宋基香さん(82)=終戦時18歳が新聞に答えた日帝時代
http://qnet.nishinippon.co.jp/travel/busan/news/20090807/20090807_0001.shtml西日本新聞 2009.8.7

宋基香さん(82歳)
13歳。女学校の入学式は4月8日でした。近くの道端には「桜のトンネル」があって、今から膨らみきろうとする花びらがきれいでした。
新入生60人がそろった講堂で、丸顔の田中校長先生が力強く読んだ日本語が、今もはっきりと頭の中に残っています。
「なせば成る なさねば成らぬ何ごとも 成らぬは人のなさぬなりけり」(=江戸後期の米沢藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)の歌からとされる句)
「人間やればできるのだ」と、そのとき強く思ったのです。
日本語を初めて習ったのは、故郷・忠清北道陰城郡(現在の韓国中部)の小学校に上がってからでした。私たちの村は小白山脈の西側にある典型的な農村地帯で、もともと人情豊かな土地です。
入学から3日もすると担任のイワイ先生が「飛行機」という日本の歌を教えてくださり、自宅で歌うとおばあさんが喜んでくれました。
私が生まれた1927年は、日韓併合の年から17年後です。日本敗戦(朝鮮解放)までの折り返し点に当たります。国語を日本語と定めた第1次朝鮮教育令からも、16年がたっていました。
私は4男2女の次女。村の役所勤めだった父は、当時は日本の官吏ということになります。ですから私にも、進んで日本語の単語を教えました。おかげで私は小学1年の2学期には、日本人の先生の話をほかの子供たちに伝えることができるほどでした。
日本による朝鮮人の「皇国臣民化」が進んだのは、日中戦争(37年)以降と聞いています。個人の名前を日本風にする創氏改名(40年)で、私の名は「松本和子(まつもとかずこ)」になりました。「宋」という姓の人は、理由は分かりませんが松本か松山になったのを覚えています。
創氏改名には家族も、父の兄弟も反対しませんでした。父は公務員ですのでむしろ積極的で、私も従いました。同じクラスに同姓同名の日本人がいて、「松本!」と先生に怒られるのはなぜか私ばかりだったので、とても嫌でしたけれども。
ほかにも嫌なことは、もちろんありました。
女はチマチョゴリしかはかないのにもんぺを強制されましたし、「朝鮮人のくせに贅沢な運動靴を履いて学校に来るな」と言われた女友達もいます。
白丁出身の知り合いのお兄さんが「卑しい身分から抜けるために」と陸軍特別志願令(38年)に応じ、涙で見送ったこともつらい出来事でした。
でも、人への思いやりなど日本人には学ぶことが多かった。日本人の家に遊びに行くと、子供の私にさえ母親が玄関で座って出迎えてくれて。
私は6人の母親になり、娘には日本語を学ばせました。日本と韓国は理解し合わなければならないからです。あの桜のトンネルは朝鮮解放後に「日本の花だ」と切り倒されましたが、「町じゅうが寂しくなった」と後日復活しました。二つの国の間柄も「なせば成る」と思うのです。