に速力の変更を行うため、必要とされる蒸気の量の変動が大きいことだ。
蒸気の消費量に給水が追い付かなければ蒸気ドラム内の水位が下がり、更に水位が下がって蒸発管内の水も無くなれば蒸発管を焼損することになる。
逆に給水が多過ぎれば水位が上昇し、蒸気管内に水が流れ込むようなことになればドラムが破裂する。
3胴式ドラムで下段の水ドラム・2と上段の蒸気ドラム・1が外観からも判別できる。
竣工時は何と36基も装備していたのだ。
凄いぜ!
やがて日英関係も冷え切り、米国との対立は決定的となる。
1941年後にはセオドア・ルーズベルト大統領の従兄弟のフランクリン・ルーズベルト大統領が対日戦を布告することになる。
写真は戦艦「コロラド」。電気モーターでタービンを回す画期的な戦艦。
ギヤード・タービン方式とモーター方式の登場で推進効率は大いに高まったのである。