アメリカからの移民が、敗戦後も日本を非難する出来事。
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真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英語:Attack on Pearl Harbor)
日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾[1]にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃および潜航艇による攻撃である。
当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、
マレー作戦に次いで開始された作戦である。
戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失した。
世界史的には、マレー作戦と本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。
・・・ハワイはアメリカの植民地です。宗主国がたびたび変わる中、アメリカは日本と違ってハワイを無理やり併合して、アメリカの州にしました。
自分たちが現地人から奪った土地を、さらに日本人に奪われそうになって怒り狂い、攻撃を受けて戦艦を沈められたことで世界戦争に参加しました。
ハワイ先史時代
ハワイ諸島へ人類が移民してきたのは、4世紀から8世紀頃(史料が乏しくはっきりわかってはいない)[7]で、南方のテ・ヘヌア・エナナ(マルケサス諸島)からと考えられている。この際に使用されたと考えられているのが、双胴の航海カヌーと、スター・ナヴィゲーションと呼ばれるリモート・オセアニア海域で広く用いられた航法技術である。ちなみにハワイへの移民がテ・ヘヌア・エナナから行われたとの説はビショップ博物館所属の日本人研究者、篠遠喜彦博士の釣り針編年研究が基礎となっている[8]。
ハワイ王国時代
- 1778年:イギリス人キャプテン・クックが来航したのをきっかけに白人との接触が始まる。
- 1794年:当時欧州でサンドイッチ諸島とよばれていたハワイに外国人が約400人、内3-40人が中国系であった[9]。
- 1795年:カメハメハ1世(大王)が白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一、ハワイ王国を建国する。
- 1802年:中国人が王から許可を得て砂糖きび栽培に着手[10]。
- 1820年:カメハメハ2世の治下多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。またアメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪がはじまる。
- 現在もハワイの女性の正装であるムームーは、上半身裸が普通であった往時のハワイの女性が、キリスト教的に"淫ら"だとして、宣教師が普及させたものと言われている。
- 1840年:憲法公布をして立憲君主制となる。
- 1843年:イギリスがハワイの領有を宣言。
- 1849年:フランスがハワイの領有を宣言。ハワイを巡る列強の抗争は激しくなる。
- 1850年:中国からの組織的な移民がはじまる。
- 1868年(明治元年):横浜から、日本人移民148名がハワイに移住した。これは貿易商ユージン・ヴァン・リードの斡旋による移民であった[11]。明治新政府はこれを公式に認めておらず、移民達はパスポートすら持っていない、いわば非合法状態であり、密出国というべきものであった。このときの移民はのちに「元年者」と呼ばれる。
- 1881年:カラカウア王が来日し、明治天皇と会見し、明治政府との間で正式に移民協定が結ばれる。また日本にとってハワイ王朝は、不平等条約改正を約した初の外国であった[12]。なおこの時、西欧諸国の政治的経済的侵略に危機感を抱いていた王は、カイウラニ王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王)との政略結婚によるハワイ王朝と天皇家との間の関係強化を画策したが、こちらはアメリカとの関係悪化を懸念する日本政府に断られた。
- 1882年:中国人排斥法がアメリカで成立。翌年には中国人移民の数を年間2400人に制限する法律が通過する。
- 1885年:初の官約移民が日本からハワイに渡る。
- 1886年:契約労働による中国人移民の流入はほぼ停止する[13]。
- 1891年:カラカウア王没後、リリウオカラニ女王が即位。
アメリカによる併合
「ハワイ併合」も参照
- 1893年:リリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立。女王はイオラニ宮殿に軟禁される。この時、日本は邦人保護を理由に東郷平八郎率いる軍艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した[14]。女王を支持する先住民らは涙を流して歓喜したといわれる[15]。
- また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。「臨時政府」はアメリカに併合を求めるが、就任直後のクリーブランド大統領は海外進出に消極的な政策を採っており、併合を渋る。結局、クリーブランドは大統領の任期中、ハワイを併合しなかった。
- 1894年7月4日:アメリカによる併合に時間が掛かると判断した臨時政府は、新憲法を発布しハワイ共和国を宣言した。大統領はサンフォード・ドール。彼は最初で最後の、ハワイ共和国大統領となった。
- 1895年1月16日:ハワイ人王政派が武装蜂起したが短期間で鎮圧、虐殺される。この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が逮捕・幽閉される。原住民の大虐殺の後、ハワイを完全に乗っ取る。
- 1895年1月22日:リリウオカラニ女王廃位(ハワイ王国滅亡)。
- 1898年:米西戦争でハワイの地政学的重要性を認識したアメリカ合衆国は[16]、ハワイ共和国を併合、ハワイ準州(米自治領)となる。アメリカの大統領は、前任者と対照的に帝国主義政策を推し進めたウィリアム・マッキンリーである。以後ハワイはアメリカの太平洋支配の拠点となり、オアフ島のパールハーバー(真珠湾)に大海軍基地が建設された(現在もアメリカ海軍太平洋艦隊の基地がある)。
- 1920年:オアフ島第二次大ストライキ。日本人労働者もフィリピン人労働者と団結し、活躍した[17]。これはアメリカにおける日本脅威論形成の一要因になったともいわれる[18]。
- 1924年:排日移民法の施行により日本からの移民は不可能になった。これまでに移民した日本人の数は約21万人にのぼった[19]。
- 1941年12月7日(日本時間12月8日):に、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃が行われ、アメリカと日本との間で開戦した。
- 開戦後間もなくアメリカ全土に住む日系アメリカ人と日本人は強制収容所に収容されたが、ハワイに住む日系アメリカ人および日本人は、日本人会会長や僧侶など、日系人社会を代表する一部の人々を除き強制収容所に収容されなかった。これは当時、ハワイが正式な州でなかったこと、アメリカ本土から離れていること、そして何より、当時の人口の4割程度を占める日系人および日本人を強制収容すれば、ハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという事実が影響したようである。しかしこのとき計画的に日系人アメリカ化工作がすすめられた[20]。
- ハワイで生まれ育ち、合衆国の市民権を持つ日系アメリカ人の若者の多くは、自ら進んで志願兵となることで祖国に対する忠誠心を示そうとした。彼らハワイの日系人だけで組織された陸軍第100大隊は、後にアメリカ本土の日系人部隊と合流し442連隊となり、欧州戦線において多くの犠牲と引き換えに目覚ましい戦果を上げた。彼らの献身的で勇敢な戦いは多くのアメリカ人に深い感銘を与え、ハワイのみならず戦後のアメリカ社会における日系人の地位向上に大きく貢献した。
- なお、日本軍による上陸と占領を恐れ、戦時中を通じてハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われた。
- 1959年:アメリカ50番目の州に昇格し[21]、本格的なリゾート開発が始まる。