
言語と文字は民族文化形成に中心的な役目をすることが事実だ. 古代我が民族には固有した言語はあったが文字はなかったようだ.
現在三国の言語を等しい言語の方言で見ても, 系統が同じ別個の言語で見ても間に三国の言語たちはお互いに違ったという主張がある. また一つのきりきりに対立される主張は三国史記や三国有史の内容を根拠にして三国はほとんど同じな言語を使ったというのだ.
電子の主張は現在韓半島で単一言語が使われているしまた中世にしろと言うそうして来たと言っても, 古代にも必ずグロしたという法はないと言う. 古代には単一言語国家が珍しかったが, 国々の間の言語が同じだったとまで主張することができるのかというのだ.
古代韓半島の南部と北部の言語差を特殊な方言的車だと言う学者たちは, この言語たちが系統を異にする言語はいやとか, 本来一分岐点から出たことだということを強調している. しかしこの点は三国の言語が違ったと主張する学者たちも認める事実だ.
系統が同じだと言って単一言語であるのではない. 例で現代スペイン語とポルトガル語は一分岐点から出た同一系統の言語だが, 厳然に違う.
三国の言語が違ったと主張する学者である李基文は高句麗語に代表される付与係の外多くの言語たちと新羅語に代表される限界(韓系)の多くの言語が近い親族関係にあったはずだと言う. 彼は高句麗語が新羅語や百済語に劣らず古代日本語とも近い親族関係にあったはずだと推測している.
高句麗語と百済, 新羅語が違ったはずだと思う見解の中では, 高句麗語を含めた付与係の多くの言語たちを韓半島言語と分離してツングース語派-今日シベリア東部, サハリン, 満洲, 身の丈などに分布しているアルタイ語族の一派-に所属させる見解がある. これは日本学者たちが主張している見解だ.
高句麗, 百済, 新羅三国の言語が意思疎通が全然出来ない位に違ったり, 全羅道, 慶尚道方言程度の差に過ぎなかった. と言う絶え間ない論争は日帝時代の一人学者たちから始まったことで見なければならない. これらの主張は韓半島中南部言語は南方係で, その北である高句麗や付与の言語は北方係言語と主張して来たのだ. すなわち韓半島は二つの別個の言語を使った民族というのだ.
三国の言語が同じだったと主張する人々は高句麗と百済の支配層言語が同じだったと見る. これらは三国史記や三国有史をその根拠で持っているのに, 三国史記高句麗長寿王便に見れば高句麗の諜者である僧侶抉ることが百済でしのび込んだ事が記録されている. "抉ることは罪を犯して逃げて来たことで偽装して百済でしのび込んだ."という内容がそれだ. もし高句麗と百済がお互いに使う言語が違ったら抉ることが百済でしのび込む前に百済語を習わなければならないじゃないのかという話だ. しかし記録にはそんな内容が見えない.
百済将軍五井晩年とゼズングゴルルが高句麗で亡命してから後で開路王を攻撃して生け捕ることを見ても百済将軍が高句麗人々と意思疎通に全然差し支えがなかったことを分かる. これでBoA高句麗と百済の支配層の使う言語が同じだったと見るのだ.
も百済下層民の言語と新羅の言語が同じだったと見る. 百済の貧しい青年書童が新羅の線画公州を連れて来る時, 新羅子供たちに歌を教えて歌うようにしたというところでも両国の言語が同じだったことを分かる.
が以外にも通訳なしに高句麗, 新羅, 百済, 伽揶, 倭などがお互いに意思疎通をしたことを分かる記録があちこちに見える. その例で階伯将軍と官倉の対話, ヨンゲソムンとキム・チュンチュの談判, 百済人建築家父誌が新羅へ来て建築工事をしたことなどをあげることができる.
北朝鮮学界の公式立場(入場)は三国の言語が同じだったことは勿論でもう部族国家時期から韓半島では等しい言語が使われたというのだ. 三国志や後漢書など中国四書で指摘する韓半島部族国家たちの間の言語の他の点や, 三国史記に出る固有名詞たちの語源的解釈が現わす三国言語の差は皆方言的差に過ぎないということが北朝鮮学者たちの見解であり, これは私たちの学者たちもたいてい受け入れている実情だ.
