韓国の毎日新聞に「合気道は韓国が最初、日本に渡り発展」と記載!
http://news.mynavi.jp/c_cobs/news/getnews/2012/04/post-1752.htmlガジェット通信

柔道や空手、合気道に剣道など日本には様々な武術があり、世界を見渡すと少林寺、少林寺拳法、ボクシング、カポエラなど数々の格闘技がある。その中で護身術として国内で利用者が多い『合気道(あいきどう)』に今回はスポットを当てたい。
なんとこの合気道だが、韓国発祥だという。そのことが掲載されているのが韓国でも発行されている『毎日新聞』。1991年に発行された韓国の毎日新聞に気になる見出しがあるのだ。そのハングルを訳してみると次の様になる。
「『韓国(大韓)合気道、柔剣術』道場が最初(嗃矢)
我が国のチェ・ヨンスル(チェ・ヨンス)氏が伝えた『創始道主』
日本に渡り発展、“日本武道”間違って認識」
以上の様に書いてある。この見出しが本当なら、合気道の歴史がおかしな事になってしまう。しかし韓国では合気道のことを「ハプキドー」と呼ばれておりその漢字表記は「合気道(合氣道)」となっている。
しかしあくまでハプキドーと合気道は別とされており、上記毎日新聞に書かれている説も『Wikipedia』にあるのだ。その一部を引用すると、「日本で大東流合気柔術を学んだ崔龍述(チェ・ヨンス、Choi Yong Sul)が戦後、韓国で『大韓合気柔拳術道場』を開いたのが始まりとされる。その後、テコンドーの蹴り、ボクシングのパンチなどを研究、統合して現在のスタイルになった。1958年ハプキドーを名乗り始める。漢字では『合気道(合氣道)』と書くがこの時点ですでに日本の合気道(Aikido)とは全く別の武道といえる」と書かれている。
この記述が正しければ、日本の「合気道」と韓国版合気道「ハプキドー」は別ということになる。さらに調べていくと現在の韓国の「ハプキドー」は、テコンドーのような蹴りなどの打撃技に投げ技、関節技を組み合わせたもので日本の「合気道」とは全く異なる物になっているという。また、ハプキドーを元にした武道「韓氣道」、「國術院」、「花郎道」という物まで誕生しているようだ。
その時代に生まれてない私たちからしたら、どっちが起源なのかわからないのが現状だが、韓国毎日新聞に書かれている「韓国(大韓)合気道、柔剣術」道場が最初(嗃矢)」という見出しが本当であれば歴史がひっくり返ることになる。
しかし先ほど書いたが現在の「ハプキドー」には日本の合気道の要素はほとんど無いそうだ。
合気道の創始者である植芝盛平と、ハプキドーの創始者チェ・ヨンスルどちらが早いかという問題ではなく、もはや別物という見解が強いようだ。
一昔前は「ハプキドー」ではなく「ハッキドー」と呼ばれることもあったこの武道。動画投稿サイト『YouTube』には世界向けに作られた「女性のための基礎ハプキドー」という動画が数多く投稿されている。その動画は日本のイメージである富士山が冒頭に登場しさらに国家である「君が代」が流れるのだ。何故韓国の武道に日本の富士山と君が代が、そして日本人が投稿したのか、韓国人が投稿したのかは不明だが何故このような混同するようなことを? また別の動画では口から火をはくシーンも見られる。本当に別物になってしまったのだろう。
しかし上記の毎日新聞の「最初」という一言が引っかかる。別物なら日本の「合気道」とは関係く最初もなにも無いのだが。あくまで「ハプキドー」が起源だと言いたいのだろうか。
上記の毎日新聞を訳した文章の最後の一文「日本に渡り発展、“日本武道”間違って認識」がまさにそれを語っていそうである。新聞や週刊誌お得意の煽り見出しと思いたいところだが……。
女性のための基礎ハプキドー 1
口から火をはくハプキドー
http://youtu.be/VZ102PswhbI合気道(Hapkido)の起源は日本人ではない新羅人
http://www.canadahapkido.net/hapkido/hapkido_history.shtmlカナダ合気道協会(英語・韓国語)

合気道の歴史
合気道の始原は三国時代以前にさかのぼる。 文献や様々な記録には、新羅出身の源新羅三郎義光が始祖と表示されている。
