日本の国家機関が独島を朝鮮領土で認めた決定的史料¥"
1877年日本の大政官に指令された 文書
磯竹島(鬱陵島)と 外一島は日本の領土ではない
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元緑5年(1699年) 朝鮮人の 入島以後, 両国間に終わった問題で私たちとは関係がない.

磯竹島(鬱陵島)に対して説明した 次に 一島に対する説明が出る
-->次には 一島があって, 松島(今の独島)と呼ぶ

大政官ジリョングムンは 1877年日本明治(明治) 政府が独島は日本と関係がない領土,言い換えれば朝鮮領土だと公式認めた文書だ.
大政官ジリョングムンが出るようになった経緯は次のようだ.
大政官ジリョングムンはどんな内容か = 日本内務省は 1876年全国の指摘(地籍)を調査して地図を作るために各現に調査を指示した. その年 10月 16日島根(島根) 玄銀鬱陵島と独島をシマの現の指導と指摘の調査に含ませるはずなのかを内務省に問い合わせた.
内務省は 17世紀末朝鮮と取り交わした往復文書と記録たちを皆調査した. 内務省は 5ヶ月の間の調査結果この問題はもう 1699年に終わった問題で鬱陵島と独島は朝鮮領土で ‘我が国は関係がない¥"と結論付けて日本指導と指摘の調査から除くことに決めた.
しかし, 内務省はこの問題が国家的に重要だという売ったという下の 1877年 3月17日当時立法・行政・司法 3冊を掌握していた明治(明治) 政府の最高権力機関と同時に意思決定機関である大政官(ダゾカン・太政官)に自問を求めた. この時内務省は竹島ウェイルも(竹島外一島)は 1699年朝鮮と句日本政府の間に往来が終わって本邦(本邦.日本)と関係ないことで分かっているが国家版図(版図)の酔うことと捨てることは重大な事だから確認したいと問い合わせを要請した. ここで `竹島ウェイルも(竹島外一島)¥"は鬱陵島と独島を言うのだ. 具体的に `竹島¥"は鬱陵島, `ウェイルも¥"は独島を示すことで当時日本は鬱陵島を竹島(竹島)で, 独島をマスシマ(松島)と呼んだ.
これに対して大政官は自体の調査を終わらせた後鬱陵島と独島は `我が国とは関係がないという公文書を同じ年 3月 29日付けで内務省に下ろしたが, これがちょうど `大政官ジリョングムン¥"だ.
大政官ジリョングムンには鬱陵島と独島は日本と関係がないことで肝に銘ずるはずだという文具まで出る. 言い換えれば大政官は鬱陵島と独島は句日本政府(江戸幕府) 時終わった問題で, 日本領土ではないと内務省に強い表現の命令で示逹したのだ. 大政官のこの指令は 1877年 4月 9日シマの現にも下逹された.
大政官は 1870年にも 竹島,松島が朝鮮の部属になった顛末¥"を外務省に調査するようにした. 当時の調査は満足するに値する水準ではなかったが, 注目される部分は大政官が 竹島, 松島が 朝鮮の部属だと確かに言ったという部分だ. したがって同じ内容を調査した大政官が 1877年 `竹島ウェイルも(竹島外一島)は本邦(日本)と関係がない¥"と明らかにしたことは文書の脈絡上 松島(独島)を朝鮮領土ではっきりと認めたわけだ.
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=104&oid=001&aid=0001471862