
中国王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、また朝鮮半島南部に対して間接統制を行った。漢四郡に先立って、紀元前128年に漢は蒼海郡を置いた。漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移ったが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続した。紀元前107年に設置され、高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、平壌の存在した楽浪郡を通じて中国王朝の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、また朝鮮も主体的にそれを求め[3]、中国文明が朝鮮にもたらされ[4]、高句麗の発展は、玄菟郡への服属抵抗が大きな意義を持つという研究があり、楽浪郡・帯方郡の漢人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与した[5]。