
5世紀から古代日本の初期王室が実在した地域は 大阪と奈良(奈良) 地だ. 早稲田大学史学科 ミズ老幼(水野裕) 教授は 1978年発刊された著書 ‘日本の古代国家形成’で “大阪地で 5世紀 超硬を中心に百済 到来認印誤診王(応神王)と彼の息子ニントクワング(仁徳王)の時代が展開された”と主張した.
東京大学Inoueミスサだ(井上光貞) 教授もみずの説(説)を全幅的に支持した. その後 1970年代から本格的に総合 研究一史学者イシワタリShinichiで(石渡信一郎・東京税金横領高校) 教師の著述 ‘百済から渡来した誤診天皇’(百済から渡来した応神天皇, 2000)’ などの研究成果は高句麗と百済係到来人たちの日本での騎馬民族王朝の成立を総合糾明し出した.
百済人たちは 6世紀に大阪地域グダラス(百済洲)から徐徐に西の方に内陸奥深い所で王道を移して百済 仏教 国家を立てて盛んになった. その基盤が奈良(奈良) 飛鳥(飛鳥) 地だ. 特に 6世紀中葉から国地域の中の飛鳥一帯でいよいよ百済仏教を土台にする百済係王室が王朝を形成して行くようになった. 西の方内海内側地帯である今の大阪, すなわち当時グダラス 海辺 渡し場(難波津) 地域で高句麗と新羅など外勢侵略に備え, 王室 防御の慈しみに分析される.
◇誤診王(紅王子) 祠堂その主導的な役目を導いた主人公が百済第25代武寧王(501〜523 在位)の息子である第26代盛旺(523〜554, 百済での在位連帯)だ. 盛旺は 554年極秘裡に第1王子威徳王(554〜598 在位)に譲位して日本に渡った. ‘三国史記’では盛旺が 554年 7月に 50人の騎馬兵を従えて新羅を奇襲して九天(狗川)で新羅の伏兵に浮び上がって逝去したと記録されている. しかし色々 歴史 記録をよく見れば盛旺はこの頃日本の百済人王室で隠れたことで明かされる.
まず盛旺の登極初期から手短に察してみよう. 彼は即位年の 523年に高句麗が侵攻して来ると騎馬だね 1万名を座長(左将) 至忠(志忠)に任せて敗数で撃退させて, 翌年羊(梁)国高まり(高祖)と親交を結んだ. 525年には新羅とも修交した. 529年再び高句麗が南侵して血誠を奪うと騎馬兵など 3のみをズァピョング(佐平) 煙幕(燕謨)に押し付けて 五穀で対抗させたが 2000人余りの軍事だけ失って敗戦した. その後 538年には王道を 熊津(公州)から私費(小富里/扶余)で移して国号を ‘南プヨ’に変えた.
548年 1月高句麗が例(〓)と 公募, 百済の禿山性を攻撃すると盛旺は新羅真興王(540〜576 在位)に援軍を要請して新羅だね 3000人の助けで侵攻君を 大破した. 550年 1月に盛旺は将軍つけること(逹己)に 1万の軍事として高句麗屠殺性を侵攻させた. その年 3月に高句麗は百済金玄聖で攻め寄せた. 553年新羅が百済東北辺方地域に侵攻して 子株(新州)を設置したし, 盛旺はこれに屈服して公州を真興王に 詩集 送った.
◇ギンメイワングルング周辺その翌年の 554年 7月に盛旺は 50人の騎馬兵を従えて真夜中に新羅九天を奇襲して負傷を負って戦死したと言うのが三国史記の説明だ. しかしこれは非常に多い矛盾を持っている. 数万名医騎馬兵を従えることができる盛旺がやっと 50人の騎馬兵を自ら従えて新羅に侵攻したということは不合理説だ. すなわち盛旺は戦死を装うために夜間の不意打ち作戦を選んだという推論が可能で彼が実戦に参戦したかは知られなかった. もし盛旺が戦死を仮装(家長), 宣伝して風聞をまき散らしてなぜの百済王室に完全に渡ったことではないか.
◇誤診王(紅王子) 社だ内部盛旺は倭王室で完全に隠れる以前である 539年に倭王室の百済係センカワング(宣化王・536〜539)が逝去すると日本に渡って倭王を兼任し始めたと見える. この時から盛旺は百済と日本を出入りしている途中 554年戦死うわさをまき散らして太子威徳王に譲位した後グダラス西の方遠く 安全一国飛鳥盆地に仏教国家 建設に取り掛かったのだ. こちらだけは高句麗や新羅が攻め寄せることができないという確信を持ったと思ったはずだ.
そうだったら, 盛旺は何の力で今の大阪地であるグダラスでありあの遠く西の方国地域飛鳥盆地を同時に支配領域を拡張させることができただろうか. 当時国地方の支配者は百済人小家僕イナメ(蘇我稲目・?〜570)だったし彼は百済係倭王室の実権者だった. 京都府立大学史学科がドワキデージ(門脇禎二) 教授は “小家僕イナメの曽祖父は百済祖神(朝臣) 木理ほどでユリャクワング(雄略 456〜479 在位) の時のウェナラで渡って来て王室の三長(三蔵)を 官長した”(‘飛鳥’ 日本NHK放送出版協会, 1995)で著わした. これと共にゴクがクインデハックカナザワショサブで(金沢庄三郎・1 872〜1967) 教授は “ユリャクチォンファングは百済ゴングックシン(建国神)を 祭祀 仕えた”(‘日鮮同祖論’ 1929)で明らかにしたりした. 高句麗の朱蒙を先祖子株で奉じたというのだ.
