韓国語wikiの樋口 季一郎 のページ→ Link
ナチス・ドイツの迫害から逃れる6000人のユダヤ人難民にビザを不眠不休で発給してその命を救った杉原千畝 領事代理の名前を知らない人はいないであろう。ところで、かつて、2万人ものユダヤ人の命を救った軍人が居た事をご存知だろうか。その人の名は、樋口季一郎。当時、満州国でハルビン特務機関長を務めていた。
事件は昭和13年(1938年)3月8日に起こった。ナチスの迫害から逃れ、シベリア鉄道の貨車に乗り込み一路上海を目指すユダヤ人難民がソ満国境の駅オトポールに終結し、満州国への入国を求めたのである。その数、20000人。突然の事であった。満洲国が入国を拒否したため、雪の中で前に進めずに立ち往生していた。食糧はすでに尽き、飢餓と寒さのために凍死者が続出。それは危機的な情況であった。
樋口は同胞の窮状を訴えに来たハルピンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士にこの状況を聞くと「何という事だ・・・。満洲国は独立国家としての自主性を全く失っている。満洲建国の理想として世界に掲げた旗印は「五族協和」であり、「万民安居楽業」ではなかったか。」「博士、分かりました。誰が何と言おうと、私が引き受けた」樋口はすぐに満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車の交渉を始めた。
満洲国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱である。
樋口季一郎は一介の特務機関長にすぎなかったが、関東軍司令部に何の許しも得ずに独断で満鉄を動かし救援列車を満州里に急行させた。
2日後の3月12日。ハルピン駅では列車の到着を待つカウフマン博士をはじめ、十数人のユダヤ人協会の幹部が、救護班を指図しながら、温かい飲み物や、衣類などの点検に忙しそうに動きまわっていた。
や
がて、轟然たる地響きを立てて、列車がホームに滑り込んで来た。痩せた髭だらけの顔が、窓に鈴なりになって並んでいる。期せずして、激しいどよめきの声
が、ホーム一杯に広がった。列車が停止すると、救護班が真っ先に車内に飛び乗った。病人や凍傷で歩けない人たちが、次々にタンカで運び出されてくる。
相擁して泣き崩れる難民たち。痩せ細った子供たちは、ミルクの入った瓶をみると、狂ったように、泣きだした。
「良かった。本当に良かった!」カウフマン博士は、涙で濡れた顔をぬぐおうともせず、ホームを走りまわって、傷ついた難民にいたわりの声をかけている。
数刻後、樋
ロは、オトポールの難民全てが、ハルピンに収容されたという報告を受けた。凍死者は十数人、病人と凍傷患者20数名を除いた全員が、商工クラブや学校に収
容され、炊き出しを受けているという。医師たちは救援列車の手配が、もう一日遅れたら、これだけの犠牲者では済まなかっただろうと言った。
難民の8割は大連、上海を経由してアメリカへ渡っていったが、あとの4千人は開拓農民として、ハルピン奥地に入植することになった。樋口は部下に指示し、それらの農民のために、土地と住居をあっせんするなど、最後まで面倒を見た。
後日、樋口の難民保護に対してドイツから強硬な抗議がきた。ヒトラー総統の計画と理想を妨害する行為だと文書が来た。関東軍司令部からの出頭命令が樋口に下った。そこで樋口は東条英機 参謀長に対して次のような意見を述べた。
「日満両国が非人道的なドイツの国策に協力するのは人倫の道に背くものであるといわねばならない。わたしは日独間の親善と友好は希望するが、日本はドイツの属国ではないし、満州国もまた日本の属国ではない。すべからく対等な立場に立って、人道的な国策をまっとうすべきである」「東条参謀長!ヒトラーの言いなりになって、弱い者虐めをすることを、正しいとお思いになりますか?」
東条は、ぐっと返事につまり、天井を仰ぐしぐさをしてから、言った。
「樋口君、よく分かった。あなたの話は最もである。筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう。」
樋口は不問とされた。
その後、樋口は、参謀本部第二部長、第五方面軍の司令官を歴任し終戦にいたる。第五方面軍では、終戦後に樺太と北千島におけるソ連軍の侵略に徹底抗戦、占守島においてソ連軍を撃退して北海道への上陸を阻止した。
1942年(昭和17年) 8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称) 司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。アッツ島玉砕、キスカ島撤退、敗戦後の占守島、樺太における戦闘を指揮し、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与えた。そのためスターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を戦犯に指名した。
