
韓国の毎日新聞に「合気道は韓国が最初、日本に渡り発展」と記載!
柔道や空手、合気道に剣道など日本には様々な武術があり、世界を見渡すと少林寺、少林寺拳法、ボクシング、カポエラなど数々の格闘技がある。その中で護身術として国内で利用者が多い『合気道(あいきどう)』に今回はスポットを当てたい。
なんとこの合気道だが、韓国発祥だという。そのことが掲載されているのが韓国で発行されている『毎日新聞(メイルシンムン)』(日本の毎日新聞とは無関係)。1991年に発行された韓国の毎日新聞に気になる見出しがあるのだ。そのハングルを訳してみると次の様になる。
「『韓国(大韓)合気道、柔剣術』道場が最初(こう矢)
我が国のチェ・ヨンスル(チェ・ヨンス)氏が伝えた『創始道主』
日本に渡り発展、“日本武道”間違って認識」※()は直訳した箇所。
以上の様に書いてある。この見出しが本当なら、合気道の歴史がおかしな事になってしまう。しかし韓国では合気道のことを「ハプキドー」と呼ばれておりその漢字表記は「合気道(合氣道)」となっている。
しかしあくまでハプキドーと合気道は別とされており、上記毎日新聞に書かれている説も『Wikipedia』にあるのだ。その一部を引用すると、
「日本で大東流合気柔術を学んだ崔龍述(チェ・ヨンス、Choi Yong Sul)が戦後、韓国で『大韓合気柔拳術道場』を開いたのが始まりとされる。
その後、テコンドーの蹴り、ボクシングのパンチなどを研究、統合して現在のスタイルになった。
1958年ハプキドーを名乗り始める。漢字では『合気道(合氣道)』と書くがこの時点ですでに日本の合気道(Aikido)とは全く別の武道といえる」
ハプキドー (Hapkido)
発生国
合気道の創始者・植芝盛平は1883年(明治16年)和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(後の田辺市)の富裕な農家に生まれた。1905年(明治38年)日露戦争出征と前後して
起
倒流
・柳生心眼流などの柔術や講道館柔道を学び、1915年(大正4年)北海道開拓中に大東流の武田惣角に出会いその技に驚嘆し入門、武術的開眼を得る。
1920年(大正9年)、父のシをきっかけに宗教団体大本の実質的教祖・出口王仁三郎に出会い入信、大きな思想的影響を受ける。王仁三郎の勧めで京都の綾部に「植芝塾」道場設立、開墾・建設作業に従事しつつ甥の井上鑑昭(親英体道の創始者)と共に「合気武術」を教団内で指導する。
1924年(大正13年)出口と共にモンゴルに渡り宗教国家建設を目指し活動するも失敗(「パインタラ事件」)、数々のシ線をくぐった後帰国、1925年(大正14年)綾部での修行中「突如黄金の光に包まれ宇宙と一体化する」という幻影に襲われる神秘体験に遭遇(「黄金体験」)、「気の妙用」という武道極意と「万有愛護」という精神理念に達する。
身長150cm台の小柄な体躯[6]から特異な技を繰り出す武道家の評判はやがて東京にも及び、1925年(大正14年)海軍大将竹下勇の招請で上京し伯爵山本権兵衛らを前に演武を披露、絶賛を博す[7]。
これを機に、後に起こる第二次大本事件を予見した出口の勧めにより1927年(昭和2年)東京へ移住、竹下の紹介で多くの社会的有力者が門人や支援者となった。また次第に武田惣角・大東流と距離を置き始め独自の武道を模索する。
1931年(昭和6年)東京牛込に皇武館道場設立。関東・関西に数箇所の道場も開かれ盛平の名声は高まってゆく。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・実業家や武道家の子弟が主で、入門は一部の層に限られていた。[8] 1940年(昭和15年)財団法人皇武会設立。大東亜戦争中は軍部からの要請で陸軍憲兵学校・陸軍中野学校・海軍大学校などで盛平が武術指導を行なう。
1942年(昭和17年)戦時統制策により皇武会は政府の外郭団体・大日本武徳会の統制化に入る。(→大日本武徳会合気道)かねてより戦争に批判的であった盛平はこれを機に茨城県岩間町に隠棲する。[9]
終戦後の1948年(昭和23年)に皇武会は「財団法人合気会」として改めて文部省の認可を受け、この時から「合気道」の名称を用いだした。(→“植芝「合気道」の出発”) これにより盛平は初代合気道「道主」となり、没後は特に「開祖」と呼ばれる。しかし戦後の混乱、GHQ(連合軍総司令部)の武道禁止政策[10]などにより合気道の復興は困難を極めた。
1954年(昭和29年)日本総合武道大会(長寿会主催)で盛平の弟子・塩田剛三が優勝し、財界人の援助を得て「合気道養神館道場」を創設し合気道の普及に名乗りを上げる。これに大きな刺激を受け、合気会も本格的な活動を開始する。戦後合気道は、盛平三男で合気会本部道場長・植芝吉祥丸の方針転換により、演武会の開催や技術書の出版などを通し一般に公開される。合気会は盛平を合気道の象徴として前面に押し出す一方、吉祥丸本部道場長、藤平光一師範部長らを実務の中心に据え合気道の普及を図って行く[11]。
1950年代から盛平の弟子たちが積極的に海外普及に努めた結果、東南アジア・北南米・欧州など国際的に広まり、1961年(昭和36年)盛平自身もハワイに渡り各地で演武を披露した。2005年(平成17年)時点で合気会だけで85ヶ国に支部道場を開設している[4]。
1969年(昭和44年)盛平シ去、吉祥丸が二代目道主となる。その後砂泊諴秀、藤平光一、富木謙治といった高弟の独立が相次ぐが、大学の部活・カルチャーセンターを通しての普及に力を入れていた合気会は着実に会員を増やした。1976年(昭和51年)には合気会傘下の全日本合気道連盟及び国際合気道連盟(IAF)[12]が結成され、IAFは1984年(昭和59年)に国際競技団体総連合(GAISF)の正式会員となり、1989年(平成元年)以降ワールドゲームズ大会に毎回参加している。
1999年(平成11年)合気道の国際的な隆盛を築いた吉祥丸シ去。吉祥丸の次男植芝守央が三代目道主となる。合気会の会員は合気道人口の大半を占め、日本国内100万人・全世界で160万人とも言われ、合気道界の多数派・主流派を形成している[3]。
一方盛平の門下及び合気会から独立した複数の団体・会派が存在する。(→“主な会派”)全国・海外にも支部を持つ会派から、それらに属さず特定の地域で独自に活動する団体まで大小様々である。