江南は中国の地域だが、
韓国人は勘違いしていないか?www
上海の南に河姆渡(かぼと)という遺跡がある。1973年から78年までの文化大革命のさ中に、ここからB.C.5 千年の地層から栽培稲の稲束が発見されて、世界中は騒然となった。世界4大文明と称される中国の「黄河文明」と時を 同じくして、長江(揚子江)流域にも古代文明が存在していた事実が明らかになったのである。発見された稲束は、10 cm~80cmに及ぶ厚みを持った稲籾(もみ)とわら束だった。 この膨大な量から、これらの稲は外部からの転入ではなくここで栽培されていたものであることが明らかであった。この 発見は、文明の発祥のみならず、稲の発祥についても、これまで言われていた学説を覆した。これまでの稲の発祥に関す る学説は、日本の植物学者である渡部忠世氏が唱えた「インド・アッサム地方-中国・雲南省が稲の起源」というものが ほぼ定説だった。 中国の考古学者達はこれに異論を唱えていた。考古学的な証拠がない、雲南省の稲遺跡は紀元前3000年くらいで、稲 はもっと古くから栽培されていたはずだと。そして河姆渡遺跡の発見である。今から7000年前に稲があったのだ。 さらに、これらの稲は野生種ではなく、日本の縄文時代におそらくは焼き畑で栽培されていたと思われている熱帯ジャポ ニカと同じものであることを、同じく日本の植物学者が証明した。このホームページでは頻繁に名前が登場する、静岡大 学農学部助教授、佐藤洋一郎氏である。しかも佐藤氏は渡部博士の弟子である。弟子がDNA分析という最新技術を用い て、師の説を訂正したのだ。「DNAが語る稲作文明」(日本放送出版協会) 遺跡からは、野生種「ルフィポゴン」も見つかった。栽培の元になった野生稲である。これで、ここが稲の栽培源流地で あることがほぼ確定したと言える。現在野生種はこの地方には生育していないが、水牛や象の骨が発掘されているので当 時はもっと気温が高く、上海の北あたりまで野生種は生えていたと考えられる。河姆渡遺跡発掘の後、長江流域で次々に 遺跡が発掘され、今の所一番古い遺跡は14000年前の「仙人洞遺跡」とされるが、これは栽培稲の測定はされていな いので、今の所学会定説としては「稲は、長江流域でほぼ10000年前くらいに栽培が開始された。」と言うことで合 意をみているようである。細かい年代測定については諸説あるが、栽培稲がインドではなく、長江中下流域で生まれたと いう説には反対意見はないようだ。 これらの遺跡の発見は、古代、米を基盤とした文明がこの流域にあったに違いないという推測を生み、予想通りその後か ら、B.C.4500-B.C.2000にかけて、城壁のある都市が長江流域一帯に建設されていたことが判明した。 下流の良渚(リョウジョ)文化は、黄河文明の「夏・殷・周」に最高の社会的身分制度を表わす「鼎(てい)、豆(とう)、 壺(こ)」という青銅器三点セットを伝えたことも分かってきた。まだ文字の発見はないが、(発見は)時間の問題とい う学者もいる。 日本への稲のルートについても、朝鮮半島経由というのがこれまでの主流だったが、日本最古と言われる岡山県朝寝鼻遺 跡のプラントオパールは、水田稲とも陸稲とも区別が付かない「河姆渡」型の稲であり、起点と終点が同じと言うことに なれば、必ずしも朝鮮を経由していない稲がある可能性も俄然高まったといえる。またかって柳田国男が唱えた、いわゆ る第三のルートといわれる「南からの海上の道」についても、このルートを通ってきた稲が熱帯ジャポニカであることが 佐藤助教授の分析で明らかになっている。 つまり稲は、3つのルートの全てから日本列島にもたらされたことになるのだ。それにしても、静岡大学の佐藤先生は国 際的に活躍している。全く「泣く子も黙るDNA」である。

これまで黄河文明は中国古代文明の代名詞とされてきた。中国北部では、狩猟、採集生活をいとなんでいた旧石器時代の 遺跡が山西省丁村(ていそん)などで発掘されている。旧石器時代の人々は水辺でキャンプ生活をし、石器を使用していた。 のちには植物栽培や家畜飼育もはじまる。1970年代には前6000~前5000年にさかのぼる磁山文化や裴李崗文 化という新石器時代早期の遺跡が黄河中流域でみつかった。だが近年の中国考古学の成果は、黄河流域以外の地域にも存 在した多様な地方文化の実態を明らかにし、中国文明の起源を一元的にみなしてきた旧来の解釈はすでに過去のものとな っている。 中国の稲作の起源は諸説あるが、前7000年頃の長江中流域の彭頭山(ほうとうざん)遺跡から籾痕(もみこん)のある 土器、同じく長江中流域の遺跡から前6000年前の栽培稲1万2000粒、さらに長江下流域の河姆渡(かぼと)遺跡 で大量の稲籾が発見され、三星堆遺跡からはさらに大規模な農業王国とでも呼べる痕跡が報告され、農耕に基盤をおく長 江文明の存在が明らかになった。日本文化とふかい関りをもった江南の文化遺跡の各時代はつぎのように整理される。 河姆渡遺跡 約7千年前から5千5百年前 馬家浜文化 約6千年前から5千年前 良渚文化 約5千2百年前から4千2百年前 馬橋文化 約4千年前から2千7百年前 これは日本の文化区分にあてはめると、縄文時代の早期から弥生時代前期にあたる。河姆渡遺跡は、中国浙江省にある長 江下流の新石器時代の遺跡で、1973~78年の2度の調査で、黄河文明と同時期に長江文明とでも呼ぶ一大文明が、 河南地方に存在していたことが明らかとなった。今の所、中国最古級の新石器文化である。浙江省にあり、7000~ 5000年前に稲作をおこなっており、稲の籾が大量に出土した。 動物の肩甲骨や木で作った鋤で土地を耕し、貝殻で作った刃物で稲の穂を摘んでいた。木で作った杵が見つかっているの で、籾を臼に入れて脱穀していたようだ。米は甑を使って蒸して食べていた。飼っていたブタは食料であり信仰の対象で もあった。石斧で木を切り削って高床式の建物を低地に建てて住んでいたと考えられ、その形態は佐賀県菜畑遺跡の有様 と酷似している。杭州市にある同省文物考古研究所によると、河姆渡遺跡では1970年代の発掘調査で、5千9百年か ら6千4百年前の層から赤漆塗りの椀、7千年前までの層から漆塗りとみられる筒が出土したほか、ウルシの花粉や漆が 塗られたとみられる土器なども見つかっている。 現在日本の漆工品で最も時代が古いとされているのは、福井県三方郡三方町の縄文前期遺跡である鳥浜貝塚からの出土品 で、約6千年前の朱塗りの櫛だが、世界最古の漆工品は、約7千年前の河姆渡遺跡から出土した朱塗り椀という事になっ た。 河姆渡の人々は、狩猟採集とともに稲作を行っていた。その暮らしの中で、どのように漆を発見したのかそれはいまだに 謎だが、固まった漆には強い接着力があるから、初めは接着剤として用いたのかもしれない。現に河姆渡遺跡から、漆で 接合したとみられる農耕具が見つかっている。