またカナザワ教授は “百済第21代開路王(455〜475 在位) 時代倭王室に渡って重臣になった木理ほどの息子は小家僕仮ラッコ(蘇我韓子)で孫は小家僕雇馬(蘇我高麗)だったし曽孫子は前で指摘した小家僕イナメ(蘇我稲目)で高孫者は小家僕牛馬して(蘇我馬子・?〜626)だ”と指摘した. 百済祖神木理ほどの曽孫子である小家僕イナメは 朝廷の最高代わり(その頃ウデシン)として百済を行き交った盛旺を徹底的に担いだ. 二名の妹(ギタシヒメ, オアネノ−キミ)を皆盛旺の後宮で入宮させたし, 同時に王室の権力も掌握した.
飛鳥地で百済盛旺が倭王室のギンメイワングとして君臨することができた最大の 背景は百済到来である誤診王と彼の息子ニントクワングの時代からイッデオ倭王室をずっと掌握して来たからだ. その間ユリャクワングの時の寵愛を受けて倭王室に住んでいたごとに王子(末多王子)が百済で帰国して第24代トンソン王になった(‘日本書紀’).
◇ギンメイワングルング扁額ユリャクワングが無惨に可愛がったというごとに王子は外でない百済のウェナだと征服者誤診王(開路王の第2王子である紅王子)の第5王子だった. そうするのに “ごとに王子が百済に渡って百済国のトンソン王として王位に上がるようになった帰国道にはスキシ(築紫・ギュシュタング)の兵士 500名医 護送(護送)を受けた”(‘日本書紀’ ユリャク 23年 4ワルゾ)と言うのだ.
百済で帰国する道に 500人の護衛兵士が奉じたと言う事実は何を立証することか. これは言うまでもなく倭王室はすなわち百済人たちの王朝という事実を見せてくれる. またトンソン王が逝去するとなぜのブレスワング(武烈 498〜506)は倭王室に住んでいた司馬王子(トンソン王の第2王子)をまた百済第25代武寧王として送った(‘日本書紀’). ‘三国史記’にはない記事が日本史にはとても詳細に記録されている.
それなら倭王室に住んでいた盛旺が帰国して武寧王から王位を受け継ぐことができたかも知れないという推論が可能だ. ところがこれを糾明する 史料はまだ発見されなかった. 付け加えて説明しようとするとブレスワングが逝去した後誤診王(紅王子)の孫であり, 百済国王になったトンソン王の王子ゲイタイ王(継体王・507〜531 在位)が倭王で上がった. その後ゲイタイ王の第2王子センカワングが死んで王位を受け継いだのが 538年倭王室に仏教を布教した百済盛旺だ. すなわちなぜのギンメイワングとしての盛旺の登極であり, あの時から盛旺は百済とウェナラを往き来して両国の王位を兼任したのだ.
日本史学者小林Yasuko(小林恵子)は “百済盛旺 1 8年(540)に盛旺は高句麗の傘性を攻撃して敗れたし, 盛旺はまっすぐに倭国で亡命した. あの時から彼は倭国国地のがナサシノ−ミヤグング(金刺宮)に新しい居所を情と倭国王になった”(‘二つの顔の大王’ 文芸春秋社, 1991)で淑やかだった.
である王室系図格である ‘シンチァンソングシロック’(新撰姓氏録, 815年王室編纂)に見れば日本第30代王人 “フィ(諱) ビダス(敏逹)は百済王族”という名門が史実(史実)で明かされている. 日本古代文献で日本の一古代王が王の実名(実名)として百済王族という記事が直接記録された唯一事項だ. ビダスワング(敏逹王・572〜585 在位)はギンメイワング(盛旺)の第2王子だ. 盛旺の第1王子はその頃百済第27代威徳王だった.
古代日本私だと地では歴代王たちが百済盛旺の子株を奉じて王室祠堂で盛旺を祭祀を行いながら連れられた. その上に 794年第50台桓武天皇(781〜806 在位)が国地
◇ホン・ユンギ韓国外大教授にあった王道を平安京(今の京都)に遷都するやいなや百済盛旺の倭王室管轄祠堂は新しい王道である平安京で移される. その所が今京都の時のHiranoジェントルマン(平野神社)だ.
もちろんこの事実はもう 19世紀の著名な国学者バンノ−ブトモ(伴信友・1773〜1846)が “Hiranoジェントルマンの子株は百済盛旺だ”(‘蕃神考’)と言いながら糾明した事がありながら引き継いで今日幾多の史学者たちが認める所だ. 日本王室文献(‘延喜式’ 917 王室編纂)にも百済盛旺子株のまつったHiranoジェントルマンは日本王室が管掌して祭祀仕える祠堂だと記録されている.(次に引き続き)
韓国外大教授 senshyu@yahoo.co.kr
20070731001304010206030000002007-08-01 16:26:002007-08-01 16:26:000
[ホン・ユンギの歴史紀行日本の中の寒流を捜して]<47>日 ギンメイワングは百済で渡った盛旺趙成台