聖徳太子は、キリスト教徒だったのか。
以下、生誕、治世、死を見てみる。
〇 生誕
聖徳太子がキリスト教徒だったという説の根拠は、聖徳太子が厩戸皇子(馬宿の皇子)と呼ばれていたことである。
イエス・キリストも馬小屋で生まれていたという共通点がある。
ところが、聖書によるとイエス・キリストは実際には家禽小屋、つまり、牛とか羊とかの家畜小屋で生まれている。
このことをどう考えるかが分かれ目である。
ユダヤ人などの遊牧民族は、羊を生贄として神にささげる風習がある。
聖書では、イエス・キリストが自ら大衆を救うための犠牲(生贄)となったことから、生まれも家畜小屋であるという説話ができたと考える。
一方、日本では食べるための牛などの殺傷はケガレとして、身分の低い人がやることと考えられている。
このことと、聖徳太子が良く馬に乗っていたこと(飛鳥と斑鳩間を馬で往復していた)を含めて、日本書紀では家禽小屋を馬小屋に変えたものと考える。
〇 治世
聖徳太子が作ったものとして17条憲法が有名である。これは、ユダヤ教の律法の精神があると考える。
また、外交では、飛鳥より海外に通じる海に近い斑鳩を本拠地としたことから海外に目が開かれていたことがうかがえる。そして遣隋使を派遣した。
聖徳太子が海外に目ざといのは秦氏が太子をサポートした影響が大きい。
秦氏は応神天皇が招いた渡来人であるが、新羅(秦韓)を経由したが、秦の始皇帝の末裔とされている。
ここで、秦はもともと中国の西方の国であり、ローマのことを大秦国ということから、西方キリスト教とも接点があったと考えられる。
秦の始皇帝が統一した中国の漢字において、「犠牲」という漢字は、牛・羊・我・生という部分からなり、「我は生贄として生きる」ということを表す象形文字であり、ユダヤの文化の影響がみられる。
海外に目ざとかった太子だからこそ「日出処の天子」という名乗りができたのであろう。
〇 死
聖徳太子は、蘇我入鹿に殺されたことになっている。
まあ、正史では入鹿のみが悪者にされていることは置いといて、聖徳太子は戦うこともできた。
しかし、あえて戦うことよりも自らが犠牲になることを選んだ。
なので、その死はイエス・キリストを実践したということである。
太子一族も、後を追って滅亡してしまう。
以上見てみると、特に生誕と死において聖徳太子はキリスト教徒であったことは確実であると思われる。
聖なる徳を持った太子という諡号がまさにふさわしい。
法隆寺 聖徳太子の鎮魂のために作られた。