金尚弼(日本名 結城尚弼)
昭和20年2月11日満州新京で編成された特攻隊に志願。
隊内の演芸会で
「私は朝鮮出身です。少しアクセントが違いますが、日本の歌を歌います」
と言うと、隊員から
「アリランを歌え」
「そうだ、そうだ、アリランを聞かせてくれ」
との声があがりました。金が
「では母国の朝鮮語で歌います」
と言って歌い、歌い終わると、拍手喝采の嵐が起こったといいます。
恐らく家族とはこれが最後の別れになると思った金は、2月25日、平壌の三根旅館で日本軍将校になることを反対していた兄・金尚烈と会いました。
兄から逃亡するよう懸命な説得を受けましたが、
「自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が笑われる。多くの同胞が、一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁に我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです。日本が強くなればなるほど、地下の独立運動は無力となりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る、その方が確かだと思うのです。
日本人が憎くない、というとそれは嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れてゆきますし、今日一緒に来てもらった佐藤曹長からは、親身の整備をしてもらいました。戦友や部下たちとは、一心同体であり、民族のしこりや壁はありません。・・・・・・
民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許して下さると思うのです」。
圧倒的な数の米軍戦闘機と、艦隊からの対空砲火網の中沖縄西方洋上の艦船軍に突入。24歳の若さでその生涯を閉じました。
卓庚鉉(日本名 光山文博)
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母の死に目に駆け付けた光山少尉に対して、
「ひと足遅かったなあ。お母さんは、随分待っていたのになあ・・・。お母さんなあ、お前の事を心配していたが、なくなる前には、もう諦めの心境なのか、
『文博はもうお国に捧げた体だから、十分に御奉公するようにいって下さい』
と言い残したんだよ」
「じゃあ、お父さんも、僕が戦死しても嘆きませんね」
「日本が勝か負けるか、大変な戦争だよ。お前も十分戦ってくれ」
光山少尉は基地に戻ってただちに特攻志願の願書を書いて、師団長に提出。
知覧の特攻隊員の多くを見送った鳥浜トメさんの経営する富屋食堂に、出撃前夜最後の別れに一人で訪れてました。他の特攻隊員の歌声に耳を傾けていた卓に、トメさんが
「今夜が最後だから光山さんも歌わんね」
と勧めると、
「そうだね、最後だからね。それでは僕の故郷の歌を歌うから、おかあさん聞いてね」
とふだんは無口で恥ずかしがり屋だった光山は、被っていた戦闘帽を眼が隠れるぐらい目深に被って、あぐらをかき、柱にもたれかかってアリランを歌っています。
アリランを歌う光山は次第に涙でくしゃくしゃになって、二番は歌にならずに、いじらしく思ったとめさんは光山少尉の手を取り、トメさんの娘さん二人も手を取り合って泣いたそうです。
光山少尉こと卓庚鉉少尉はこの時トメさんに朝鮮の黄色い縞の布で作った財布を
「お世話になりました。こんなもので恥ずかしいですが、受け取ってください」
とお渡ししています。トメさんは「出撃記念 光山少尉」と書かれたこの形見となった財布を大切にしていて、それは今も残されています。
沖縄西海方面に出撃、散華されました。
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崔貞根(日本名 高山昇)

陸軍士官学校在校中に、同期生のひとりに、
「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」
と、その心情を吐露したといいます。
同期の齋藤五郎氏は陸士の同期会で、李亨根氏(同じく陸士五十六期、韓国陸軍大将)にただしたところ、
「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好が生まれる時だ」
と答えたそうです。
沖縄作戦に参加、昭和20年4月2日、敵駆逐艦に体当たり散華しました。
林長守
未熟な人の多い中では、勤王隊の林長守軍曹は抜群の操縦技術を持っていた。少年飛行兵出身として最初の特攻隊員でもあった。
人柄もよく、隊長の山本卓美中尉は彼を日本に帰して少年飛行聘の育成にあたらせようと、何度彼に説いても、彼は頑として聞かなかった。山本隊長の
「これは命令だ」
といっても、彼は
「私のたった一度の反抗です。そういう命令はきくことができません」
と承知しなかった。眼のくりくりしたいい青年だった。
林軍曹は二式双襲(屠龍)十機の中の一員として乗り込みました。その時の戦果は、駆逐艦マハン、輸送駆逐艦ワードの二隻を大破。両艦は使い物にならなくなり、最後は米軍によって沈められました。
当時、毎日申報は、「半島神鷲」として、林軍曹のことを大きく報じました。
朴東薫(日本名 大河正明)
遺書には「靖國に召されし一身如何にせん、ただ君がため」とあったそうですが、同期の同胞「金山」伍長には
「内鮮一体というけど、嘘だ。日本は嘘つきだ。俺は、朝鮮人の肝っ玉を見せてやる」
と言い残したという。
廬龍患(日本名 大河正明)
二式戦闘機にて御前崎上空でB-29編隊長機に体当たりを敢行 撃墜
当時、全国の新聞を飾ったこの武勲の主である河田少尉が朝鮮人であることをほとんどの日本人は知らなかった。