チェヨンス(崔龍述)さんが韓国合気道の脱出となり、韓国合気道の新しい脈継がれた。 モダンな韓国合気道の発想は、51年2月、チェヨンス脱出とソ・ボクソプが大邱の達成公園交差点での合気道権酒道場の門を開いたのが始まりだった。
ソ・ボクソプ氏が中心になって初めてハプギドを開設して看板式を行った。 この道場で修練した実力者たちが、ソウルやその他の地域へと進んで、今日の合気道を広めることになった。
57年にはサンフランシスコ、ソウルに道場を開いて他の地域にまで本格的に普及し始めた。
また、60年には国内はもちろん米国、英国、ドイツなどの外国に道場を開き、韓国合気道を広めることになって、国際的な武道としての成果を高めることになった。
現在合気道は、我が国の2000余りの道場があり、世界各国に普及しになっており、外国から合気道を伝授された外国人たちが大邱を訪問し、韓国合気道のルーツを確認して正統性を認められようと努力をたくさんしている。
合気術は、先制攻撃よりも防御に重点を置く武芸に絶対生存の戦いに備えた修練苦行の意味が大きい。
日本の武道 合気道を韓国が盗む。
90年代、武田時宗宗家が亡くなった後、合気道の原型となる大東流合気道が公開され始め、それが欧米に広がり。さらにそれが韓国武道界、特にHapkido界へ衝撃を与えた。日本から大東流の書籍・ビデオが流入し、韓国「Hapkido(合気道)」の歴史観が大きく彼らを動揺させていた。
Hapkidoは元々は、その流派の歴史が真に貧弱であった。
・開祖は山中で仙人に会い秘伝を受けた。
・寺院の中で密かに伝承されていた。
・一子相伝の秘術であった。
・高句麗遺跡の壁画に描かれたものが起源だ。
(テコンドー、テッキョン、シルムも同じことを言っている)
・新羅の時代の戦士が行っていた武術だ。
(新羅文化は何も残ってない)
これは、大東流が主張する「新羅三郎義光が創始し、甲斐武田家に伝承、その後、会津藩に引き継がれ、明治の世になって、中興の祖・武田惣角によって世に知らしめられた。その合気の術なるものは見る者を驚嘆させるに充分な神秘・強力なものであった」
韓国の主張は、その正当性に対抗するだけの力を持たない。
その動揺の中で浮上したのが韓国Hapkidoの実質的な開祖・崔龍述が大東流・武田惣角の弟子であったという事実だ。(実際は、そういう記録は無く、嘘の発言だと言われている)※1
(※1 武田惣角の弟子の中に吉田朝男という日本名は居なかったと判っている。)
そして、これを受け、上記のHapkidoの歴史は下記のように捏造した。
まず、韓国の言論や雑誌に以下の記事が載った。
「武田惣角が当時15歳の弟子の崔龍述(日本名 吉田朝男)を連れて北海道にやってきた。暴漢に襲われたが、たちどころに撃退。これを木陰で見ていたのが、後の合気道開祖・植芝盛平で、旅館を訪ね、武田惣角に教えを願ったが「おまえの人相に悪相が出ている。教えるわけにはいかない」と断られた。数度通ったが同じだった。植芝盛平はなんとかして武田惣角と崔龍述の稽古を覗き見ようとしたが、当時、大東流の道場は外から覗けない密閉した部屋であったので、出来なかった。そこで彼は崔龍述に贈り物を贈って大東流の手を習った。後に武田惣角はこれを知り、崔龍述を叱りつけ、植芝盛平を呼び出し、「子供を騙して武道の手を習うとはなんという卑怯な男か!」と叱ったので、植芝盛平は小さくなって謝った」
後日、韓国の某ハプキドサイトは、この全文を掲載し、これが合気道(Hapkido)の歴史とされた。
「大東流の正式な継承者は崔龍述。Hapkidoこそ正式の大東流」という説が、「大東流の始祖は新羅人である源新羅三郎義光」※2 という説とともに主張されはじめていたのだった。
(※2 そもそも源新羅三郎義光(源 義光)は新羅人ではありません。日本人です。)
韓国の師弟関係というのは日本とは違う文化のようである。師匠が教えている間は厳しいほどに絶対服従であるが、独立すると全く縁を切ってしまう事が多いようだ。
「韓国武道では上の先生から離れることは縁を切ることだ」と言われる。
テコンドーも師弟関係で縁を切る者が続出して、同じような経緯を辿ろうとしたが、国家権力による強い圧力で管理・監視された為、あまりバラバラに別れずに済んだと思われる。
崔龍述の弟子も崔龍述が亡くなると、残した遺品や資料は全て捨ててしまったという。
韓国合気道の創始者 崔龍述は単なる嘘吐き?
