「docdoはわが領土♪ ~わが領土♪」
韓国の中学生の描いた絵

済州島に並ぶ、韓国軍に竹島周辺で拿捕された数十隻の日本漁船

拿捕された日本の漁船「新興丸」(右)、手前は韓国の巡視艇「203号」

李承晩ライン周辺を警戒する韓国船。敗戦当時の日本にはこの程度の船もありませんでした。

済州島で軟禁状態にある日本人漁民。ときどき韓国海軍の軍医が巡回に。
その後も多くの漁船が拿捕されます。捕まった漁民は、基本的に全員が済州島で軟禁状態に置かれましたが、1953年11月、釜山に外国人刑務所が新造されると、ほとんどがこちらに送られました。
乗員1人あたり100万韓国円(ウォン)の罰金で解放される決まりでしたが、船員はみな歯磨き粉などの日用品さえ買うカネがありませんでした。この場合、1日1万韓国円相当で留置されたのです。
そして、刑務所でも食料は外米と麦だけで、おかずは塩味の煮大根と実のない汁だけでした。
釜山刑務所の内部の写真はほとんどないんですが、1953年12月、日本からの支援船が釜山に入り、このとき外国人記者がわずかに取材しています。

釜山刑務所

日本からの缶詰の差し入れを楽しむ留置者
その後、12月頃までに、李承晩大統領の「恩赦」という形でほとんどの漁民が帰国を許されます。海上保安庁のサイトによれば、拿捕された漁船は326隻で、乗組員は3904人。海保の巡視船への銃撃なども15件16隻に及びました。
こうして、サバ、ヒラメ、タラ、グチなどの好漁場だった竹島周辺の海域に日本漁船が行くことはなくなり、韓国が実効支配するようになったのです。

韓国から帰国した抑留された日本人
ちなみに、朝鮮戦争が終結したのが1953年7月27日。それまで韓国海軍は、北朝鮮のスパイ密入国の対策などに多大な労力をかけていましたが、戦争終結で、一気に竹島支配を強めたわけです。
当時の韓国海軍は、艦艇が56隻で、乗員は1万人規模。実態はアメリカから与えられたフリゲート艦と、旧日本軍が残した小艦艇が主で、あまりに弱小な海軍でした。とはいえ、前年の1952年までに、海軍士官学校で7期500人が卒業しており、訓練もそれなりに進んでいました。しかも、軍艦以外に漁船を改造した特設警備船200隻も竹島周辺の警備に動員していました。
いくら韓国の海上警備が弱小とはいえ、当時の日本の海上警備隊はさらに弱小で、まったく韓国に対抗することはできませんでした。
竹島問題は、アメリカがマッカーサー・ラインに竹島を含めなかったことが始まりです。前述したように、アメリカはそのミスを認めていますが、当時は、日韓紛争が起きるように、アメリカはわざと竹島を外したという説が流布しました。目的は、日本の再軍備を迅速に進めるためです。
その真偽はともかく、以後、日本の海上保安庁と海自は、アメリカの意向どおり拡大していくのでした。

有楽町の「反韓運動」


韓国軍に拉致され拷問を受けた日本人竹島漁民