国語根研究に独歩的な業績を残した北朝鮮の代表的国語学者である愉悦さんは <三国時期リドに対する研究>と <朝鮮末の歴史>で有名だ. 三国時期と言う(のは)三国時代を言って, 彼は三国時代のこの二つ(吏読)を通じて国語の根を確認した. 彼は各種歴史書に残っている三国時代これも資料, すなわち人名前, タングイルム, 官職名前など皆 8百になって行くの表記を一つずつ解いて比べる実証的方式で 1500余年の前国語の姿を捜し出した.
彼の研究成果が南側に知られながら相対的に国語の根探し研究成果が少なかった学界から "ほとんど完璧な研究結果"という評価を受けた.
三国各国間に使う単語にも少しずつの差が発見される. 山を言う時新羅と百済では無理と言って, 高句麗では煎じなさいと言ったと言う. また海の場合新羅ではバラルが海の古語だが高句麗では全然違ったナミと呼んだと言う. 新羅で松を指称するブラシは高句麗語で筆だと言う. しかしこのような冷たくは現在我が国のの中で使われるなまりや, または南韓と北朝鮮で書いている単語の差位だったと見る.
中国の方で記録した歴史書にも馬韓, 辰韓, 弁韓の言葉に差がなかったと記録されていて付与, 高句麗, 百済は付与系統と言う(のは)記録のある点等は意思疎通が円滑したという推測ができるようにしてくれる.
も三国時代には多くの人口をお互いに確保するために争ったし変更の住民たちが三国にお互いに選り好みしないで行ったり来たりした点と数百年の間戦争を通じて領土的にお互いに重なった場合が多かった点等を考慮して見る時三国がお互いに相手の言語に対して医者疎通に困難を経験するほどだったと見ることは難しくて, 日常的な意思疎通では問題になるところがなかったと考えられる
国語史の時代仕分けで中世に先に進む一番早い時代の国語. 国語の文献資料は昔に上がるほど少なくて内外の史蹟(史籍)に記録された固有名詞たちに限っている. 古朝鮮を含めて付与・玉箸・はい・馬韓・辰韓・弁韓などの言語に対してはいくつの人名・地名・官職人を漢字で書いたことが伝えるだけだ.
高句麗・百済・新羅の資料も今まで伝えるのが多くなくてその言語たちの素顔を明らかにしにくい. 資料は少ないけれど期間がとても長くて一言で古代国語と言うには無理な点がある. ここには次の三つの観点があり得る.
第一, 一番広くBoA古代国語は上に入った多くの国の言語を包括することで見る. 第二, 高句麗・百済・新羅三国の言語を包括することで見る. 第三, 狭くBoA新羅の言語を示すことで見る. 三番目観点に立ったら古代以前に上古(上古)を設定することもできるでしょう.
今までの研究結果によれば上に言った早い時期の言語たちは本来は一造語(祖語)から出た分岐点たちで, 北の付与係(扶余系)と南側の限界(韓系)で大きく分けられていた.
高句麗の言語は付与係に属して百済・新羅・伽揶の言語は限界に属する. 6世紀に伽揶が新羅に併合されて 7世紀後半に高句麗と百済が滅亡した後, 新羅の言語で国語一本化の道が開かれるようになったし, 新羅語を近刊で中世国語が高麗初に個性で形成された.
ところでこの地方は高句麗の高地(故地)だったからその方言には高句麗語の要素が頻繁に残っていたことに推定されて, 百済語は西南方言にその跡を残した
古代三国の定立の時から高麗建国以前までの国語.
古代の韓半島と満洲の一部には高句麗語・百済語・伽揶語・新羅語がそれぞれ存在したが新羅が三国を統一した後には韓半島で新羅語が通用した. 国内外四書(史書)の記録を通じてこれら言語の性格を断片的にうかがうことができるのに, 共通される剃りあるがお互いに違う剃り多かったことと見える.
