アジア歴史資料センターでは、「外交文書の原本」が公開されています。
これぞ本物の歴史ですね。そこを引用したサイトから意訳・抜粋しています。
韓国語でも見れます。
特命全権公使井上の書簡他より。
1894年4月25日
朝鮮を独立させようとするなら、多くの手助けが必要だが、
それが反対に独立の邪魔にならないか心配だ。
朝鮮に任せるのか、日本が指導していくのか、決めていかなければならない。
1894年5月19日
朴泳孝が陸軍大臣の座を手に入れようと、朝鮮政府の内争が再紛した。
1894年5月22日
党派の軋轢陰謀は朝鮮ちんぽ人の民族性であってこれを無くすことは無理だ。
1894年5月25日朝鮮問題に対する日本政府の決定
1、朝鮮の独立は各国に配慮して、日本単独で責任を負うことはない。
2、朝鮮に関係のある国が、朝鮮の改善に賛成する事には、何も言わない。
3、日本と朝鮮の関係は、条約に基づく。
ここで方針が決定した、日本は諸外国と共同して朝鮮の独立の維持・内政改善を行う準備をする。
干渉はなるべくやめて、自立させる方針を取る。
1894年6月8日
総理大臣が辞職した、朝鮮に必要なのは独立の基礎の作成なのに。
新派の大臣が朝鮮の国力を弱めないよう警戒が必要だ。
1983年6月25日ロシアに対して日本政府の表明
日本政府は朝鮮に対して、独立を助け、平和安寧を確実とすることを希望する、それ以外の考えはない。
1894年6月27日
日本が、朝鮮官僚や兵士の給料を調達したり、朝鮮の国家予算のほぼ全額を貸していたのに、
王妃は宴会ばっかりしていた事が報告される。
1894年7月3日
日本は日清戦争中でも朝鮮へ国家予算規模の金を貸していたが、
戦争に勝利すると朝鮮は返済条件を緩めるか、清国からの賠償金をよこせと言ってきた。
日本は仕方なく、返済条件を緩め、議会の承認があれば追加を貸せると返事をする。
1894年7月11日
大院君の言葉
王妃が今のように振舞うなら国家は滅亡に至るだろう。
よって日本と協力し、王妃を取り抑えることに尽力したい。
さらに
朝鮮政府の要人も、王妃対策を第一と考え、なんとか王妃を防ぐ手段を尽くしたいと考えており
王妃が事大したロシアも、「このままでは王宮は滅ぶ」と公使が言っているのである。
1894年8月19日
天皇陛下へ井上の報告
朝鮮の独立に努力し、朝鮮王室・王族に不軌を図るものは、
日本兵力を持ってしてもこれを阻止し朝鮮王室と国の安全を謀る。
1894年10月29日在露全権大使
朝鮮の独立を維持するためにはロシアとの決戦は避けられない。
西洋の強国が朝鮮の独立を保護するように仕向けよう。
朝鮮は自分で独立を維持できない病人であって、医者が何をしても治らない。
1894年7月23日の王城戦闘では、王宮の兵士が15分で完全撤退するという有様w
日本が手を出すまでも無く、王宮で争いがあったし、それだけ国を思う国民が居なく国は腐っていた。
この時の3国の状況
朝鮮
魚允仲「王妃は必ず失敗するだろう、その機会に王妃を抑制したい」
大院君「王妃が勝手を続けていれば国は滅びる。王妃を取り抑えたい」
日本
日清戦争は朝鮮独立の為と思っていて2万人の犠牲を出したが、
朝鮮はロシアに事大をしている。
ロシア
清国の保護がなくなった、商売上の特権は日本で良いが、政治の特権はロシアが取る。
日本が朝鮮の独立を助けるなら、いずれ衝突するだろう。
そして王妃さつがい事件
大院君は王宮突入前に首謀者を集め伝えた
「国王と世子の身の上は十分に保護されたい。ただし王后に対しては宜しく臨機に処分あるべきである」
「王妃をころしたのは、不貞の私の部下だ」と現場に居た高宗が証言
(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))
「国母をころしたのは、禹範善だ」と現場に居た息子の純宗が証言。
(往電31号)(後に純宗は刺客を放ち、禹範善をあんさつ)
「王妃を直接ころしたのは、私です」と実行部隊隊長の禹範善の証言。
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テさつがい一件)
「王妃さつがいを今回計画したのは、私です」と証言した李周會
(朝鮮での裁判。裁判に関しては官報に記載あり)
大院君は王妃さつがい後、王妃の位を平民に下げ、壮士(あんさつ参加者)たちに1万9千円という大金を謝礼として渡している。