韓国人と日本人。最初に竹島(韓国名で独島)に渡航したのは誰でしょうか?
答え。日本人。
1618年に伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛らが幕府から許可を得て(当時は"松島MATUSIMA"と呼ばれていた)竹島に渡航。
19世紀ドイツの地図も「竹島は日本領」
2010/01/20 14:36産経新聞
竹島(島根県)と朝鮮半島の間に境界線を引き、日本領とした19世紀後期のドイツ製の地図が複数現存していることが20日、島根県竹島資料室の調べで分かった。
大阪大付属図書館ではこのうち最も古い1870年製の地図を所蔵。
これまでにも竹島を日本領とする19世紀の西洋製地図は見つかっているが、さらに複数の地図が確認されたことで、日本の領有権確立を補強するとともに、韓国側の主張への反論材料になるという。
竹島資料室によると、大阪大のほか、海外の大学や古書店などへの調査で印刷時期の違うドイツの「シュティーラー地図」の所蔵を確認。1870~1899年の間に作製された約10枚で、竹島が日本領とされていた。
竹島資料室では、これまでに島根県隠岐の島町の男性が所蔵する1872年のシュティーラー地図を確認。この地図上で、西洋名で書かれた竹島と朝鮮半島の間に境界線が引かれていた。
シュティーラー地図は、日清戦争後の1896年版では、台湾と中国大陸の間に境界線を引くなど、当時の国際情勢を反映。だが、現在は韓国領の鬱陵島を日本側に含むのは、日本人が同島に渡り活動していた影響とみられ、その経緯を詳しく検証する必要があるという。
世界で初めて竹島の領土主張をしたのは韓国人?それとも日本人?
答え。日本人。
安 龍福(あん りゅうふく、アン・ヨンボク、???、1657年? - 没年不詳)朝鮮国慶尚道東莱県釜山に住んでいた賎民。水軍経験?があるとされる漁夫。
・・・釜山の貧しい賎民だった漁師。
1693年(元禄6年)不法に鬱陵島へ渡り漁労していた時、この島を開発していた日本人に遭遇し日本へ連行される。・・・ウルルン島で日本人に捕まり、日本へ連行される。
安龍福はその後朝鮮へ送還されるが、これが発端となり鬱陵島の領有をめぐる日朝間の外交問題に発展した。竹島(ウルルン島)一件と呼ばれる。
ちなみに石島=独島=于山島のこと。
三年後に再び日本へ渡り、鬱陵島と于山島は朝鮮の領土だと訴える。
・・・干山島はウルルン島すぐ隣の、チュクドのこと。独島ではない。
しかし、帰国時朝鮮政府に捕らえられ、日本への不法渡航や直訴を起こしたとして流罪となる。・・・禁止されていたウルルン島に渡ったこと、騒ぎを起こした罪で、韓国政府に逮捕されて島流しにされる。
1904年9月29日 島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島(TAKESIMAの別名)領土編入並に貸下願」を提出。
1905年1月28日 本項で詳述されている島について、日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
1905年(明治38年)1月28日島根県隠岐郡隠岐の島町の竹島、島根県への編入を閣議決定。
1905年(明治38年)2月22日に島根県知事が所属所管を明らかにする告示を行った(明治38年島根県告示第40号)。
韓国はいつから竹島(旧名MATUSIMA)を占拠してるの?
答え。1953年。
戦時中に竹島を手に入れたと勘違いしている韓国人がいるそうですが・・・敗戦は1945年の8月。敗戦から7年後の1952年に、一方的な李ラインを突然宣言した韓国政府。
竹島周辺では、日本漁船に対する拿捕攻撃が続出したが、竹島はまだ日本の支配下にありました。
1953年(昭和28年)6月27日
島根県、海上保安庁共同で竹島を調査したときに発見した韓国人6名。
わが国領土に対する正規の入国手続きをしてない不法上陸として退去命令をし、領土標識(木柱)を建てる。
「日本島根県隠岐郡五箇村」と書かれた標識。
1953年7月12日
竹島に上陸した韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲する。
以後、60年ちかく日本政府の抗議にも関らず竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。
・・・つまり戦争でもない時期に無差別テロ行為を起こした韓国。これは明らかな国際法違反です。
日本の設置した古い標識をはずして英語表記の石碑を置く盗人。
1313年の外国の古地図(当時は松島MATUSIMAと呼ばれていた)竹島。


併合時代、竹島と呼ばれていたchukdo(jucdo)はウルルン島隣の竹嶼島で、現在のTAKESIMAとは別の島。
「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
于山島についての記述があった「日省録」の一部。
中央に「北有于山島周回為二三里許」(波線部分)とある(ソウル大学奎章閣のホームページから)
日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側が竹島の古い名称と主張する于山島が、現在の韓国・鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)であることを示す記述が、朝鮮時代の文献にあることが分かった。
島根県の竹島問題研究会が古地図を基に指摘する「于山島は竹島ではなく竹嶼」との主張が、文献で実証されたのは初めて。
文献は、一七六〇-一九一〇年の朝鮮王朝の国政全般を記した官撰(かんせん)の「日省録」。
韓国で竹島問題を研究する米国人ゲーリー・ビーバーズ氏(52)が、インターネット上で発表した。
日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里(韓国里で八百800M-千二百1200Mメートル)、との内容を示す「北有于山島周回為二三里許」の記述があった。
鬱陵島周辺でそれだけの周囲があるのは、同島の北東に隣接し、南北七百メートルに及ぶ細長い竹嶼のみ。
竹島は鬱陵島から九十二キロ92km離れた南東に位置し、ビーバーズ氏は「于山島は鬱陵島の隣接島(竹嶼)としか考えられない」と結論付けた。
竹島問題研究会の座長を務めた下條正男拓殖大教授は
「地図から見て、于山島は竹島ではなく竹嶼であるのは明白だったが、文献で示されたことは意義深い」と評価している。
竹島問題で韓国側研究者はこれまで「地図より文献の記録を重視すべき」と同研究会の主張に反論していたことにも触れ、下條教授は「研究会の見解が正しいことが裏付けられた」と述べた。
▽ソース:山陰中央新報 08/01/19
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=493162004
14世紀の大宗実録
「于山島は15の家があって86人の住民が住んでおり、大きな竹や麻を産出する土地である」

絶海の荒海にあり、水も食料も木々も畑も動物もいないTAKESIMA。
干山島≠TAKESIMA