新羅語と百済語はお互いに非常に似ていたが高句麗語は彼らと非常に違ったと見当がつく. この言語たちの具体的な姿は非常に制約されたことではあるが国内外の史書に現われる人名・地名などの表記やこの二つお問い合わせ表記, 〈三国史記〉 地理誌の地名表記などを通じて察することができる.
しかしその対象にすることができる語彙数はあまり多くない. 新羅語はこれら資料外にも郷歌 25数の次子表記(借字表記), 古代日本語に反映された借用語などでその性格をどの位具体的に敍述することができる.
高句麗語
高句麗は三国の中一番先に中国の漢字文化と接触したはずだから高句麗でも漢字を利用して国語を表記する方法が発達されたことを易しく推測することができるがその資料はあんまり残っていない. 次子表記資料として金石文にこの二つに記録された "中", "節", "之"の三つの字が高句麗語を表記したことだが, これらは新羅イドムンにも現われる.
イドムンだけではなく国内外の史書でも高句麗の語彙を一部捜すことができるが, 高句麗語は走路 〈三国史記〉 地理誌の圏 35, 37の地名表記を通じてその姿が分かる. この記録は高麗時代に金腐食が記録したことで, 特に地名という特殊な固有名詞を記録したことなので資料の性格が非常に制限されたことではあるが現在としてはこの以上の資料を捜し出すことができない.
が資料たちを通じて把握される高句麗語語彙数は 70個内外やこれだけ持ってからも高句麗語の位置をどの位推正することができる. この語彙たちの中には他の言語で捜すことができないものなどもあるが大部分が新羅語, アルタイ制御(特にツングース制御), 古代日本語など他の言語の語彙と対応される. 特にアルタイ制御の間には捜査(数詞)の一致する事が珍しいのに高句麗語と古代日本語の間には明らかな一致を見せる. これは二つの言語が同じ系統を持ったことを意味する.
今まで明かされたことによれば高句麗語は古代日本語・満洲語・モンゴル語背中に比べて語末集め(語末母音)が脱落した姿を見せて, 古代日本語, モンゴル語との対応で見る時第2音節以下で t口蓋音化を経験したことで現われる.
百済語
百済の支配層が高句麗で祈ったから初期の支配層は高句麗語を使ったが被支配層は馬韓語(馬韓語)を使う低層(底層) 現象を見せた. しかし上層の高句麗語が低層の馬韓語を同化させることができなくて百済語は馬韓語の連続で残っているようになった.
百済語の資料は古代三国の言語の中一番少なくて 〈三国史記〉 洩らすのを通じてその姿をうかがうこといるだけだ. 百済語地名は "夫里"になったことが多い. これは新羅語地名の "火"のような系統の物だが高句麗語地名の "忽"とは対照される. しかし語末の集めることをもっと維持している点は新羅語と違う.
百済語でばかり発見される語彙もある. 性(城)を意味する "己"や "只"は新羅語や高句麗語で捜すことができないことだが, 古代日本語にも借用されて使われたという点が特異だ. こんな何種類点を除けば百済語の語彙は新羅語と概して一致することと見える.
百済語は高句麗語と新羅語の緩衝的性格を帯びたりする. 特に t口蓋音化が高句麗語は第2音節以下でばかり実現したのに比べて新羅語では語頭にまで一部波及されているのに, 百済語はその中間的な姿を見せる. 百済語には語中(語中)の "k"が脱落される現象も見える. これは中世国語段階でたくさん見られる現象だ.
新羅語
新羅語資料も皆漢字を利用した次子表記になっている. この漢字はこっそり読む表記[音読表記]だけでなく国語で刻んで読む表記[釈読表記]でもなっている. この方式は地名・人名・官職人などの固有名詞表記, イドムン, 郷歌などにすべて現われる. 新羅語資料は百済語や高句麗語の資料よりたくさん伝えている方だが 〈三国史記〉 地理誌圏3の何例と新羅イドムンに使われたこの二つ文者 30字内外, 郷歌 25数の資料位しかなくてその性格を正確に明かすには充分でない面が多い.