世界ユダヤ協会はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口の身柄を保護した。
「オトポールの恩を返す時が来たぞ」
ユダヤ協会には、あのオトポールの駅で命を救われた人々がいたのだ。彼らは、樋口の身を守りきったのであった。エルサレムの丘に立つゴールデン・ブックに刻まれた「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」の銘はその証である。
遡る事、8月にハルピンに赴任してきたばかりのハルピン特務機関長・樋口季一郎少将は、着任早々、「満洲国は日本の属国ではないのだ。だから満洲国、およ
び、満洲国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、満人の庇護に極力努めるようにしてほしい。」と部下に訓示し、「悪徳な日本人は、びしびし摘発し
ろ」と命じた。カウフマン博士は、その樋口に重大な頼み事を持ってきたのである。
それは、ハルピンで極東ユダヤ人大会を開催するのを許可して欲しいということだった。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の暴挙を世界の良識に訴えたいというでのある。
樋口はハルピンに来る前にドイツに駐在し、ロシアを旅行して、ユダヤ人達の悲惨な運命をよく知っていた。樋口は即座に快諾し、博士を励ました。
翌13年1月15日、ハルピン商工倶楽部で、第一回の極東ユダヤ人大会が開催された。東京・上海・香港から、約2千人のユダヤ人が集まった。樋口も来賓として招待されたが、部下は身の危険を心配して辞退するよう奨めた。
当時のハルピンでは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化しており、治安の元締めである機関長がユダヤ人大会に出席しては、ロシア人過激分子を刺激して、不祥事を引き起こす恐れがあったからだ。
しかし、樋口は構わず出席し、カウフマン博士から求められる来賓としての挨拶をした。「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人
を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、何処へ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行先をちゃ
んと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然取るべき処置を怠って、追放しようとするのは虐殺に等しい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ! 安住の地を与えよ! そしてまた、祖国を与えなければならないのだ。」
演説が終わると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、つぎつぎに握手を求めてきた。
大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員や新聞記者達が、いっせいに樋口を包囲した。イギリス系の記者が、核心をついた質問をしてきた。
「樋口少佐の演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに水を差すような内容である。そこから波及する結果を承知してして、あのようなことを口にしたのか。」
樋口はまわりを取り囲んだ十数人の新聞記者やカメラマンにやわらかい微笑をかえして言った。
「日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。」
「今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、この問題は解決しないだろう。」
樋口の談話は、それぞれの通信網をへて、各国の新聞に掲載された。関東軍司令部内部からは、特務機関長の権限から逸脱した言動だとの批判があがったが、懲罰までには至らなかった。ユダヤ人迫害は人種平等の国是に反するという国家方針に沿ったものであったからであろう。

ゴールデンブック表紙
●本来、ユダヤ人しか登録されないはずの『ゴールデン・ブック』に、なぜか日本人が登録されている。1997年現在、日本人の被登録者は次の6人と伝えられる。
安江仙弘(元陸軍大佐)
樋口季一郎(元陸軍中将)
小辻節三(ヘブライ語学者)
内田康哉(元外務大臣)
手島郁郎(テント主義の創始者)
古崎博(株式会社「近東」社長)
●元海軍大佐で海軍の「ユダヤ問題専門家」の犬塚惟重氏も、『ゴールデン・ブック』に記録される予告を受けたそうだが、当人は辞退したという。その後もいろいろな形で犬塚氏の功績を顕彰する計画がユダヤ人の間で行なわれたが、当人がこれを受けなかったので、のちにアメリカのユダヤ教会から、氏のユダヤに対する功労を讃えて彫刻した「銀製煙草入ケース」を贈られ、彼は大切にそれを保存していたという。