平安時代
反りのある鎬造の「太刀」が現れるのは、平安時代中期。まさに武士が出現する、「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)の頃です。戦闘様式が「徒歩戦」から「馬上戦」へと変化し、騎乗して戦う武士にとって抜刀がしやすく、斬って、刺せる太刀は待望の代物でした。栄華を極めた平家の滅亡と共に発展した、日本刀の変化を見てみましょう。
平安時代中期・後期の主な戦い

平将門
794年(延暦13年)に、桓武天皇が都を京都・平安京に遷都したことから、この時代が「平安時代」と呼ばれました。
平安時代中期になると、天皇の強い権力が揺らぎはじめ、天皇をとりまく貴族の中でも、朝廷の職務の中心は藤原氏(平家の貴族)が独占。要職に就けない貴族は武士となり、不満を募らせていきました。
地方農民の中には、大量の米や銭を所有する有力農民が出現。勢力を伸ばして武装し「武士団」を結成します。武士は、この武士団と手を組んで連合体を作り、朝廷に刃向うようになるのです。
平将門(たいらのまさかど)は、武士でありながら桓武天皇の孫にあたる人物。武士団と手を結び、935年(承平5年)、伯父・国香を殺害。939年(天慶2年)に自らを「新王」と称し、関東で朝廷に反旗を翻す「平将門の乱」を起こします。
平氏と源氏

藤原純友
同時期に、藤原姓でありながら、出世の道を絶たれて地方官となっていた藤原純友(ふじわらのすみとも)は、瀬戸内海の海賊を率いて「藤原純友の乱」を起こすのです。この2つの戦を総称して、「承平天慶の乱」と言います。どちらの戦も失敗に終わりますが、地方武士団の強さが明らかに。朝廷は彼らを「侍」として、治安維持に当たらせるようになるのです。
武士や武士団が地方で力を付けていくと、さらに下級武士同士の間で抗争が起きるようになりました。それを抑えようとした2大勢力が、平氏と源氏です。
平氏の平清盛は、1156年(保元元年)「保元の乱」にて、後白河天皇と崇徳天皇の王位継承をめぐる対立を平定。また1159年(平治元年)「平治の乱」にて、院政をはじめた後白河天皇と近臣間の対立も平定し、武家の棟梁として地位と権力を高めました。
しかし、1180年(治承4年)、後白河天皇の皇子の以仁王(もちひとおう)は、その平清盛専制に不満を持ち、平家打倒の命令書を出すことに。この以仁王の命を受けて、源氏である源頼朝と源義仲をはじめ、地方の武士団が兵を挙げ、全国的に反乱が起こるのです。その結果、畿内・西国を中心とする大飢饉や、平清盛の病死などの悪条件が重なって、ついに1185年(文治元年)「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡します。この一連の戦いを「源平の争乱」と言います。
平安時代中期・後期の日本刀
平安時代中期、姿は「直刀」から、太刀へと変化します。

太刀
騎乗して戦う武士にとって、直刀は抜刀しにくく、斬るのが不便という欠点がありました。そこで、反りが付いた太刀が誕生します。茎(なかご)から腰元のあたりで強く反る腰反りで、馬上で抜刀しやすく、刃を下にして腰帯の左側にぶら下げて付けるスタイルに。刃長は2尺5、6寸(75.8~78.8cm)と長くなり、馬上から相手を目掛けてなぎ払うのに十分な長さとなったのです。先に向かって細くなる姿で、鋒/切先(きっさき)部分は小さく、刺突にも適していました。
平安時代後期には日本刀の需要が高まり、作刀に適した良質な砂鉄が採れる地域(伯耆国:鳥取県、山城国:京都府、大和国:奈良県)に刀工達が集まりはじめます。刀工が集団化し、流派が生まれ、日本刀の様式と性能はさらに発展しました。
また、武士の持つ日本刀と貴族の持つ日本刀では、見た目や目的で違いが表れはじめます。
武士が持つ物は、柄と刀身が一体という特徴がある「毛抜形太刀」で、実戦に向けて、衝撃を緩和する毛抜形の透かしが施されています。
一方、貴族が持っているのは「剣」または「飾剣」と言われ、刀装に金銀や螺鈿(らでん)など贅沢な装飾が施され、宝刀として持たれるようになるのです。
平安時代中期・後期の日本刀の特徴
年代935~1184年鋒小鋒身幅細刃長2尺5、6寸(75.8~78.8cm)反り腰反り重ね厚
- 鋒/切先(きっさき)…日本刀の先端部分。
- 身幅(みはば)…棟(むね:刀身における刃の反対側に当たる背の部分)から刃先までの長さ。
- 刃長(はちょう)…棟区(むねまち:上身と茎の境目で、棟の側にある部分)から鋒/切先までの長さ。
- 反り(そり)…棟区から鋒/切先までを直線で結んだときに、棟と最も離れている部分の長さ。
- 重ね(かさね)…刀身の厚さのこと。