宗 義智 (sou yositosi)
対馬 府中藩の初代藩主
義智は5,000人の軍勢を率いて天正20年(1592年)4月12日に対馬北端の大浦を出港し釜山に上陸する。翌13日に総攻撃をかけて攻略したのを皮切りに、4月14日に東莱、4月15日に機張、左水営、4月16日に梁山、4月17日に密陽、その後に大邱、仁同、善山を次々と攻略し、4月26日に慶尚道巡辺使李鎰を尚州で撃破。4月27日に慶尚道を越え忠清道へ進軍、弾琴台の戦いで迎撃に出た申リツ率いる朝鮮軍を壊滅させ忠州を攻略。京畿道に進み5月1日に麗州攻略後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達。翌5月3日には首都漢城に入城する。
諸将と漢城会議を行った後、5月11日に義智はさらに北に向かって進撃し、5月18日に臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を撃破。5月27日に開城攻略、黄海道の瑞興、鳳山、黄州、中和を次々と攻略。平安道に進み、6月8日に大同江の辺りに達し、朝鮮軍の夜襲を受けたが自ら奮戦して撃退した(大同江の戦い)。
7月16日、明の遼東副総兵・祖承訓が平壌を攻撃してきたが撃退。このとき義智は小西行長とともに敗走する明軍を追撃し、明将史儒・千総張国忠・馬世隆などを討ち取った。7月29日、李元翼率いる朝鮮軍が平壌に攻め寄せてきたがこれも撃退する。
文禄2年(1593年)1月7日、明は李如松を提督として約4万人の明軍に金命元率いる1万人の朝鮮軍を加え平壌に攻め寄せた。明軍が平壌城の城門を突破すると日本軍は北部丘陵地域の陣地に退避する。ここで李如松は「退路を与えるから城を明け渡せ」と伝えてきた。日本軍はこれを受け入れ南に向かって撤退を開始するが背後から追撃を受け厳しい退避行となった。漢城を目指して進撃する明軍に対し、日本軍は諸方面の各軍を漢城に結集した後出撃し、これを大いに破った。これが碧蹄館の戦いである。
大暴れだったようですねw
対馬の人々は朝鮮人に恨みでも持ってたのでしょうか
文脈から、常に先鋒に立ち朝鮮を蹴散らしたことが伺えます