南大門(崇禮門)城外側 撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891) 林武一撮影
ちょうどこの写真撮影年代の頃である明治21年2月、かつて朝鮮の漢城判尹(首都知事と警視総監を併せた役職)を勤めたことがある朴泳孝は、日本滞在中に朝鮮国王宛てに内政改革の建白書を著し、その中で京城市街について次のように述べている。
「王宮や後宮から街、道路、橋にいたるまで、塵芥が丘陵を成し、糞屎は金を塗るが如し。これ外国人が大いに恐れるところ、そして嘲笑するものなり。見るところ極めて美しからざるのみならず、その蒸発の気は必ず疫病を醸成するものなり。(アジ歴資料「韓国人朴泳孝建白書」p23)」
「糞尿は金を塗るが如し」とは凄まじい表現であるが、宮本小一外務大丞の時から10年以上経っても京城の様子は全く変わらなかったことを証するものであろう。それに朝鮮人自らが記録したものとしても貴重なものと思われる。
西大門(敦義門)撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891) 林武一撮影
宮本大丞朝鮮理事始末 朝鮮政府接遇記略及風俗概要、宮本大丞朝鮮理事始末 朝鮮理事日記、宮本大丞朝鮮理事始末 第九號 陸軍士官朝鮮紀行 作成者:陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦介)より。
「汚水が路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。しかし誰も掃除する者がない。夏であるから一層臭気を覚える。
その他の道は、4、5メートル余り。凸凹を修繕するということがない。道路端の溝梁はない。人家が道に出っ張っているのと、引っ込んでいるのとが並んでいて、頗る不整である。
王宮は壮大である。しかし庭には青草が生い茂っている。かつて掃除をしたことがないようだ。
京城での宿は、城郭外西にある盤松洞中軍営の清水館という所であった。(後に隣の天然亭と共に日本公使館となる。)
敷地はおよそ千坪。建物は百坪ぐらい。皆瓦屋根である。館の周囲には竹垣を設けてそれに幕を張って巡らせ、外からも内からも眺望できないようにしてある。館の前面には広さ千坪余りの池があって蓮の葉がまばらにあった。
敷地内に井戸はなく、門外の井戸を使う。ここでは水は良質多量であった。
室内の壁は新しく紙を貼り、柱や梁なども新しく青色や白色で画彩してある。
「花紋席」と称する薄い席(むしろ)を敷く。椅子、小さな屏風を置き、紅紗布で覆った行灯を2、3個置く。皆、朝鮮国においては善美をつくしたものと言う。
部屋は狭く、数人を収容して、テーブルと椅子3、4個を置けばもう余地は無い。
紙障子は高く吊り上げてあって夜も下ろすことがない。そのため夜雨や朝露を防ぐことが出来ない。
寝室は壁に竈の穴のような小窓をあけて光を入れ、それに竹の簾を垂らしてある。ゆえに蒸し暑いこと甚だしい。
ここ清水館の隣に「天然亭」と称する20坪ばかりの家がある。また奥にも小家がある。この二つが随員の寓所および厨房としている。この他2、3の長屋の如きものあり。皆瓦葺で庇が低く、柱は太くして、それらを「亭」と称し「閣」と呼ぶ。しかしいずれも矮小にして風雅の趣が無い。これでも京城にあっては上等の家屋である。平素は京畿道の官吏の邸宅と言う。
庭には、土木泉石の飾りは無い。邸内はわずかに柏の老樹が門のところにあるだけである。なんとも風雅の無い邸宅である。朝鮮全般いたる所でそのようなものであると言う。
館内は近頃補修をしたと見えて柱などは朱色に塗ってある。屋根は日本と同様な瓦で葺いてあるが粗雑品である。
風呂場と便所
途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために風呂場が新たに作ってあった。その広さ10坪ほど。湯を汲み入れて使うが、頗る爽快であった。
また、便所も数箇所仮設してあった。これも日本人のために作ったと言う。しかし粗末な藁葺きで不潔であった。
途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。また、部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。
普通、朝鮮人民の家には便所がないとも言う。
そのためか、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蒼蝿が舞い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない位である。雨が降る日だけ臭気が治まった。
ここでは蚊および蚤はまれであった。しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、夥しい蚊と蚤のために、ついに一睡も出来なかったと言う。
日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では奇なる風景だと言う。
胡麻を多産するので、ごま油をもって百食の調味の元とすると言っていい。
また、たいてい胡椒と唐辛子を加えて調理しており、この2味を用いないものは無いも同然である。それゆえに朝鮮人は咽喉への刺激により、一種の咽喉の病気を受ける者が多いと聞く。
醤油は上品下品とあって、極上品は日本製に及ぶが、値段が高すぎて容易に得ることは出来ないと言う(おそらくは日本からの輸入品か)。下等品は不味くて食せない。
味醂はない。
砂糖も無いので蜜を代用している。
牛乳は用いない。
酒について
酒はほとんどが焼酎である。王城での賜饌での酒も焼酎であった。強すぎて呑めない。(宮本小一外務大丞の言。)
焼酎は良い味で飲める。琉球の泡盛に似る。しかし、強すぎて酒杯になみなみと盛って飲む者はいない。(陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦の言)
米の醸造酒はあるが、酸味が甚だしくて呑めない。
盆や膳類は漆が剥げ落ち垢がついてすべて不潔さを感じた。
磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。しかしいずれも汚れたような不潔さを感じる。
酒(焼酎)は土瓶に入れている。杯は日本製である。また朝鮮製のもある。
彩画した皿や金銀の器が無い。
ただ、国王の賜饌の時に添えたる銚子は徳利形で、杯は薄いこと葉っぱのような銀製であった。蝙蝠の絵が画いてあった。
また、醤が入った磁器壷には石榴の模様が淡青で描かれていた。これらは支那の品に似ていて、おそらく朝鮮製ではないだろう。
銅の箸で食事をする。箸が重くて物をはさむのに不自由である。
牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、もとより食べられるものとなると思う。
日本人がこの国に来れば、まず食べ物に注意しない時は、到底飢渇の患いを免れられないであろう。
米について
米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。
茶(緑茶)は無い。
干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり煎じ薬を飲むにも似ている。
菓子について
菓子は、小麦粉を練って胡麻を和したものであり、大薬菓と称する。米を固めて作った日本の「おこし」と同じ物がある。紅白の色に分けてある。
棗(ナツメ)は極めて大きく、蜜を練って衣とし松の実を貼り付けて皿に盛ってある。
餅に豆の粉をまぶしたものもある。
稀に、日本製の片栗の菓子も見る。
日本の漆塗りである春慶塗の重箱を尊んで菓子を盛って出す。
金浦より東は夏でも氷がある。氷は漢江でこれを貯蓄する事が多量であるようだ。泥がまじっているのがあっても注意して飲食すれば害があることはない。このたびの炎暑酷烈で耐え難い時も氷水によって冷を得ることができた。」