元慰安婦と名乗るイ・ヨンスが慰安婦として連れて行かれたという1944年10月頃は新聞広告で慰安婦募集の新聞広告が出されている。
慰安婦という職業が戦地売春婦であることが一般に認知されていた事は明らかで、1945年ビルマにおいて米軍による韓国軍慰安婦20人への聞き取り調査で全員が前金を貰ってその返済の為に働いていた事が事実として残っている。
また台湾とインドネシアの慰安所の経営者が朝鮮人だった事も明らかになっている。
文玉珠は戦前の日本円で2万6千円の貯金を持っていたことが明らかになっている。
1992年5月22日の毎日新聞に、文玉珠の預金通帳についての記事が載っている。その通帳によれば、1943年6月から1945年9月の間に12回振り込みがあり、その預金残高は2万6145円に上っている。これは今の金額にすると一億円に相当する。
つまり真実は朝鮮人のブローカーが金儲けのために女性や女性の家族たちを騙したり、無理やり連れてきたことがあり、女性や家族たちがそのことを日本軍の関与があったと誤解している事が話をややこしくしているのではないか。
月収比較
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・慰安婦 1000円~2000円(アメリカ軍の調書)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・総理大臣 800円(東条英機)
・陸軍大将 550円
・曹長 32~75円
・軍曹 23~32円
・伍長 20円
・兵長 13,5円
・上等兵 10,5円
・一等兵 9円
・二等兵 9~6円
高給取りの慰安婦は流行最先端のファッションで兵隊さんの後を追う
文玉珠(ムン・オクジュ、문옥주)または(ムン・オクチュ)
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(通称韓国遺族会裁判)において従軍慰安婦として原告の一人であった。
、韓国挺身隊問題対策協議会の調査[1]による略歴を示す。
- 1924年:大邸生まれ。
- 1933年(9歳):独立運動をしていた父が死亡、家計が大変なので寺子屋や夜間学校で勉強。
- 1937年(13歳):面倒を見るという日本に住んでいる親戚の家に行くがこき使われたので6ヶ月で帰り、スリッパ工場で時折働く。
- 1940年(満16歳):友人の家に行った帰りに軍服を着た日本人に腕をつかまれ憲兵隊らしきところへ連れてゆかれる。
- 翌日民間人の男に引き渡され汽車に2日乗って中国東北部の逃安城でおり、トラックで慰安所に運ばれた。文原ナミコと名前をつける。主計将校に料理を作るなど気に入られようと努力する。
- 1941年9月(1年後):主計将校が外で所帯を持とうと言ったのを利用して証明書を貰い朝鮮へ帰る。
- 1942年7月(18歳):友人の金がもうかる食堂があるという誘いに乗って「ダメにされた体だから」と思い金を稼ごうと釜山へ行く。朝鮮人経営者に連れられ船でビルマへ。トラックでマンダレーの慰安所へ。金を稼ぐためにきたから仕方がないが本当にたくさん軍人がきた。物品管理をしている男と親しくなる。文原ヨシコを名乗る。
- (7、8箇月後)アキヤブへ移動。船でプロムに移動、経営者がいなくなり軍人が直接管理。
- (4、5箇月後)更にラングーンへ、荒れた軍人が多く殺されそうになる。「一度は酒に酔った軍人が出てきて刀を抜いて殺そうとしました。『あんた達を慰安しようと来た私たちに対してそんな事できるの?』となだめましたが、彼は殺気をみなぎらせて私を殺そうとしました。そこで私は死ぬか生きるかの瀬戸際で彼に飛びかかりました。その瞬間びっくりした彼が刀を手放すと私はその刀を取り上げてとっさに胸を刺してしまいました。その軍人は血を流しながら車に載せられてゆき私は憲兵隊に呼び出されて軍事裁判を受けました。1週間後に釈放されましたがまた軍人達の相手をさせられました」
- (3、4箇月後)タイへ移動。1箇月後、アユタヤへ。3、4箇月の間、負傷兵の看護をして終戦を迎える。
- 終戦後、タイの収容所へ。親しくなった男は日本へ誘ったが、朝鮮へ帰国。
- 1996年10月:72歳で死去。