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Hapkidoの創始者 崔龍述の、ころころ変わる矛盾した証言
1962年出版「合気術」「総裁崔龍述先生修道記」
1899年7月、忠清北道・黄澗で次男とて生まれる。少年時代両親と親しかった日本人製菓業者・山田大吉に可愛がられる。
1982年米国でのインタビュー
1904年生まれ。少年時代を忠清道永東で過ごす。日本人の飴屋・森本に誘拐され日本へ連れていかれる。ずっと不平を言って泣いていたので、困った森本は山口県の門司で少年崔龍述を捨てた。言葉もわからないまま大阪まで歩いていった。
1962年出版「合気術」「総裁崔龍述先生修道記」
1908年、山田大吉が製菓業を中断し日本に帰国する際、少年崔龍述を連れて行く。山田氏の故郷、九州・八幡市?(このような名前の地名は無い)で少年は望郷の念にかられ帰りたがり、山田夫妻を困らせた。夫妻は元武士であった寺の住職・山本秀雄に崔龍述少年を預け、旅立った。山本と少年には情が通い、山本は少年を養子とした。4年経ち14歳の時、山本の友人であった武田惣角が来訪した。山本は崔龍述を門下に勧めた。武田惣角は崔龍述を含む5人の門下生を連れて新潟県信州市信州山?に入り、8年間武術修行をした。
1982年米国でのインタビュー
警官に保護されたが身寄りがないと知ると警官は彼を京都の寺に預けた。住職は渡辺金太郎と言い、そこで2年間暮らした。渡辺は武田惣角と親しく、彼を養子にすることを勧めた。惣角は吉田朝男という日本名を与えた。この時11歳であった。この後、惣角の家と道場があるアケダのシンス山に行き、彼の家で20年を過ごした。
1962年出版「合気術」「総裁崔龍述先生修道記」
大正8年下山、東京日本橋に6年間居住。この間、武田惣角は皇室で大臣たちを教授。以後、武田惣角は全国に巡回。北海道北見沢市に8ケ月居住。旭川で5年過ごし、合気術を練磨・教授した。小樽市色内町1丁目45で渡辺金太郎が営む旅館で崔龍述は武田惣角に父のように仕え
1943年、武田惣角は高齢と病で重態となり、北見沢市に住む息子に連絡をとった。惣角は虻田村で87歳の生涯を閉じた。崔龍述は韓国へ帰国
1960年3月、大韓合気術武道会と道場に命名し合気術を広め、大韓合気術武道総本部を大邱に置いて全国の合気術道場を統轄した。
1982年米国でのインタビュー
28歳の時、惣角や高弟たちとハワイへ行き演武をした。惣角は日本の敗戦を恥じ、自ら食を絶って死んだ。その時、惣角は大東流のすべての技を伝承したのは崔龍述ただ一人であると言い残した。」
武田惣角はシンス山(存在しない地名)等の山に入山した形跡は無く、その頃は湧別で大東流を佐川幸義、堀川幸道、植芝盛平らに教えている。武田惣角が皇族・大臣に教授したりハワイで演武した事実もなく、青森で客死するのは1943年、83歳であった。
「合気術」は崔龍述が監修している。
この中には日本中の合気術の有段者たちは沖縄戦に投入し惨死させられた、と訳のわからない記述もある。(だから大東流の伝承者は崔龍述しか生き残っていないという主張が生まれた。)
実は崔龍述が誰から大東流を習ったかについての有力な証言がある。
吉田幸太郎の弟子であった米国の空手家リチャード・キム(沖縄の人ですので「金武」と表記すると思います)が、ハワイのハプキド道場の指導者の問い合わせに対する回答されたものだ。

その中で彼は吉田幸太郎と崔龍述=吉田朝男との縁組関係は否定したものの、崔龍述が吉田幸太郎の優秀な弟子であったことを述べている。
http://www.potku.net/forum/viewtopic.php?f=7&t=5461 崔龍述が何ゆえ「自分は武田惣角の一番弟子」と語り、この吉田幸太郎のことを語らなかったかは本人の事情だろうと考えるほかは無い。武田惣角のほうが武術家として名を知られた人物であったからという単純なものであったかもしれない。また吉田幸太郎門下で、どのような生活を送っていたかも、今となっては判らない。
崔龍述には独立回復後、外国帰りの独立運動家が政権を牛耳り、ナショナリズムが高まった韓国では、売国奴を意味する「親日」と弾劾されかねない経歴があり、それを隠す目的があったのではないかと想像する。』
韓国の多くの武術が韓国起源と主張している背景は、親日派粛正と関連があると推測できる。