日本軍の朝鮮将兵たち
1. 日本軍の朝鮮人中将
日韓併合以前から、日本の士官学校には朝鮮人の入学が認められていた。
多くの朝鮮人が日本の士官学校を卒業し、日本軍の将校として活躍した。李王垠
(1897/10/20~1970/05/01)
李氏朝鮮最後の王位継承者。
1910 年、日韓併合に伴い、日本の皇族に準ずる待遇を受ける。
1920 年、日本の皇族の梨本宮方子女王と結婚。
1926 年、李王を継承。
1907 年、日本の陸軍士官学校(第29 期)を卒業
1935 年、陸軍歩兵大佐に昇進。宇都宮の歩兵第59 連隊長
軍務を重ね、1940 年には留守第4 師団長・陸軍中将に昇進
1945 年、軍事参議官に昇進し、終戦を迎える。
1947 年5 月3 日、王公族制度廃止により李王の資格を失う。
1963 年、日韓国交正常化交渉が始まると、韓国国籍を回復して帰国。
1970 年、73 歳で死去。
洪思翊
(1889~1946/9/26)
朝鮮出身の日本陸軍中将
1914 年、陸軍士官学校(26 期)卒
1923 年11 月、陸軍大学校(35 期)卒
1939 年9 月28 日、支那派遣軍御用掛
1940 年8 月1 日、留守第一師団付
1941 年3 月1 日、陸軍少将・第108 旅団長に昇進
「自分は朝鮮人の洪思翊である。唯今より天皇陛下の御命令により、指揮を執る。異議のあるものは申し出よ」
1944 年3 月2 日、比島俘虜収容所長に就任。10 月26 日、陸軍中将に昇進。12月30 日、第14 方面軍兵站監に就任。
戦後、連合軍から収容所長時代の責任を問われる。
1946 年9 月26 日、マニラで死去(法務死)
2.日本軍に志願した朝鮮人
1937 年、日中戦争が勃発すると、試験的に朝鮮人の志願兵の募集が行われた。
朝鮮人に“徴兵制”が適用されたのは終戦直後の1944年である。
驚くべき志願率の高さ 朝鮮人志願兵の志願率(昭和20年5月の内務省資料)年代募集人員志願者数倍率1938年40629467.31939年6131252820.41940年306084443281941年320814474345.11942年407725427362.41943年630030329448.1国立公文書館 アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
朝鮮及台湾ノ現況(本邦内政関係雑纂/植民地関係)
レファレンスコード:B20020312847 (志願率に関しては17画像目)
大漢門前に集結する朝鮮人志願兵
3.写真でみる朝鮮人志願兵の演習
第一回の朝鮮人志願兵の手による市街攻防戦の演習3 月10 日
撮影 西村眞夫ソウル鐘路通にて
鄭勲少佐統監の朝鮮軍精鋭の活躍アサヒグラフ
昭和14 年
3 月29 日号
ソウル鐘路通 朝鮮銀行前の実況 3 月10 日 梅村次男 撮影
4.積極的に戦争に協力していた朝鮮人たち
「朝鮮人は、日本人以上に大戦を熱狂していた」と証言する教授
崔基鎬(チェ・ケイホ)氏
1923 年生まれ。
明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶大学客員教授
最近韓国では、親日派という言葉をつかって政敵を糾弾する動きがあります。しかし、そもそもおかしいのは親日派という言葉です。
戦前から東京にいた私は、年に1~2 回はソウルとか当時の平壌に行きました。
その当時の韓国人は日本人以上の日本人です。劇場に行くと映画の前にニュースがありましたが、例えばニューギニアで日本が戦闘で勝利をおさめたという映像が流れると、拍手とか万歳が一斉に出ます。
私は劇場が好きで、日本でも浅草などに行って見ていましたが、韓国で見るような姿はごくわずかです。韓国ではほとんど全員が気違いのように喜びます。
それは当時としてごく普通の姿ですから、特別に親日ということではありません。だから基本的に親日派という言葉はないのです。それを無理やり「親日派」という言葉のレッテルを貼って糾弾する。それが今の韓国で、政治的にやられていることです。
平成16年12月号 漁火(いさりび)」新聞6・7面
見学の女生徒による、朝鮮人将士への感謝の黙祷昭和14 年3 月10 日
撮影 西村眞夫
アサヒグラフ
昭和14 年3 月29 日号
日本人と共に戦った朝鮮人 国際派日本人養成講座 190「お家の事情」の歴史観 伊勢雅臣編集長
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか?
一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備があるのか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の中で暗殺されている。
もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満州国軍中尉だった。
こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。
一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。
日本の権威を悪用した朝鮮人
1.日本人になろうとした朝鮮人
日本風の名前を名乗り、日本の権威を乱用し始めた朝鮮人 朝鮮人が日本名を名乗るに至った経緯1870年日本国民に対し、「平民苗字許容令」が公布される。
(それまで日本では、武士や貴族しか「family name」を持っていなかった)1875年日本の全国民データを把握する為、全国民に苗字の公称が義務づけられる。
(これ以降、全ての日本人が「family name」を持つようになる)1910年
日韓併合朝鮮の国民データを把握する為、総督府が、それまで朝鮮には無かった民籍(戸籍)の整備を始める。この際、大量の朝鮮人が「日本名」で民籍に登録する騒動が勃発する。1911年総督府は、朝鮮人と日本人を区別する為、「改名禁止」の法令を出す。
布令)1911年11月1日総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」 で「内地人ニ紛ハシキ姓名」を禁止。1932年満州国誕生満州国の首都・新京
中国東北部に、日本の手によって清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を元首とする「満州国」が誕生。(同時に朝鮮人の入植が始まる)
入植した朝鮮人が、満州国の人々に「元は中国の属国の民族」と蔑視された為に、日本風の姓名を名乗る事を希望する。
1939年彼らの要望により「創氏改名」が発令。(1940年に施行)322万戸(人口の80%)が、日本風の氏を名乗る。
上記戸数の出典)『朝鮮を知る辞典』 平凡社 1986年
創氏改名の概要
日本の「family name」には、氏族名を表す「姓」と、住居地を表す「氏」の二種類があった。
(今の日本では、この二つは混合されている)
一方、朝鮮の「family name」は、氏族名を表す「姓」だけであり、「氏」は無かった。
そして、元々は日本人も朝鮮人も、民衆の多くは「family name」を持っていなかった。
日本人は「氏」を、朝鮮人は「姓」を名乗りだす
1870年、戸籍の整備に伴い、日本では全ての国民が「氏」を名乗る事を義務付けられた。
1910年、朝鮮で戸籍が整備されると、朝鮮では全ての国民が「姓」を名乗る事を義務付けられた。
*なお、「姓」は氏族名である為、「同姓の人とは結婚できない(近親婚を防ぐ為だと思われる)」「女性は結婚しても姓が変わらない(家族名の役割をはたさない)」等の欠陥があった。朝鮮人に日本風「氏」の許可
満州に入植した朝鮮人の要望に応えた日本政府は、朝鮮人に従来の「姓」の他、さらに「氏」を名乗る事を義務付けた。
そして、この「氏」の方だけ日本風にする事を許可した。
*前述の通り、「姓」には「同姓結婚できない」「家族名の役割をはたさない」等の欠陥があった。ゆえに、朝鮮人に「氏」を許可する事は、日本・朝鮮の戸籍管理を統一する点でも都合が良かった。
注釈)「First name」も日本風に変える事も許可されたが、この場合は手数料が取られた。
李王垠
洪思翊
3 月10 日

昭和14 年3 月10 日