解説をしておこう。
第一次日朝協約で朝鮮地域は日本人の移住が許された。また交易に際して関税をかけないという事も決められた。
そして日本は朝鮮に住む邦人の為に領事部を各地に設置した。
さて、在外領事部に管轄地域の概況を報告するよう命じたが、その報告書が
朝鮮日報の記事にある「外務省通商局編纂 通商彙纂」という冊子。
その冊子の235号(明治35年10月16日発行)においても世界各地の領事館から報告がなされているが、その号に「付録 韓国鬱稜島事情」の記事がある。
これは韓国人も知らない鬱稜島の当時の状況が示してある。
●鬱稜島には古来より韓人の永住者はなく無人島だった。21年前に4名の渡航者が住んだことから始まる。その後住民の移住が進み、3340名となる。
●邦人も古来より本島(鬱稜島)で樹木の伐採などをしていたが、10年前はッ島根県の住民が永住して木材業を営む。今は548名が住む。
●(邦人が)現地治安が良くないので警察官駐在所の設置を嘆願し、ようやく実現。併せて日本人商工組合を設置。
さて、そんな「付録 韓国鬱稜島事情」だが、その中に話題の部分がある。
1 鬱陵島の地勢
2 在島韓民の状況
3 本島(鬱陵島)物産
4 船舶碇泊場
5 本邦在留民の概況
6 商況
7 漁業の状況
8 交通
9 気候
10 伝染病
参考 (邦人商工会)組合規約
この7(漁業の状況)を詳述すると
第七、漁業の状況
本島の漁業の季節は例年3月より9月迄。
収穫物は鮑、鰒(ふぐ)、天草、海苔、若芽の数種に過ぎず、漁業者の多くは熊本の天草、島根の隠岐、三重の志摩地方より渡来していた。
韓人の漁夫はほとんどいないが、毎年全羅道3島地方より多数の漁夫が渡来して海岸の若芽を採取する。本年は漁業監視のため、天草隠岐の漁業者8隻が道洞を本拠と定め、また志摩の蜑船2隻天草の海士船1隻は苧洞に仮小屋を構え、いずれも全島の海岸を巡漁している。
今年は昨年に比較し不漁だから利潤は小さい見込みとなってしまった。
又本島の真東約50海里に3小島がある。邦人はこれをリャンコ島、松島と呼ぶ。
その島に多少の鮑を産するので、本島(鬱稜島)より出漁するものがいる。
しかれども同島に飲料水は乏しいので永く出漁することはできないので、4・5日間を経て本島(鬱稜島)に寄港している。
つまり、本文を読むと
鬱稜島の漁業者は日本人。韓人漁民は外(全羅)から鬱稜島の海岸のワカメ泥棒に毎年来る。
そして、鬱稜島の漁業者(邦人)は竹島にまで数日間アワビを採りに出かける。
という事だな。
まぁ当時の日本人はビザ不要で朝鮮に自由に居住できるし、交易には税をかけない事になっている。
交易には税をかけないと云っても、営業利益には税がかかる。
商工業・農林業の実態を把握するのは近代日本にとっては重要、
そんな実情から、韓国鬱稜島事情も農林業の実情把握には重要なんだろうな。
この韓国鬱稜島事情でわかることは半島の漁業情勢。
朝鮮の漁業は後の総督府の調査でも日本の1%にも満たない事を記している。ワカメやアワビなどの海産物を日本人が珍重していたので、ワカメ泥棒をしていたのだろうな。
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1902年日本公文書記録,独島は鬱陵島の部属島.
日本が独島を島根県に強制編入する 3年前の 1902年に独島を鬱陵島の部属島だと表記した日本の公文書が初めて公開された.
問題の文書は, 1902年 5月に釜山の日本領事館が本国に送った 「釜山領事館報告書」と題目を付ける文書で, 独島を 「松島」 「ryanko」と呼んで, 鬱陵島を独島の 本島で認識する内容だ.
報告書には, 「本島(鬱陵島)の東約 50海里に 3個の小さな島があり, これを「ryanko」称して,, 本邦である(日本人)は
松島だと称する」と表記した後,, 東島では多少の転覆がいて 本島で出漁する人がいるが, 島には飲み物がないから,
長期間の出漁は不可能で,4-5日に 本島に帰って来ると言う技術があった.
今まで日本は 1905年の島根県 告示で, 無主地だった独島を編入したと主張して来た.
蔚山大学教授は 「1900年に大韓帝国が勅令第 41号で, 鬱陵島を 本島, chukdo, 石島を含んだ鬱陵郡を領土として公知している. 1902年の日本の警察による報告書でも鬱陵島を 本島だと呼んで, 独島を部属島で記録している. これは当時の独島が韓国の領土であることを間接的に証明することで, 大きい意味を持つ」と指摘した.
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/10/15/2012101500966.html