しかしこのような資料たちを通じて新羅語が上では限界制御(韓系諸語)の辰韓語(辰韓語)を引き継いで下では中世国語につながることを分かる. 次に敍述される古代国語の特性はほとんど新羅語資料によるのだ.
音韻
子音体系においては平音系列と有気音系列があったことで信じられる. しかし硬音系列はまだ発達されなかったようだ. 有気音系列もアルタイ共通造語で半期された時点では存在しなかったり後に発達されて出たように見える. 今は古代国語に油性摩擦音(, )があったのかわからない.
ウムゾルマル位置での子音は後期中世国語や現代国語とは違い内破音に発音されなくて "," などの差すことが提訴里どおり発音された. 集め体系は電気中世国語と同じく 7短母音体系だったことと見える. しかし ""と ""にあたる集めることを除き皆今と違い発音された. 母音調和は中世国語でよりもっと力強く守られたことと見える.
漢字音[東音]は概して中国の中古音(中古音)を土台に国語化して受け入れられた. 中国漢字音のイブソングウンミ(入声韻尾)は同音で中古音が反映されたりしたがどの位上古音(上古音)が反映された可能性もある.
中国上古音のイブソングウンミ "*t"(*表示は 再構音を現わす)は新羅音に ""で反映されたし "*k"は ""で反映された. 中国漢字の有声音である全託(全濁) 系列は無声音で, 複雑な運も(韻頭)とウンボック(韻腹)は簡略化されて短母音や二重母音で受け入れられた.
語彙
新羅語の語彙は中世国語とたくさん一致する. しかし中世国語で確認されない語彙もたくさんある. "福, 卜, 巴, 伏" などで表記して "子供"[童]を意味した語彙はツングース制御の語形たちと古代日本語の語彙に対応されるが中世国語には現われないのだった.
固有語と呼ばれた人名・地名・官職人を新羅景徳王(757) 時中国式を倣って二つの字の漢字で直した事は固有語が漢字語に大幅に入れ替えされたことを見せてくれる. 漢字語は中国のたこである漢文を通じて国語に受け入れられた. その他に "ブッ"・"墨"のような語彙は中国の口語 "筆"・"墨"で借用された.
文法
調査は主格(主格)・ソックギョック(属格)・チォギョック(処格)・対格(対格)・ゾギョック(造格)の格助詞と主題の補助詞などが確認される. 他のものなどは中世国語にほとんど現われるものなどだが, チォギョックゾサは "良", "良中", "衣", "矣", "悪中", "中" などでその種類が多かった. この中 "衣", "矣"はソックギョックゾサと形態が同じだった. 主語が現われなければならない所に使われるソックギョックゾサの用法もあった.
活用語尾も中世国語で確認されるものなどが大部分だ. "隠", "乙"で表記する語尾は同名史蹟用法と冠形詞的用法皆を見せるのに元々同名史蹟用法だけ見えたことが後に冠形詞的用法をもっと持つようになったことに推定される.
中世国語で確認されない独特の用法を見せることもあった. 終結語尾 "斉"もそうだが, 長続き胎衣 "音"と推量・未来の "古" などソンオマルオミは中世国語や現代国語では確認されないで現代の一部方言にだけ化石のように残っている語尾だ. 敬語法要素は尊敬法, 謙譲法がそれぞれ "賜", "白" などで表記したが恭遜法要素は積極的に表記して現われなかった.
意図法要素も確認されて, 時制要素もほとんど確認される. 特に "内"で表記するソンオマルオミは現在時制外に冠形詞的用法も見えたようで出現分布が中世国語とはとても他の姿を現わした. その外接尾辞 "-i,-o"係の物は派生と屈折の 2種性格をすべて持っていたし動詞語幹が他の語幹と直接統合して複合語を成す現象もあった.
疑問死がいる時彼に互応する疑問語尾が "古"で現われる点は中世国語のようだ. まだ郷歌資料が非常に貧弱でその解読が完璧な水準に至らないのみならずイドムンで確認される文法要素も 30種を超えることができないから, 新羅語の文法や古代国語の文法を全般的に敍述するには不足な点が多い