文永の役
二. 元寇への参加
『元史高麗伝』によれば、1)高麗に兵を配置し、国書を以って属国とする、2)まず南宋を攻略し、降服した漢人を以って日本を攻略する、3)高麗軍を以って日本を攻略する、という3案が検討され、モンゴル人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗王世子諶の執拗な要請により容れられず、高麗からの日本侵攻が決定され、元軍22,000、高麗軍6,000、計28,000の兵力を以て日本へ侵攻した。
文永の役(1274年)における高麗軍の士気は高く、博多で日本側と交戦した後、『高麗史』によれば、高麗軍司令官金方慶が戦闘の継続を主張したのに対し、元軍司令官ヒンドゥは撤退を主張し、結局撤退することになったが、モンゴルの他国征服パターンとその兵力の少なさから、文永の役の目的は威力偵察と言われており、ヒンドゥの判断は当然だったと言える。
ここまでで明らかになったのは次の2点である。
3.元の首脳部の間では、まず南宋を攻略してから日本を攻める案が有力であったが、高麗王世子諶の執拗な要請により、高麗から日本へ侵攻すると決定された。
4.文永の役における高麗軍の士気は高く、博多で日本軍と交戦した後、元軍が撤退を主張したのに対し、高麗軍はあくまで戦闘の継続を主張した。
日本再征準備
さて、文永の役後も元は日本に使節を派遣し続けていたが、日本側は使節を処刑するなどして、元の服属要求を無視し続けた。
そんな中、1278年7月、高麗王諶(忠烈王)が元に入朝してフビライ・ハーンに、「日本は一島夷のみ。険を恃みて庭せず。敢て王師に抗す。臣自ら念う。以って徳に報ずるなし。願わくは更に船を造り穀を積み、罪を声して討を致さん。」と申し出、1279年に南宋が崩壊すると、1280年、元は本格的日本侵攻のため、征収日本行中書省(征東行省)を設置し、高麗王諶を左丞相(長官)に、金方慶を管領高麗軍都元帥に任命した。
ここまでで明らかになったのは次の2点である。
5.高麗王諶(忠烈王)自らフビライ・ハーンに、元に従わない日本を「懲罰」すべく日本再征を申し出ている。
6.高麗王諶は、日本を征服するために設置された征収日本行中書省の長官に任命された、即ち日本侵攻の責任者となった。
弘安の役 1
日本遠征軍は東路軍4万(うち高麗軍1万)と江南軍(旧南宋軍を書主力とする10万)とに分れて日本に侵攻することとなり、まず、1281年4月18日、征東行省左丞相高麗王諶が合浦にて東路軍を閲兵し、5月3日、東路軍が日本へ侵攻すべく合浦から出発した。
5月21日、東路軍が対馬沖に達し、そのうちの管高麗国征日本軍万戸金周鼎率いる高麗軍が「世界村大明浦」に上陸して住民を手当たり次第に虐殺して回った。
対馬を屠った東路軍は続いて壱岐を制圧し、6月5日には早くも博多に達し、日本側と交戦したものの、戦況が思わしくないため、6月13日に壱岐に退却して江南軍の到着を待った。
ここまでで明らかになったのは次の2点。
7.高麗から出撃する東路軍を高麗王諶が征東行省左丞相として閲兵した。
8.東路軍のうち、万戸金周鼎指揮する高麗軍が対馬に上陸して住民を無差別に虐殺した。
三.まとめ
以上、元寇における高麗の関わりについて見てきたが、元寇を積極的に推進したのは元ではなく高麗、特に高麗王諶であり、高麗軍の士気も他に比べて(というより高麗軍の士気のみが)高かったことがわかる。故に韓国国定教科書の見解は誤りであり、高麗こそが元寇を主導したとさえいえる。
さて、元寇後も高麗には征東行省が引続き設置され、高麗王がその長官となり、元の勢力を背景として高麗の支配を続け、高麗の高官たちは競ってモンゴル風の名前を名乗り、風俗もモンゴル風が流行したが、元が明によって北方へ駆逐されると、1370年には明に服属した。しかし、明との関係を良好に保つことができず、親明派の将軍李成桂のクーデターにより、1392年に滅亡した。
最後に、高麗が日本侵攻に拘った理由を推測しておきたい。高麗は元の勢力を背景として、その王権の維持を図った。王権が不安定であったから、元の勢力、特に軍事力を必要としており、日本侵攻という目的があれば、有力な元軍を高麗に駐留させることができると考えたからと思われる。そうであれば、日本侵攻が行われなくなった後も、日本侵攻を目的として設置された征東行省が廃止されることもなく、歴代高麗王がその長官に就任し続けたことも理解できるのである。
朝鮮人は責任逃れしないように^^