運行開始と路線の拡大
東大門の横に発電所が併設され、1899年4月8日に西大門-清涼里間に開業式を催し、単線未舗装ながらも電車の運行は始められた。途中、鍾路を 東西に貫くルートであった。この時の車両は当時のアメリカの路面電車に見られたオープン型のスタイルで、乗降用扉がなく、車体側面に設けられたステップか ら直接車内へ出入りするものであった。建設時の経緯から、一般車8両とともに当初より貴賓車1両が製造された。運転は京都電鉄から出向した日本人が担ったと言う。電圧は直流600V、軌間は1067mmであった。
当初は電車に対する物珍しさから乗客が殺到したが、後に子供を轢死させる事故が起こると暴動が発生し、電車が焼失する事態まで招いた。これに伴い日本人の運転士は身の危険を感じて全員が辞職し、代わってアメリカ人運転士が着任するまでの1週間、電車の運行は停止された。
光武4年5月18日午後9時頃、再度人身事故が起き、乗客は下車し、付近の群集が集まり、電車のガラス窓を破壊し、乗車券発売所の小屋も破壊された[2]。この際、乗客の米国人が負傷を負ったため、多数の米国人が集まって、群集に向かって短銃を乱射した[2]。その後、兵丁巡檢が派遣され、首謀者七名が護送された[2]。
その後、路線の拡張を計画する。南大門、旧龍山方面への延伸がなされ、車両も増備した。また、電気事業も好調で電車事業とともに拡張工事が必要となり、それに必要な資金を調達するため、漢城電気は米国信託会社に会社を売却し、資金を調達。韓美電気(社長ヘンリー・コールブラン、本社アメリカ)が事業を引き継いだ。
しかし韓美電気は、日本の渋沢栄一の商社へ会社ごと1909年に売却したため[3]、路面電
車と電力ガス事業は日系の日韓瓦斯電気の管轄になった。なお、1910年には日韓併合がなされた。
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